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源平の時代「天皇家」は「王家」でOK?

大河ドラマ「平清盛」が始まった当初、 劇中、天皇家を王家と呼んでいて話題となっていました。 結論として、どれでしょうか。 1.当時は「王家」と呼んでいた。 2.当時は「王家」と呼んでいなかったが、適切。 3.「王家」と呼ぶのは誤り。 よろしくお願いします。

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  • mekuriya
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回答No.6

答えは3.です。 続日本紀に以下のような記述がある。つまり正解は「皇室」です。大河ドラマ「平清盛」は賊臣が捏造した御伽噺です。 <引用開始> 孝謙天皇 天平宝字元年八月十八日  天皇は次のように勅した。  朕は徳が薄いのにもかかわらず、忝くも皇位を継ぎ、八方の国土に君臨し、今に至ること九年、これまで善い政治もしていない。これについて日も夜も憂いの思いを抱いている。危険な淵に立っているように案じ、薄い氷を踏むように慎重にしている。  ところが去る三月二十日、天の神は我に「天下泰平」の四文字を賜わって、天下の安らかなことを表し、朝廷の運命の永く続くことを示された。  しかるに賊臣である廃太子の道祖と安宿・黄文・橘奈良麻呂・大伴古麻呂・大伴古慈悲・多治比国人・鴨角足・多治比犢養・佐伯全成・小野東人・大伴宿禰麻呂・答本忠節らは、生まれつきの性質が悪くかたくなで、迷った心で悪事に走り、君臣の道を顧みず、鬼神の力も恐れず、密かに謀反の徒党を組み、皇室の本家を傾けようとはかった。しかしことごとく天の咎めを受け、皆、罪科に服した <引用終了> 道祖王は一度は皇太子に立てられながら、不行跡を咎められて孝謙天皇によって皇太子を廃されて、橘奈良麻呂の乱に加担し獄死した人です。

yoshinobu_09
質問者

お礼

ありがとうございます。 具体的な資料の提示で明確になりました。 反対に、「皇室」「皇族」「天皇家」という名称は、明治維新以後に誕生」などというのが都市伝説ですね。 それにしても「王家」というのは、どうやら最近使われだした学術用語らしく、そんな用語を不用意に取り入れる脚本に問題ありかと存じます。 視聴率7%台の低迷は、「王家の呪い」といえそうです。

その他の回答 (17)

