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韓国と日本の歴史
韓国と日本の歴史の流れをおおまかに教えて下さい。 年表ではなく、文章で教えて下さるとありがたいです。 昔は仲がよかったんですよね?そういうことも教えてくださると大変ありがたいです。 よろしくお願いします。
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隣国というものは本来仲の悪いものです。歴史的に見ても仲がよかったと言えるか疑問です。三韓征伐に始まり対立の歴史だったとみて間違いないでしょう。 日本の歴史と朝鮮の歴史には共通の部分があるようです。大和は百済と、出雲は新羅と共通だったとも言われます。前方後円墳などが両国で見つかったり文化的にも近い関係にあります。 朝鮮は古くは3韓、すなわち馬韓、鞭韓、辰韓に分かれていました。その後、百済、新羅、高句麗、任那日本府などに分かれます。 これらは小国ですし、支那の強い影響下にありました。大国の影響下にあれば介入を受けて、これらの諸国は、その影響をバックに覇権を争うことになります。 日本のクニ同士の争いもその代理戦争かもしれません。百済や任那日本府は滅亡しますが、その系統である大和朝廷は日本において支配を確立します。朝鮮半島には高句麗や新羅の勢力が支配しますが、結局、支那の勢力に取り込まれ属国としての道を歩むわけです。 属国であれば当然、宗主国の影響を強く受け尖兵としての役割を果たすことになります。元帝国の多くの兵が朝鮮の兵であったことはよく知られているでしょう。 応永の外寇といって朝鮮が日本の対馬に侵略したこともあります。 文久慶長の役では明への侵攻を企図した豊臣秀吉の軍勢によって朝鮮は戦場になります。まあこれなどは大国にはさまれた小国の悲哀とでもいうものでしょう。必然的に戦場となる運命だったといえます。 日本と同じく朝鮮は鎖国体制を敷きました。大国にはさまれた小国が生き残るひとつの手段といえます。しかし近代になり西欧列強の圧力は朝鮮半島にも加わります。 米国やフランスなどが開国を迫る動きをしたこともありますが、李氏朝鮮は武力て排撃しました。しかしもはや単独では国を守るのは限界でした。しかもその度に宗主国の清国の影響は強くなります。自国で防衛できない以上大国の影響を受け入れざる負えないのは当然です。 日本はいち早く近代化していましたので、このままでは朝鮮は西欧列強の植民地になってしまう事態を恐れ、征韓論が主張され、朝鮮を近代的な独立国とする必要性が唱えられます。 朝鮮半島でも宗主国の清国の下で権力を維持しようとする事大党や、日本の影響を受けて近代化を図る開明派、そして他国の干渉を排撃し独自の道を歩もうとする東学党などが内紛を始めます。 東学党が指導する甲午農民戦争が起こり、これを鎮圧するため朝鮮は清国の派兵を受け入れます。これは完全に清国の支配を受け入れることになるかもしれない危険な賭けでした。それに対し日本も派兵し、その結果起こるのが明治27乃至28年戦役、俗に言う日清戦争です。 この戦いに日本は勝利し、朝鮮半島は晴れて独立して大韓帝国となることができました。しかし朝鮮内部では近代化に反対する勢力が徐々に力を持ち、特に李王朝の権力を我が物としようとする閔氏一族が、当時、極東に勢力を伸ばしてきたロシアと手を結びます。戦争に勝った日本は三国干渉などを受け西欧列強の圧力は日に日にまして来ました。 そして明治37乃至38年戦役、俗にいう日露戦争が起こります。日本は辛くも負けずに済み、ロシアの勢力は北に下がりました。しかしもはや李王朝に独立を維持する力はなく、日本との間に日韓併合条約を結び日本統治が始まります。それに反抗する勢力が義兵運動などを起こしたり、国際連盟に異議を申し立てたとか、3.1運動などはよく知られているでしょう。その後、反日運動は光復軍や東北抗日連軍などの反日パルチザンを生み出します。 大東亜戦争に日本が降伏し朝鮮半島が日本の統治を離れ、武装解除が行われました。このとき担当をソ連軍と米軍で分けたのが38度線です。これが結局は現在のDMZになります。 