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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:社会を明るくする運動)

社会を明るくする運動

このQ&Aのポイント
  • 挨拶の大切さと地域犯罪の関連性
  • 放射能におびえる主婦達の署名運動と世界大会
  • あいさつの積み重ねが明るい社会の形成につながる

質問者が選んだベストアンサー

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  • marbleshit
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回答No.1

素晴らしい出来映えです。 ただ不自然な改行が目立ちますね。 現在の世の中ははっきり言って暗いことばかりです。 例えば殺人、強盗・・・ 原因はいったい何なのでしょうか。 私はコミュニケーションの不足だと思います。 そのコミュニケーションを増やすためにもあいさつなどは有効です。あいさつで第一印象が決まるからです。さらに、話している時の目線、表情、姿勢、声の大きさ、言葉遣い、すべてが第一印象に残ります。 だから、あいさつは基本的な礼儀、そしてコミュニケーションの入り口になると思うのです。 小学校のころ私は恥ずかしがってこのような挨拶はできませんでした。 だけれど、私は挨拶を始めました。地域犯罪の対策であいさつを積極的に行っているのという内容のテレビ番組をたまたま見たのがきっかけです。挨拶というものが地域犯罪を減らすことを知ったからです。私自身も犯罪というものがいやでしたので、挨拶はあまり気が進みませんでしたが、少しでも努力していきたいと思いました。 挨拶が、地域犯罪を減らすことに効果を発揮しているかどうかはわかりません。 ただ、このようなちょっとした行動力が社会を明るくするんだろうなと自分は考えました。この前、社会の授業で、1954年のビキニ沖での水爆実験のことを学びました。近くにいたの第五福竜丸の乗組員も被爆し、その被爆者達の姿がマスコミで取り上げられ、多くの日本人に衝撃を与えました。しかも度重る核実験で 放射能を浴びた魚が出てきたそうです。 その結果魚屋で魚が売れなくなったり、おすし屋さんが閉まったりしたそうです。 その結果、放射能を含んだ雨までが日本各地に降り注いだそうです。恐ろしい話です。 そんな放射能におびえる日々に我慢が出来なくなった主婦達が立ち上がり、原水禁の署名運動を行うようになりました。主婦達は政党の党員でもなければ、ユニセフなどのNPOの職員でもないし、どこかの宗教団体の会員でもない。ごく普通の主婦達でした。 こうした動きは全国的に広がり、やがて翌年に1955年8月6日広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれ、実にたくさんの署名が集まりました。その署名は日本国内だけでなく、 世界各国からも集まったそうです。また、その大会には中国やアメリカの首脳も駆けつけたというから驚きです 日本のごくふつうの主婦達がはじめた運動が、世界に広がったことは本当に凄いことだと思います。 その授業をきいて一つの行動が積み重なれば何でも変えられると思いました。 私達人間は一人では生きてはいけないのです。社会の中で人との関わり合いの中で迷惑や心配をかけることもあるでしょう。 でも挨拶さえきちんとできていたら、 大概の人間関係は円満にいくと思うのです。挨拶は相手対する気づかいでもあるのです。さらに、あなたの存在を大切に思っていますよというメッセージだと思うのです。 挨拶というたった数秒のコミュニケーションだけれど、積み重なれば人と人のつながりが深まり、自分を気遣ってくれる人が現れ、心にゆとりが生まれ犯罪を起こそうなんて思わないはずです。 だから、どうせなにも変わらないよみたいなことを思わないで積極的に挨拶をしてほしいなと思います。 そうすれば世の中は今よりももっと明るくなるはずです。 さらに私はこれからも、世の中を少しでも明るくするために少しずつ努力していきたいと思います。 はい、私も見習って頑張りたいと思います。

mayumi93
質問者

お礼

お褒めの言葉をありがとうございました。

その他の回答 (4)