noname#175206
noname#175206
回答No.18

「天皇」は「オオキミ」とも「スメラミコト」とも呼ばれました。しかしこの二つの日本語は決して同義ではなく、むしろ両者の質の違い、それぞれの用いられる次元の相違に注目することが、「天皇」の歴史性に近づいてゆくための一項目でしょうね。  まずオオキミは「大いなる君」の意で、キミはまた「カミ=上」と通ずる古来の日常的尊称でした。万葉集の恋歌に女性が相手の男性をキミと呼ぶ例が多いのも、それが親愛をあらわす生活の言葉だったことを示しています。 「胸形君(むなかたのきみ)」「筑紫君(つくしのきみ)」などと地方豪族の地位の称にみえるキミは日常語からの延長で、それをさらに大きく称号化したものがオオキミだと言えるでしょう。ですので、オオキミは天皇だけをさす語ではなく、王族身分の称(額田王(ぬかたのおおきみ)など)に用いられ、さらに一般にとくに尊敬をこめた代名詞として使われた形跡があります。  これに対しスメラミコトは天皇のみをさす尊称で、それは旧来のオオキミに代わって、王権の聖性と尊厳を内外にあらわすべく、6世紀末ないし7世紀初めのころ、とくに定められたものと思われます。  スメラミコトの用例が対外的文書や詔勅といった公式的・儀礼的機会に限ってみられ、歌の中にいっさい出てこないのはこの語の特性に基づくと思われます。  万葉集中の天皇賛歌においても、天皇はやはりオオキミと呼ばれており、これは当時の歌が生活の言語を基本とするための、神聖な権威をあらわすスメラミコトとなじまなかったのででしょう。そこからスメラミコトが日常語とは次元の異なる宮廷専用の、天皇を政治的・宗教的に聖別する用語として機能したと推測できます。  おそらくこの語の成立には王権神授の由来を説く記紀神話の形成が重なっていたと思われます。「天皇」との漢字表記は中国典籍によりますが、スメラミコトの類語に「スメガミ(皇神)」「スメロギ(皇祖)」「スメミマ(皇孫)」等があることに照らせば、スメラミコトは「天皇」の和訓ではなく、すでに先行していたこの語に「天皇」の字をあてたと見なせます。  なお語義に関し「スメラ」を「統(す)べる、統治する」ととるのが従来の説ですが、「スメラ」を「澄める」にもとづくものとし、それにより「ケガレ」の対極にあるところの神聖王権の超越性をあらわしたとの西郷信綱の見解があります。  日本書紀は第1代の天皇を神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)天皇と称し、前660年に即位したと伝えるが、もとより事実ではありません(神武天皇)。 「天皇」号の成立は、かつては7世紀前半の推古朝とする説が有力でした。それは推古朝の仏像の光背の銘に「天皇」の称がみえることや、608年(推古16)に日本から隋に送った国書に「東天皇敬白西皇帝」とあったと、日本書紀にみえることなどによります。  しかし、仏像の銘は後代に刻まれた可能性が強く、日本書紀の文は8世紀の編者の潤色が多くて、ともに信用できないうえ、中国では天皇の語は天の最高神の意に用いられ、地上の君主の意に用いるのは唐の674年(上元1)すなわち日本の天武3年以後のことなので、近年では天武朝より天皇の称号が用いられたとする意見が有力です。  天皇の語の使用以前は、「オオキミ(大王)」と「スメラミコト」の称が用いられたわけです。平清盛在世当時では、天皇という語は確立していて、現代でもよく知られた語ですし、今上天皇への配慮もあってか、天皇という語が成立する以前の時代はともかく、古典や歴史に題材を採ったドラマでも天皇以外の呼称を用いる例は稀でした。  NHKの大河ドラマでも時代考証はしたでしょう。天皇、上皇(さらには法皇)については、特に間違いがありませんし、言い換えもありません。もし、考証せずに「王家」としたなら怠慢ですが、この可能性はとりあえず置いておきます。  そうなると、今年の大河ドラマの平清盛のドラマ、あるいは脚本が何を意図しているかという、時代考証を離れた部分と思われます。  ツイッターで、放映を見ながらの感想ツイートを見ていると、最近は王家という言葉が出て来ても、特に目立った反応はありません。  以下、特に個人色を強めた感想です。  これは、平清盛という武士が「至尊」を、特にその権力を目指しているということが明らかにされてきたからだろうと思います。後白河院から若いころに兆発されるなど、以前から因縁があります。  天皇は祭祀をも司るわけですが、ドラマの時代ですと政治権力は、天皇を退位した上皇(あるいは法皇)が持っていて、治天の君が天皇ではありません。また、清盛が一時的に就いて百日で辞した、形式的には最高官位の太政大臣には、実務権限がないことがドラマ内で示されています。  清盛が欲しているのは、祭祀を司る長の権威ではなく、政治権力の長である上皇(または法皇)であるし、武士という「平民」がそれを欲するということは、元天皇である上皇の地位としての相対化も意味します。  それで、「王家」なのかな、と思っています。最終回に至るまでに、そうしたことは、また変わるのかもしれません。