日本が去ったあと政権を作る選挙が行われることになりましたが、米ソ冷戦が始まり特にソ連の影響は朝鮮半島に深く浸透し、麗水など各地で共産主義を主張する暴動がおきました。ソ連は東北抗日連軍の金日成という人物を仕立て上げ支配権を確立しようとします。当初、選挙は全土統一して行われる予定でした。特に光復軍の金九はそれを強く訴えますが、米国の後ろ盾で権力を得ていた李承晩は、それを不利とみて、さっさと南半分で選挙をやり、大韓民国を建国します。統一選挙を主張した金九は何者かに暗殺されてしまいます。またこれに対抗して北では朝鮮民主主義人民共和国が建国します。 その後、南の侵略からの反撃との名目で、昭和25年6月25日、突如として北が南侵を初め朝鮮動乱が始まり、一時は洛東江まで占領されますが、朝鮮国連軍が仁川に上陸し、その後一進一退の後、膠着し、昭和28年7月27日、停戦に反対する李承晩を無視して、朝鮮国連軍と北朝鮮の間に停戦が成立します。 しばらくはその後、李承晩が政権を維持しますが、もともと北出身であったり、政権基盤が弱く、米国からも見捨てられ、最後は学生クーデターで失脚し、米国に亡命を余儀なくされます。この李承晩がなんとか政権を維持するため自らに有利な状況を作ろうとして排日的政策を始めたのが現在日韓の関係が悪いことにつながっています。 しかし冷戦下、強力な共産軍と対峙するためには対日関係がこのままでは問題でした。韓国では朴が軍事クーデターを起こし軍事政権を作ります。そして日本との間に日韓共同条約を成立させ日本との国交を回復します。この時代が日本と韓国がもっとも仲がよかった時代かもしれません。特に朴大統領やそれに続く全、慮両大統領は日本の士官学校や満州国軍官学校の出身で、日本軍として戦った間柄だったことも影響しています。 彼らのことを一心会、即ちハナ会とも言います。 しかし朴大統領がKCIA長官に暗殺され、その後、粛軍クーデターや光州事件などがあり、軍事独裁政権が維持できなくなります。 今まで韓国では力のなかった全羅道出身者である金大中が政権を握り、北に宥和的な太陽政策をとります。そもそも韓国では長いこと北との関係をKCIAなどに調査され、朝鮮動乱時には北に渡ったこともあるかなり疑わしい人物です。このころから日韓関係がおかしくなり始めます。今では対米関係もおかしくなり、完全に北の思惑通りになっています。 長々と書きましたが、結局のところ昔から大国の思惑に翻弄された関係といった方がよいでしょう。領土問題も抱えており、とても仲がよいなどとはいえない状況です。仲が比較的よかったのは昭和30年代後半から昭和40年代にかけてで、それも軍事バランスの必要上からのものです。単純に仲の良し悪しで論じられるほど国際関係は単純なものではないのです。
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- mi-si
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時代ごとに書くと、 三韓時代 全く不明です。三國志魏志東夷伝によれば、 朝鮮半島北西部は楽浪郡ですので中国領です。 朝鮮半島は扶余系(高句麗人と同族と言われます)の濊(ワイ)が住んでいたと有ります。なお、扶余系民族は現在消滅しています。 韓国東南部部(旧新羅、加羅地方)に、辰韓(弁辰)、弁韓が韓国南部(旧百済地方)に、馬韓が住み、それぞれの風習や言葉は微妙に異なっていたようです。 済州島にはこれとは全く異なる州胡が住んでいました。 この時代は日本は邪馬台国の時代になります。 三国史記(現存する朝鮮最古の歴史書)の新羅の建国にまつわる記載によれば、建国に倭人が絡んでいる記述があります。新羅は三回姓=王朝が変わっていますが、歴史上認められている金氏新羅も倭人と関わりがるような記載があります。(日本書紀にも新羅王子が但馬に移り住んだ天日槍伝説があります。) 一方百済は、高句麗から分離した国と成っており、支配者層が扶余族で異なっていたと成っています。 三国時代の朝鮮情勢ですが、三国史記には倭が新羅の国境を侵したと言う記述が山のように出てきます。