  • TANUHACHI
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回答No.5

 一読して感じたのは女子中学生それも学校秀才タイプが先生に好まれることを意識して書かれている様な印象です(不快に感じられたならばごめんなさい)。  さて本題に入ります。 (1)論点が途中で変わってしまっている(意図的にすり替えている)。 (2)筆者が自らの意見を述べる根拠と主題の関係が不明確。 (3)原稿用紙の使い方に関する細かい部分ですが、字下げが全てに関して適用されていない。 (4)改行が不自然。  以下具体的に検討していきます。 (1)および(2):筆者が問題として立てているのは「社会状況が暗い」との問題であり、その具体的事例として犯罪の増加を挙げ、解決の糸口として「あいさつ運動」とその効果を提起している。  この部分が先ず問題あり、です。「社会状況が暗い」との問題に対し、果たして本当に暗いといえるのか。それだけが原因で社会に翳りを落としているのか。そして筆者が指摘する部分に原因の多くがあるのかは一言として説明されていません。この部分に「説明」がほしい。その具体的な根拠としてのデータが示されていればオーケーです。  そして唐突に第五福竜丸がビキニ環礁で被爆した史実と核廃絶運動の発端が出てくる。これはなぜなのか。関連が不明確です。少なくとも70年代およびそれ以前に中学・高校で教育を受けた世代やその親の世代ならば誰でも知っている事実です。それを大迎に採り上げる必然性がどこにあるのか。これに関しても一言の説明もない。 筆者としては「社会に於けるコミュニケーションの意義」を強調したいとの意識を読みとって欲しいとの解説が寄せられることは容易に想像がつくが、文章は相手に「読んで貰う」性質を持つ以上、そこには相手に対しての働きかけが必要です。  途中からテーマが変わっている(文章が捻れている)ことは致命的です。「あいさつ運動と核廃絶運動が持つ共通項」に関する説明がない。以上を念頭に置いて一つの書き直した事例を僕なりに考えてみました。 >先日、とある音楽を聴いていての出来事。タイトルは井上陽水の『傘がない』だった。「都会では自殺する若者が増えている」とのモノローグの形で始まるこの作品を耳にして、僕はふと今の世相に思いを巡らせてみた。  一つの物語に登場するのは、文中には出てこないが「僕」とそして「君」だけである。この「君」はガールフレンドかもしれないが、同時に「僕の言葉を聴いてくれる誰か」かもしれない。新聞の片隅に載っていた小さな記事と僕の関係を少しばかりうがった物の見方で解釈するなら、もしかしてこの「僕」がこれから自殺する前に別れを告げに行く相手のことを暗に示しているのかもしれない。  福井県の東尋坊は自殺の名所としてつとに知られているが、岬の突端よりも少し手前に一つの電話ボックスがあり「もう一度だけ考え直してみて?」とのメッセージが記されているともいう。  「いのちの電話」と呼ばれるこの試みはイギリスで1953年に端を発する運動であり日本では1971年に始まるという。  当時のイギリスは経済不況下にあって若者を含めての失業率が高く、自殺や犯罪の増加率に象徴される社会問題も多発していた。