  • tanuki4u
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回答No.17

そもそも 天皇家という明確な概念がないのに 天皇家のことを言おうとしたドラマのプロット作成のミス。 あるいは、もっと当時の家族制度というかグループ認識に関して、ちゃんと話の中に入れ込まなかったからわからんことになっているんだろうなと。 源氏重代の家人とかいうのも、頼朝なり吾妻鏡が作り上げたものだし、基本は個人同士の主従関係。 平安時代の家制度にしても、院政期くらいにだんだんと出来上がったくらいで、いわゆる天皇家ってのが一番遅かったんじゃないかなぁ。院は院で家政組織があるし、親王は親王で家政組織があったんだから。 で、ついでに 東大史料編纂所の内容ですが。件数だけで云々というのはちょっと荒っぽいかと。 東大歴史編纂所DB(http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/db.html) によれば 「天皇」は、平安遺文で509件、鎌倉遺文で1213件。 上記内容に関するコメント ※ 原史料に近いものですので、読み込みが必要かと。 「皇帝」は、平安遺文で97件、鎌倉遺文で139件。 「朝廷」は、平安遺文で67件、鎌倉遺文で56件。 「皇家」は、平安遺文で4件、鎌倉遺文で17件。 永和3年2月9日(13770020090) 1条 【綱文】懐良親王、筑前富永荘地頭職を高良山社に寄せ、皇家の隆運を祈らせらる、 これの原文コピー画像を見ると 王家ノ衰運ヲ興起センコトヲ祈ル。 という説明の後、漢文で 相當王家衰微之時者、 とあります。 「朝家」は、平安遺文で62件、鎌倉遺文で230件。 ↓ 頼朝家人 などの全文検索で 朝家 が検索されている。 「朝家」という単語ですと 治承3年3月1日 天下泰平朝家安穏ニ 厳島野坂文書 というような史料があるようですが、「天下泰平朝家安穏」というのは、天下≒朝家 泰平≒安寧 という修辞的な対句表現と思われる。 あるいは 寿永1年8月4日 事被抑留、是非一司之訴訟、已朝家之陵遅、 東大寺文書四ノ四十一 素直に読めば、これ、一司の訴訟にあらず、已に朝家の陵遅なり。という感じで、朝家≒国なり公 という感じです。 あるいは 正中1年10月13日 2 綸旨を下して、備後神崎莊を高野山遍照院に還休し、朝家の安全を祈らしむ、 朝家というのは、帝国大学の資料の説明文章であり、元の原文は漢文で 「聖朝安全、ー天氣如此、」であって、朝家は原文にはない。 史料整理の段階での説明文章で 朝家 がでてきて 原文が 聖朝 戦前の整理者が 聖朝=朝家 と認識しており、当代の朝廷や天子を敬っていう語として使っているに過ぎない。 なので 朝家≒天皇家 とはできないかと。 「王家」(「親王家」以外の用例)は、平安遺文で0件、 鎌倉遺文でも仏教との対立軸での日蓮上人など数例が存在するのみ。 ↓ 懐良親王の史料では、南北朝期になるにしても、皇家ではなく王家としている。

  • jkpawapuro
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回答No.16

天皇皇帝は天皇を表す言葉ですし、朝廷は政府を表す言葉だから皇室とは違うとして、朝家の62件は多いとは言えないものの無視もできない数字ですね。これは一つ参考になりました。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.15

そもそも1,2,3が背反事象になっていないから、議論に拍車をかけてますね。 1不明 記述としては王家王氏等王にまつわるものが多い。 2学術用語としては適切だが、劇中として当時の人間に発言させるにあたって適切とは言い難い。 ただし適切ではないものの最適(疑わしい多くの候補の中では最も正解である可能性が高い)であるとは思われる。 3正解かどうかわからない。ただし現在の知見からすると王家が誤りであるとするならば他の言葉もすべて誤りであろう。 平安時代は末期まで皇室内での争いに様々な権門がそれぞれに肩入れして争う時代で、皇室まるごとと他の勢力を比較するような時代ではなかったんですよ。○○天皇・○○親王・○○院などが争う状況で、王権丸ごとと他の勢力が争ったりのとったりって発想がなかったため、現代の皇室にあたる言葉がなかったんです。(清盛がはじめてそういった時代を作ったため、そもそも清盛が生み出した状況に対する該当する言葉が無い。) そんな中正式な(当時広く使われる)言葉が無い中で、王権や皇室にあたる言葉を各自が適当に王氏であったり王家であったり適当に使ったにすぎないので、はっきり言って正解はありません。 私もこの質問を見て熱くなってる人がいるのに驚きましたが、明治時代に作られたイデオロギーの影響がこういった議論に強く出るようですね。当時の状況を考えれば、そもそも正解なんてないんですよ。皇室だか王家だかに対するイメージが我々と全然違うんですから。 なお皇室の皇の字は、外交上中国の皇帝に対抗するために用いられた文字です。 それ以外の時期は基本的に王の文字ですね。 明治時代以外でも中国と対等な国交を求める時代状況では用いられておかしくありませんが、遣唐使が長く途絶えていた平安末期にはなじまない表現と言わざるをえません。

