- ベストアンサー
後北条氏と鎌倉の関係
- 後北条氏の創始者である伊勢宗瑞はなぜ本拠を鎌倉ではなく小田原に定めたのかについて考えてみましょう。
- 後北条氏が鎌倉との関係をどのようにして築いていったのか、鎌倉の位置づけとはどのようなものだったのかについても考察していきましょう。
- 小田原の要害堅固さと鎌倉の天然の堅固さの中で、なぜ後北条氏は小田原を選んだのか、また鎌倉の歴史や勢力圏も考えてみましょう。
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
小田原を本拠に定めたのは氏康です 氏康は戦国一の民政家としても有名なぐらい 民を大事にした人です 鎌倉は狭くて広大な城と城下を築くには不向きな土地です 小田原は鎌倉に比べて守りは低いですが氏康はその分小田原城を強固に改築し城下ごと堀で覆う 当時としては珍しい城作りをしています 戦になった時 城下の民を犠牲にしてでも篭城するという一般的な考え方があった時代 氏康は民を守るための城作りをしました 現に小田原は難攻不落の名城と呼ばれ 武田信玄や上杉謙信が攻めても落ちなかった城です 関東制覇を目指すうえで西に偏りすぎと書いていますが 現に氏康は関東を制圧しています 秀吉に小田原を落とされたとき すでに氏康は死去していて当主の氏政には氏康ほどのカリスマ性は当然ありませんでした しかし城攻めの天才と呼ばれた秀吉でさえ小田原を落とすのに二十万という大軍を使っています 氏政が愚かでも氏康が作った小田原城がいかにすごかったかがわかります さすが戦国三強の一人ですね
その他の回答 (4)
- ennalyt
- ベストアンサー率29% (398/1331)
秀吉から富裕な地、東海道の駿遠三を取り上げられ、 家康は関八州を押し付けられた。 その頃の江戸は何にも無かった。 戦国なら守りやすい山城が常識のなか、 あんな平地というか、日比谷入江を埋め立てたから海抜ゼロメートルか、 そんな所に城をこしらえるなんてねぇ。 平地だったから八百八町が栄えたというのは、 もっと後。江戸時代になって参勤交代が始まったからです。 武家屋敷の経済を支える人間が大勢必要で、喰っていけたから。 ということはご存知の上で発言されてるんですよね。。。。 しかし回答者の皆さん、よく研究されてるなぁ。
お礼
東海道支配時代の家康の石高; 駿遠参甲信五カ国せいぜい120万石(奥信濃は除く) 関東入府後の家康の石高; 伊豆及び関東6カ国220万石(武蔵67万石が最大で小田原のある相模などたった19万石)
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
鎌倉って 海岸から鶴が丘八幡まで 1キロ 江戸城の周囲がマラソンコースで4キロメートル = 直径1キロメートル程度 つまり、鎌倉のあの平野の中には江戸城しか入らない 江戸の街は作れない それくらい狭くて防御だけの土地が鎌倉なのです。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
鎌倉 こんな不便な場所はないですよ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%87%E9%80%9A%E3%81%97 上の写真が、鎌倉の切通しですが、上記のような通路でしか鎌倉に入れないのです。 戦国時代の大名の本拠地は、交通の要地です。 行政の根拠地と考えた時に、鎌倉はありえない。 ※ 宗瑞は韮山城で氏康から小田原ちゃう?
- ennalyt
- ベストアンサー率29% (398/1331)
西すぎるとお考えですか。 関東が栄えるのは17世紀以降ですよね。 当時は東海道の方が開けてたんじゃないですか。
お礼
ご回答感謝します。なるほど戦国期の関東は確かに未開の地であったのでしょう。でも旧北条領をそっくり貰った徳川家康は関東の後背地・江戸の地に開幕しましたよ。
お礼
ご回答有難う御座いました。戦国関東の攻防戦を見ると砂漠のオアシスの争奪戦を連想してしまうのは私だけでしょうか。広大で起伏の少ない関東平野に散在する城(兵站拠点)を抑えた者が補給戦を絶対的に有利とし、その拠点に附属する広範囲な地域を勢力圏に組み入れる。結局関東を制したのが小田原を始め相模・武蔵・上野のオアシス拠点(要城)に親族衆を入れ直轄経営をした北条家であったのは必然であったのかもしれませんね。