そんな中にあって改めて見直されたのは直接に「人と人を結ぶ」コミュニケーションツールとしての電話だった。受話器の向こう側には黙って自分を受け止めてくれる人がいる、との安心感から相当数の人が救われ、救われた人が今度は人の言葉を聴く役回りに付くことで相互扶助の連鎖が生まれ「言葉が本来的に持つ可能性」が改めて見直された象徴的な出来事だった。  現在でこそメールやツイッターといったデジタルメディアが従来のメディアに取って代わるかの様に普及した感がある。  がしかし、昨年の東日本大地震に際して人々が何よりも知りたかったのは先ずは家族の安否であり自分が無事にいることを家族に知らせたい、それも肉声で伝えたいとの切実な思いでありそれを具体的に示す「言葉の遣り取り」が本来的に持つ機能に本能的に反応した出来事だった。声を聴くことで人は安心もでき不安にもなる。 この場合では安心が先ず選ばれた。そのために数多くの人が公衆電話の前に長蛇の列をなしていた光景を今でも思い出す。  さて、メディアとしての「声」が持つ一つの事例として「いのちの電話」の話をしたが、古くは手紙にしたためた和歌などに相手に対する切ない思いを込めて遣り取りしていた事などを僕は古典の授業で学んでもいる。  ラブレターを贈るにせよそこにはなにがしかの洒落や風流がなければ相手からは見え透いた下心を疑われてもしまう。そんな時に使われたのは季節を表す草花の名前を歌に詠み込むなどの手法だった。今でいえば枕振りでもあり、切っ掛けを探るための挨拶程度の涙ぐましい努力にあたるのだろう。  手紙やメールは特定の相手に対しての遣り取りとはなるが、もしこれが見知らぬ人に対しての切っ掛けと考えるならばどうだろう。「いのちの電話」では一度の面識もない相手との遣り取りであり相手が不特定との意味から見れば、むしろアマチュア無線の呼びかけ言葉としての「CQ.CQ」にニュアンスは近いかも知れない。見知らぬ相手であっても呼びかければ聴いている誰かが必ず応答してくれる。こうした遣り取りは挨拶に近いとも考えられる。満員電車の中で両手に一杯の荷物を抱えたお年寄りがいたら、誰かが必ず席を譲る光景を目にする時、世の中まんざら捨てた物ではないなとのささやかな感慨もこうした言葉が具体的になった形から受ける確実な印象もしれない。「ありがとう」「いいえ、お気になさらないでください」自然な言葉の遣り取りは何と心地の良い瞬間だろうと思い、自らもそうした機会に巡り会えたらと、僕は「言葉が醸し出す可能性」を信じたい。  『傘がない』は、傘を持たずに相手に会いに行くとの結末で幕を閉じる。この主人公が果たして無事に相手に会うことが出来たかは記されていない。  以上ですが、質問者様の作文では「コミュニーションを図る事が社会のあり方を変える」との思い込みがいささか強く出過ぎている感じがします。それも悪くはないのですが、読み手に対する説得力があるかと問われれば薄い感じが否めません。読み手に「読ませる」ことを目的とするなら、そこには「具体的な裏付けとしてのデータ」が示されることが求められます。書き手の主張を一方的に並べ立てても読んで貰えない。それでは意見の押しつけと変わりません。こうした点で文章の最後に記されている決意表明などは避けた方が読み手の印象としては好印象となります。  言葉を恃むおじさんからの勝手で下手くそな感想でした。