yoshinobu_09
質問者

補足

ありがとうございます。 >現代の皇室にあたる言葉がなかったんです。 当時「朝家」や「皇家」という言葉がなかったと考えているのですね。 【皇家】こう‐か。皇室。帝室。また、天子。(広辞苑) 【朝家】ちょう‐か。帝王の家。帝室。皇室。ちょうけ。(広辞苑) ネットで検索してみると次のような興味ある記述がありました。 東大歴史編纂所DB(http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/db.html) によれば 「天皇」は、平安遺文で509件、鎌倉遺文で1213件。 「皇帝」は、平安遺文で97件、鎌倉遺文で139件。 「朝廷」は、平安遺文で67件、鎌倉遺文で56件。 「皇家」は、平安遺文で4件、鎌倉遺文で17件。 「朝家」は、平安遺文で62件、鎌倉遺文で230件。 「王家」(「親王家」以外の用例)は、平安遺文で0件、 鎌倉遺文でも仏教との対立軸での日蓮上人など数例が存在するのみ。

  • izuhara
  • ベストアンサー率31% (97/310)
回答No.14

既に回答しましたが、「王家」が史料に出てくることを見過ごしていましたので、それについては訂正します。もっともここで議論になっているように、その「王家」がどの範囲を指すかは一概には言えそうにありません。 繰り返しますが、大河ドラマで使用された「王家」は学術用語です。史料に出てくる「王家」ではありません。権門体制論という学説の中で、現在のいわゆる皇室に相当する家を武家・公家・寺家と対比するためにつくられた言葉です。 詳細はwikiの「権門体制」を確認してください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E9%96%80%E4%BD%93%E5%88%B6 議論に決着はついていないにしろ、「王家」は学会では浸透している学術用語です。 歴史研究の進展と一般の歴史認識の乖離がひどい中で、学術用語「王家」を使用したことは、大きな意義があると思います。NHKがそこまで考えていたかどうかは別として(「王家」に限らず補足説明が根本的にない)。 まあ、一部の人には納得いかないでしょうが。まあ、そんな方々には「王家」という言葉よりも、ドラマで生々しく表現されている「王家」の人々の描写の方が問題なんじゃないかと思うのですが。脱線しました。失礼。 あ、ちなみに私は権門体制論不支持派ですので、。

  • mekuriya
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回答No.13

>「任伯之日復干王氏。是近例也」とあり、当該個所の書き出しは「昔者緒氏混任。或又大中臣氏任之」などと、神祇伯の任用についての記述なんです。最近の例として王氏が任ぜられるということで、王氏は皇族といった意味でしょうかね。いずれにせよ、現在考えられる皇族と同範囲を「王氏」と親房は表現しているかと… どういう頭からそういう屁理屈がひねり出せるのかと。臣籍降下した元皇族に与える官職がなくなってきて神祇伯にでも任用して遇するほかなかったということを親房は表現しているのです。そういう一族を王氏と呼んでいる。それがどうして皇族と同範囲になるのかと。どうして、そういうアホな論理をひねり出してまでNHKを擁護せにゃならんのかと。

回答No.12

一応、回答した責任から少しだけ他の回答者様に意見させていただければ<m(__)m> 「皇室=王家という解釈が成立するとはいえないわけです」 との部分ですが北畠親房は『神皇正統記』の他にも、優れた業績がございます。そのような中で『職原鈔』上。冒頭により近い神祇官。特に伯についてのくだりなのですが、原文のままで申し訳ございませんが 「任伯之日復干王氏。是近例也」とあり、当該個所の書き出しは「昔者緒氏混任。或又大中臣氏任之」などと、神祇伯の任用についての記述なんです。最近の例として王氏が任ぜられるということで、王氏は皇族といった意味でしょうかね。いずれにせよ、現在考えられる皇族と同範囲を「王氏」と親房は表現しているかと… そして皇族の範囲をより限定して「皇室」とした場合に「王家」と表現する可能性。いわんや、『神皇正統記』における王家といった記載は「天皇権威」ないし「内廷権威」広義における「皇族」と理解するのが自然だと思うのですが… 「親房はそう思っていただろう…」などの抽象的な論議をここでするつもりはございません。ただ、理性的に判断した結果として、先の回答を提示した身にあっては、釈然としない、場合によっては言いがかりに近い意見を賜り、どうしたものかと途方にくれております。 ちなみにNHKと僕は、受信契約をしている以外に、あまり深い関わりはないので、中傷に似たご意見は遠慮いただきたいというのが率直な感想です。