一方高句麗の高句麗好太王碑文によれば倭の属国だったと記述されています。 飛鳥時代においての半島との国家の関係はかなり険悪でして、倭は、どちらかというと百済と同盟関係にあり、新羅とは敵対していました。しかし百済は信用おけないと言う認識で居たようです。また高句麗とも対立していました。 統一新羅の時代になるとかなり険悪な状態でしたが、遣新羅使や返使などが送られており定期的な交流(貿易)は行われていたようです。一方民間レベルでの交易は頻繁に行われておりこれらは壱岐・対馬、北九州などで独占していたようです。 遣唐使廃止後はしばらく日本の鎖国状態が続くため目立った行動は有りません。次に関わってくるのが元寇です。当時の高麗王家もしくはその家臣が日本侵略を積極的に推進したらしいです。 その時大量の壱岐・対馬の民が虐殺されており、また国家情勢が悪くなったため交易がやりにくくなったために倭寇が発生したと言われています。 その後は、高麗はもっぱら倭寇対策に追われます。 高麗は倭寇対策による疲弊と対元、対明外交の失策が元で滅び李氏朝鮮に王朝が変わりますが、倭寇との戦いは李氏朝鮮に引き継がれます。 そのときに起きたのが応永の外寇(1419)です。倭寇征伐の意味合いも有ったようですが、あまり成果はえられなかったようです。結局、中央政府や北九州の守護大名などに倭寇対策を要求するにとどまったようです。(なお室町幕府は地方まで管理出来ない弱体政権です)大体これを境に後期倭寇の時代に入っており、日本人よりも朝鮮の流民や中国人が締める割合が増えていきます。なお中国の明は、永楽帝の死後(1424)、以降海禁政策をとっているので海上貿易する民はすべて海賊です。 応永の外寇以来、朝鮮は、対馬とは三浦(釜山を含む3つの港を)経由して貿易を行い、日本本国とは関係が無い状態が続きます。(李氏朝鮮は事実上鎖国政策をとっており外交権は明にありました。) この関係は1510年に起きた朝鮮の禁輸政策と日本側の三浦の乱の失敗で終焉を迎えます。 以後は、細々と交易が続けられる状態で、豊臣秀吉が明征伐を持ち上げるまで目立った動きは有りません。 秀吉は、朝鮮王朝に明までの道案内を命じ、それを断られると朝鮮仕置きを行いますこれが、文禄の役(1592年)です。秀吉軍は半年でソウル占領までこぎ着けますが、戦線が拡大したため、日本側が補給線が維持できずまた宗主国である明が増援を送ったため結局撤退します。その際の講話の際に明側が「爾を日本国王に処す」と言う条件を提示したため、秀吉は怒り(聖徳太子の時代から日本は中国とは関係ない独立国家と言う認識があります。)、再度出兵を行います。これが慶長の役(1597)になります。この出兵は長期戦を考慮に入れて倭城と呼ばれる城を築城しつつ行われますが、朝鮮に兵を送っていた大名の疲弊と秀吉の死によって終結します。 江戸時代にはいると両国とも鎖国状態に入ったため、交易は対馬-釜山間のみで行われ、将軍の代替わりの時、朝鮮側から朝鮮通信使が送られる状態でした。この時代に起きた問題は、鬱陵島の帰属を巡る問題(1696)ぐらいです。結果的に江戸幕府は鬱陵島の所属を放棄し朝鮮に譲り渡します。なお江戸幕府の認識では今の竹島と呼ばれている島に関しては譲り渡して無いようです。 その後は、黒船来航まで特にありません。 明治維新後の日本政府は、対清、対露(特に対露)政策 を中心にした国防政策をすえ、朝鮮を自立させないと日本が危ないと言う事で、初め、朝鮮を近代国家として自立させる政策をとります。しかし内輪争いや、朝鮮王室がロシアにすり寄るなど態度が曖昧なため、危機感を覚えた朝鮮の一部勢力と日本政府が日韓併合を行います。 後は、戦後の李承晩の李ラインの問題でしょうか? 李ラインとは大韓民国の初代大統領李承晩大統領がここまでが俺の国の領土だと勝手に海図に線引きしたモノでそこに竹島が入っていました為、強制的に武力制圧します(当時日本は武装解除された状態でした)。この問題は今も解決していません。
お礼
ありがとうございました。
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