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英語学習のスタンス
昔は英語の学習目的は学術文献を読むのが主たる目的でした。しかし、今はコミュニケーションの手段へとウェイトがシフトしています。 それに対し、 “ 何かといえば「コミュニケーション能力」を前面に出す方々がいらっしゃいますが、そういった主張をなさる方々に限って、実際のコミュニケーションなどとれていないことも多々見受ける事象です。困ったものですね。 大学教育でみれば、コミュニケーション能力よりも大切な部分があることすら理解出来ていない。僕のゼミには海外からの留学生もいる関係で時として英語での議論をする場合もありますが、「僕、海外帰国子女ですから英語には自信があります」と称する学生を敢えて指名しても、滅茶苦茶な英単語の羅列に終わり、件の留学生達に尋ねても「彼が何を言っているのか、さっぱりわからない」との回答に戸惑い、その場で炎上してしまう。ましてやテクニカルターム一つすら満足に訳すことができない。逆に留学生達の方が「専門領域に関する知識」を習得しているために、英語ならばこのように、日本語ならばこう表現すれば「適切に内容を伝えることができる」ことを熟知している。そうした「言語感覚と論理性」を身に着けることがコミュニケーションなのではありませんか?” と難色を示している人がおります。 ただ、この発言をした人はシーラカンスのような人だそうで、自分はコミュニケーションが下手なコンプレックスを、海外帰国子女も知らないような難しい英語を知っていることを鼻にかけて埋め合わせしているようにも聞こえます。 そこで質問ですが、現在の英語学習のスタンスはどうあるべきだと思いますか?
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- naomkb
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はじめまして まず、おっしゃっている事を整理しますね。 「昔は英語の学習目的は学術文献を読むのが主たる目的でした」。 つまり、一方向的に、書かれた英語を理解し内容をインプット(受信)できるようにする事が主たる目的だった、という事ですね。 それが最近では 「コミュニケーション」 つまり、自らも英語で発信し、それに対するレスポンスも理解し、そしてそれに対してまた考えを発信する、という事が重要視されるようになってきた、ということでしょう。 yingtao7様の引用の中での「コミュニケーション」あるいは「コミュニケーション能力」についての、定義というか、言葉の使い方が明確ではないので、今一つ、この引用の方の主張が分からないのですが。つまり、この引用文の中で、発言者は最近の「コミュニケーション」や「コミュニケーション能力」の定義について疑問を持っている、という理解でいいのでしょうか? 英語を含む言語は「メディア(媒体)」です。 つまり、情報の受信者・発信者の双方が同じメディア(媒体)を使い、情報を伝え、意思疎通するという事です。 今の時代、世界の多くの人と情報をやり取りするには、英語というメディアを使いこなせるようになる事が重要だと思っています。 そういう意味で、引用の中の 『「適切に内容を伝えることができる」ことを熟知している』 は、情報伝達のメディアとしての英語の習得の基本だと思います。 もしかして、引用文の発言者が提議しているのは 「コミュニケーションやコミュニケーション能力とは、日常会話でのおしゃべりだけではない。大学生であれば、自分の専門分野を英語できちんと相手に伝え、説明し説得し、そして相手の言っている事を受け取れる事も“コミュニケーション” だ」とおっしゃっているのではないでしょうか。 もし、そうであれば、私はその意見に大賛成です。 もし、日常的な事のみコミュニケートできればいい、と思っていれば、それが出来る程度の媒体(英語)を身につければよいでしょうし、日常会話はできなくても、専門分野に関してきちんと外国の人と意見交換できれば良い、と思っていれば、その媒体(英語)を見に付ければそれで十分でしょう。 両方! いや、 ついでに映画の事も語りたい!! 音楽の事も話情報発信したり受信したい!!と思えば、その分野の英語も身につければよいのではないでしょうか。 「帰国子女も知らない単語」とありますが、ネイティブであってもその道の専門家でなければ知らない単語は沢山あります。 それをきちんと身に着けてこその「大学で専門分野を学ぶ人」なのではないでしょうか。 大学生レベルになれば英語で「誰」と「何」を話すか、が問題になってくるのだと思います。 ですので、中高生は、将来「誰」と「何」を話すことになっても良いように、基本を身に着けるのが大切なのだと思っています。
- ninja_ex250
- ベストアンサー率48% (46/95)
米国で12年働いているおっさんです。エンジニアの経験から書きます。 コミュニケーション能力 -- 聞ける、話せる能力 専門領域に関する知識 -- 言語によらず深く考え理解する能力 と定義してみます。個人的な経験から言えば、両者を行ったり来たりしながら英語力はあがっていきました。 例えは悪いかもしれませんが、耳が聞こえず、口もきけなければ何語であろうとはなせるわけがありません。であれば最初に必要なのはコミュニケーション能力でしょう。 一方、日本人駐在員の一部の子供の問題として「完璧な発音で話す幼稚な英語」があります。米国で暮らせば米語の発音は当然完璧になりますが、聞いて話す能力はあっても中身がないのですね。抽象的思考を言葉で表現できるためには知識が必要でしょう。 知識だけでは答えのでない議論になったとき、必要になるのはコミュニケーション能力でしょう。順を追って隙なく積み上げるように話し、予期せぬ質問に対応しつつ相手を説得するには、頭の中で翻訳しながらではなかなか難しいです。 この段階を超えると、あとは専門家としてどれだけ優れているかが重要と思います。また米国の話になってしまいますが、世界各国から集まった人の訛りのある英語を聞くことに米国人は慣れていますから、細かな誤りは重要ではありません。 #そして最後に余計なことですが、言葉は意思疎通のための道具に過ぎない、なんてスカしたことは言わずに、自分の言葉で言いたい事が自由に言える様、コミュニケーション能力をあげたいと思っています。仕事のためだけの人生じゃないですから。
お礼
ありがとうございます。 私は 「コミュニケーション能力」を前面に出す人も、それに対して難色を示す人も結局は正反対なようで実は似た者同士だと思うんです。どちらも、極端な思考に走り強情で他人の意見に耳を貸さない傾向が強く、何が最良なのか考えることを怠っているんですよ。
お礼
ありがとうございます。 私自身、質問の段階でうまく趣旨をまとめられなかったのですが、英語を中国語に置き換えると分かりやすいかと思います。 漢文をいくら勉強しても中国人とはお話はできない。しかし、「ニイハオ」と「シェーシェ」だけじゃ中身のある会話はできない。 でも、どっちが基本かと言えば 後者だと思います。ところが、頭でっかちで石頭の人間は 前者の重要性を力説します。 外国語を覚えるのは、元来そんなにアカデミックなものではないはずです。 でも、一つのお稽古事みたいなものだから、しっかり練習しなければなりません。 また、漢文に戻りますが、漢文でも漢詩というのは非常に重要な要素なのです。 しかし、日本の漢文学習は書き下しが伝統なので その非常に重要な要素を蔑にしてしまいます。なぜかというと、やはり 「ニイハオ」と「シェーシェ」から習わなかったからです。