  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.11

北畠親房は国政権、統治権といった概念を「王家の権」と表現したのです。 松平定信が「大政」と呼んだ概念です。国政権、統治権とは何ぞやといったところで時代によって必ずしも同じではありません。明確な定義も固有の名称もはっきりしない漠然とした概念というしかないんです。そういう用語の一部を切り取って皇室がそう呼ばれていたなどと決め付けることは牽強付会の極みというしかない。言葉はデリケートなものです。現代人が「王家」という言葉で連想するイメージと当時の王家に表現されたイメージは果たして同じものなのだるか。それが最重要な論点なのではないでしょうか。古代では朝廷が国政権、統治権を持っていたのが常識だったが、それが中世では怪しくなってきていて、国政権、統治権を新たな用語で表現する必要に迫られたというのが北畠親房の苦心だったのではないでしょうか。そういう時代認識があれば、皇室=王家という解釈が成立するとはいえないわけです。実際に皇室と関係ない勢力が、国政権、統治権を揮っているという現実はおかしいというのが、北畠親房の主張の根幹だったはずなのです。 そういう考察の姿勢も見せず、ほらあったあったとばかりにNHKを躍起になって擁護したい人たちっていったい何なのだろうか。私はそう思うのです。

回答No.10

#9です 連続回答で失礼します<m(__)m> 『平安遺文』http://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E9%81%BA%E6%96%87 「治承二年六月紀伊国大伝法院衆徒解案」 「夫王家之為王家、在仏法之擁護、仏法之為仏法、任王家之帰依」 と出ていますね。治承二年といえば、1185(いいはこ)作ろう鎌倉幕府の少し前です。

yoshinobu_09
質問者

補足

ありがとうございます。 同時代の資料で「王家」があったのですね。 「神皇正統記」では時代が下るので、納得しかねていたのですが。 となれば源平の時代に、「皇室」「王家」と両方使われていたということになります。 まだ不明なのは、「王家」の概念が、現在で使う次のどれに近いのかということ。 1.「天皇」 2.「皇室」 3.「朝廷」 「王家」が「天皇」を指さないのなら、「天皇」はどう呼ばれていたのかという問題も出てきます。 「帝(みかど)」などと呼ばれていたとしたら、「帝」と「王家」と使い分けをすればよかったわけです。 「王家」が「国王」の意味ならば、皇帝より格下となり、皇家を侮辱したことになるという意見も出ています。 後白河天皇を「日本国王」と称した宋からの書面に朝廷が憤慨したという話もあります。 しかし幕末には勤王家や朝廷側から「王政復古」という言葉が出てきたことを勘案すれば、「王家」が必ずしも蔑称とはいえないでしょう。 しかし一般の認識としては「天皇家」と「王家」は別のものです。 【王家】おう‐け。帝王の家。また、その一族。また特に、神祇伯白川家の称。(広辞苑) 【王家】おう-け。王の家系。また,王の一族。おうか。(大辞林) 王家といえば「王家の谷」を想像しますし、 白川家は神祇伯に就任してからは王氏に復するのが慣例であったことから「白川王家」とも呼ばれたそうです。 なじみのない「王家」をドラマであえて使う必要があったのかが問われていることになります。

回答No.9

当時の日記などがすべてで、またその例はすでに出ているようですから、少し見方を変えてみましょう。 『神皇正統記』という書物をご存知でしょうか? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%9A%87%E6%AD%A3%E7%B5%B1%E8%A8%98 南朝の重鎮である北畠親房により記された、天皇の歴史とそれに伴う過去の政治形態を論述し、南朝の正統性や君主のあるべき姿を説いた、中世を代表する史論です。 『神皇正統記』「人」には、平清盛についても論述されております。一部抜粋してみましょうか? 「これより清盛天下の権をほしきままにして、ほどなく太政大臣にあがり、其子大臣大将になり、あまさえ兄弟左右の大将にてならべりき〈この御門の御世のことならぬもあり。つゐでにしるしのす〉天下の諸国は半すぐるまで家領となし、官位は多く一門家僕にふさげたり。王家の権さらになきがごとくになりぬ」 こんな具合です。ですから平安期の日記類などにも「王家」や「王氏」などの記述が見えることは、直ちに不遜不敬な言葉ではなかったのでしょう。現に、時代は下りますが「大日本は神国なり」といってはばからない北畠親房にして「王家」と表現しているのですから。