mayumi93
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 参考にしたいと思います。

  • zant
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回答No.4

No.2の補足に回答します >その文の後に 理由は核家族化や夜遅くまでの両親の共働きによって親や家族との会話する機会が減っているからですと書こうと思うんですがその場合はどうでしょうか? いいんじゃないですか? ただそれだけだと繋がらないし、まるで「核家族の家庭が犯罪者を生む」と言っているようにもとれるので 理由は核家族化や夜遅くまでの両親の共働き「、地域のつながりのうすれ」によって親や家族「、地域の人」と会話する機会が減っ「たため、そこに犯罪者が紛れこんだり、つけこもうとする」からです みたいな感じにしたほうがいいと思います。

mayumi93
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 そうしてみます。

回答No.3

 内容はとりあえず気にせず文章として重箱の隅を。 >現在の世の中ははっきり言って暗いことばかりです。 「ばかり」というならばそれしかないという意味になってしまうので「暗いことが多い」でいいのでは。 >そのコミュニケーションを増やすためにもあいさつなどは有効です。  以降にあいさつ以外の手法を取り上げていないので「など」は外してよい。 >あいさつで第一印象が決まるからです 「。」が抜けている。 >また、話している時の目線、表情、姿勢、声の大きさ、言葉遣い、すべてが第一印象に入ります。  直前の「あいさつで第一印象が決まる」と矛盾しませんか? 「話している時」でなく「あいさつの時」では。「第一印象に入る」というのもわかりにくい。「第一印象を決める要素になる」という意味でしょうか。 >小学校のころ私は恥ずかしがってこのような挨拶はできませんでした。  ここ以下もそうだけど「あいさつ」と「挨拶」の表記が混在。統一したほうがいい。 >地域犯罪の対策であいさつを積極的に行っているのという 「行っている」のあとの「の」が余分。 >挨拶が、地域犯罪を減らすことに効果がでているかどうかはわかりません。  その前の「挨拶というものが地域犯罪を減らすことを知ったからです。」と矛盾。「私一人の」などをつけて個人の行動が影響しているかわからないという意味にしては。 >しかし、このようなちょっとした行動力が社会を明るくするんだろうなと自分は考えました。この前、社会の授業で、 「この前」以降は別段落としたほうが適当ではないかと。 >近くにいたの第五福竜丸 「の」が余分。 >放射能を浴びた  慣用的には使われているが「放射能」は物質ではない。物質とするなら「放射性物質」。こういう風に使ってしまうと「ああ、放射性物質について理解せずイメージで話しているな」という印象を与えてしまう。 >やがて翌年に1955年8月6日広島で 「やがて」はなくてもいいし「翌年」のあとの「に」も不適当。削除するか「の」に変更。「に」をいれるなら「8月6日」のあと。 >第1回原水爆禁止世界大会 が開かれ、実にたくさんの署名が集まりました。 「開かれるまでに」のほうが文章の繋がりがいい。 >あいさつは相手対する気づかいでもあるのです。 「相手”に”対する」 >あなたの存在を大切に思っていますよと思うのです。 「あなたの存在を大切に思っていますよと」と「思うのです」の繋がりが不自然。口語調を混ぜるのも繋がりが悪い。「~思っていますと伝えているのだと思うのです」あたりの意味でしょうか。 >あいさつというたった数秒のコミュニケーションだけど積み重なれば人と人のつながりが深まり、自分を気遣ってくれる人があらわれ心にゆとりが生まれ犯罪を起こそうなんて思わないはずです。  ここだけ文が長い。他は基本短く区切っているのだからそのようにしたら。3~5個には分割できるはず。 >どうせなにも変わらないよみたいなことを思わないで  口語調混じり。「よ」を無くしても意味は変わらない。 >積極的に挨拶をしてほしいなと思います  上と同じく「な」は無くても意味は通じる。また、このあとに「。」が抜けている。 >今よりももっと  違う単語の繋がりで同じ文字が並ぶとまとめて認識してしまう。「も」を一文字抜いても意味は通じるのでそうしては。 >また私はこれから、世の中を少しでも明るくするために少しずつ努力していきたいと思います。  あいさつの効用を主題とするならば、 「私はこれからも世の中を少しでも明るくするためにあいさつを続けていきたいと思います」 と締めたほうがすっきりするのでは。あいさつ以外の行動もしたいというのなら、その内容に具体性がないし。

mayumi93
質問者

お礼

アドバイスありがとうございます。 その点を修正したいとおもいます。

  • zant
  • ベストアンサー率25% (7/28)
回答No.2

あいさつ運動の趣旨は不審者の監視です。 もし怪シイ人がいたとして、「こんにちは」と声をかけたら その人は「監視されている」「見られている」と思うはずです。 あいさつをするには、顔を見ないとできませんからね。 そうなると犯罪を起こす気がなくなるのです。 この作文の場合、 「犯罪」の「原因」が「コミュニケーション」だと述べられていますが、 「なぜそう思ったか」が述べられておらずかなり無理があるように感じました。 ここは単刀直入に「あいさつはとても大切だと思います」 等というふうに書き出しを変え、それにともなって序盤をまとめていくといいと思います。 「小学校のころ私は~」以降はだいたい良いんじゃないでしょうか。

mayumi93
質問者

お礼

全ての回答者の方の回答が、素晴らしかったので、私にはとても優劣 が付けられません。 大変申し訳ありませんが、一番最初に回答をいただいた方をベストアン サーにする事にします。

mayumi93
質問者

補足

> あいさつ運動の趣旨は不審者の監視です。 それはそうなんですが、今回はあいさつ=思いやり、気遣いでいきたいのです。 >この作文の場合、 「犯罪」の「原因」が「コミュニケーション」だと述べられていますが、 「なぜそう思ったか」が述べられておらずかなり無理があるように感じま した。 その文の後に 理由は核家族化や夜遅くまでの両親の共働きによって親や家族との会話する機会が減っているからですと書こうと思うんですがその場合はどうでしょうか?

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