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死んでから気が付く なんだそうだったのか。

なんだそうだったのかと死んでから気が付く事ってどんなことがあると思いますか。  亡くなる人と気が付く人は同一人物であなた自身とします。 亡くなってから気付くことはできないという矛盾がありますが、 そこは気が付く事ができたとした場合としてお答え下さい。

みんなの回答

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.11

死は定義にすぎない、ということかなー。

1114711235
質問者

お礼

上手い。

回答No.10

死んで三日目に気づくこと:「こんなにも大勢の方々が私の死を悲しんでくれるのか!」 死んで三年目に気づくこと:「誰一人として、私の存在を必要としていなかったのか!」

1114711235
質問者

お礼

意外な驚きですね。

  • miko-desi
  • ベストアンサー率19% (69/352)
回答No.9

いやー自分はこんなに嫌われてたんだ、とか こんなに想ってくれてた人が居たんだ、とか 実にどうでもいい存在だったんだ。でしょうね。

1114711235
質問者

お礼

何と無く真実を知るというわけです。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.8

そんなもの、無い、と願いたい。

1114711235
質問者

お礼

あくまで仮定です。

noname#194996
noname#194996
回答No.7

それは決まっています。わたしにたいする客観的な評判でしょう。 棺のふたが閉まったあとでそのひとの真の価値が定まるといわれますから。 悪口も批判も褒め言葉もすべて聞きたいと思います。 真か偽かはもちろん私自身が決めますが。

1114711235
質問者

お礼

聞けたならの場合ですね。

回答No.6

 《本質》と言った時点で 《無ではない》と言ったことになると分かること。

1114711235
質問者

お礼

難しくて解りません。

回答No.5

本質は無である事。

1114711235
質問者

お礼

噛み砕いてお答え下さい。 素人ですので。

回答No.4

 こんばんは。  例の《阿 Q 》は 処刑されて死んでから 自分は死んだんだと気づいたんだったような。  これは 作者と阿Qとの人間関係を映していると見ます。  作者――魯迅とか言いましたか――は 要するに無知で阿呆な人間が気に入らないのです。だから いいように作品の中で殺したい。そういう願望がはたらいたのではないかと見ています。  つまりは 阿Qにあたかも代表されるような《阿呆人間》からしてみれば 存在を鼻から否定されているわけです。  そうとも知らず魯迅は――よほど阿呆であったのでしょうか―― 阿Qをころす場面で とうとう 阿Qからあたかも仕返しをされたかのごとく 死んでから死んだときづいたという事態として書かざるを得ないはめに落ち入った。  つまり阿Qは 作者に対して人間のいのちのとうとさを知らしめるというようなかたちで 静かに死んでやった。ということだと思われます。そのように書かなければ 阿Qの死を作者は書けなかった。《にんげん》の勝利です。  ★ 亡くなる人と気が付く人は同一人物であなた自身とします。  ☆ という条件を満たしているかあやふやですが この話を思い出しました。

1114711235
質問者

お礼

ありがとうございます。

noname#194289
noname#194289
回答No.3

何事も体験しなければ本当にわかったことにならないとすれば氏はまさにその一つだと思いました。案外睡眠というのは、その亜形かもしれないと思いました。睡眠を体験している間睡眠は意識されない。

1114711235
質問者

お礼

やはり矛盾した質問でした。

回答No.2

生きていることが幸せなんじゃないかなって思います。 大嫌いな勉強もイライラして仕方なかった家族関係や友達関係、中学生なのでまだ分かりませんが仕事など...。 すべてがとても大切に思えるんじゃないでしょうか? 死んだことないので分かりませんが^^ 面白半分では死んだ世界ってこんなだったんだって思うかもしれないです♪

1114711235
質問者

お礼

皆イメージでしかわかりませんね。

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