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知的障害者の価値を一般人と同列に置くには
つまり、人間全ての人の価値を同列に、尚且つ、動物と人間を区別する。 これを可能にする今でも否定されていない考え方というのもので知られているもの、もしくは持っている方はいますか? 知的障害者といっても曖昧な言葉ですから基本的に理性側の欠落が大きい人達とします。 平均的な知的障害者と平均的な知的障害者でない人たち(一般人)の対比みたいな感じです。 感情論や人間性云々は何も生み出さないし、回答として不適切ですからご遠慮ください。 また、宗教の教義に基づく理論展開もご遠慮ください。 同列に置くといっても社会的価値にかぎらず。 実存においてなのか、社会においてなのか、、、各回答者様によってどの見地において価値を明確にしようとしているか明確にして話していただけると助かります。
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- kurinal
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314h様、こんばんは 彼らは、素晴らしい。 身体障害者や、高齢者、同列に置くには? >「つまり、~と人間を区別する」
- ukiyotonbo
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人権は否定されません。 これは人権否定の否定だからであって、それはごく自然なものであるため、直接その根本を問うても答えはでません。 人権というのは人権を無視してきた歴史の集大成ですから、人権否定の具体例が無数に存在するわけで、 これらの人権否定の否定から人権の概念が浮き彫りにされているのです。 ですから、生存、自由、平等、名誉、財産・・などなどを「決して侵してはならない」という言い方になるわけです。 -
お礼
人権は否定していません。 広辞苑より→実定法上の権利のように剥奪されたり制限されたりしない そして人間が人間として生きるためにある権利であり、侵されてはいけない、生まれながらに持っている社会的権利というだけですよね。 私はそれとは別に人間存在による価値ということを問うているわけでして、優生思想とも違いますし、ただのモノの見直しです。 経緯をザラっと話せば、真理を追求しようとした結果、神の存在証明の不可能性と哲学的不条理の道を歩み始めたことから、必然的にこの問題が非常に難しい問題として私の前に立ちはだかりました。(これで少しわかってもらえますかね) それに人権は侵さない限り考察は自由ですし、すべきだと思います。 それこそあなたに従って言うなら私にも人権があるわけですから。 確かに漠然とした問なら考え方も多種多様で答えは出ないかもしれません。 しかし私はまるで数学の解のように前提条件を幾つか並べておりますし、ドグマをすべて排除しろともいっていません。数ある人権に対する答えの中から、ここに収まるものはありますか?というのが今回の問です。 それでもあなたは答えが出ない問だと思われますか? もしそう思われるのであればもし話してくださるのであれば、なぜそう思われるのかなどなどを具体的に教えていただきたいと存じます。 ご回答ありがとうございました。
- yuniko99
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実は私も障害者です。私の思考では障害者の意味は 可能性が少ない。能力に劣るということです それを補うことができればいいですが 知的障害者はその作業所の話をよく聞くのですが。 仕事のできる人はまだいいですが 全く出来ない人も多いそうです。 出来る人の仕事でも 新聞紙をたたみ続けるとか カウンターに立ってるだけとか 知ってる知的のパン工房では美味しいパンを作りますが 能力は健常者に比べるとずっと落ちます 他の障害もそうですが能力が欠損しているのです 可能性が少ないのです。 でもこの世にも調和と言う在り方があります。その可能性を集めて目的の方向につないでいけば マイナスになる人はいません 逆にどんなに能力や可能性があっても不調和な良くない あるいは悪い方向に力が働けば 能力が強いほど悪いです。 従って 知的障害者の価値を一般人と同列に置くには 持てる力を目的(私の思想で 存在性・・)に向けてプラスに置けば その力はけして無駄にならないでしょう。つまり人間の価値・目的を知ってつながれば問題はありません(能力が少なくても)
お礼
わざわざそういったことを告白されてまで理性的に質問にお付き合い頂き感謝します。 >でもこの世にも調和と言う在り方があります。その可能性を集めて目的の方向につないでいけばマイナスになる人はいません。 確かにそうかも知れませんが人間が常に良い方向に向かう傾向があるというならプラスの度合いが価値になるので、知的障害者の平均<それ以外の人の平均 という図式が成り立ってしまいます。 悪い方向に向かうというなら知的障害者の平均>それ以外の人の平均となりますがね。 これがフラットなら=で結べますが現実ではフラットと言うことはまずないでしょう。恐らくどちらかに傾きがあります。 すなわちこの考え方では人間が悪い方向、良い方向どちらに向かっているのかわからないため、どちらも同じような確率で存在すると考えると期待値上=になると言うことはできます。 ですが、実際はどちら方に偏っているためそういった期待上の=とするのは詭弁にすぎないと思われるわけです。 >その力はけして無駄にならないでしょう。 無駄にならないものは全て価値があったとしてもそこに差異はありますよね? そこに差異を認めないなら、動物と人間の境目が曖昧になってしまいますし、これは質問で上げた条件に反するように思われます。 ご回答ありがとうございました。
- hekiyu
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人間の特徴は理性にある。動物にはこれが無い、ないし乏しい。 人間と動物とでは価値が異なる。 異なる理由は、理性の有無である。 理性の有無によって人間と動物とは異なる存在とされ 価値も異なる。 なら、人間でも理性の無い、もしくは乏しい者は 動物と同じ価値しかないのではないか。 ということですね。 この問題、私は価値論から攻めるのがよいと思います。 価値というのは、他のなにかと関係した概念だと 思っています。 知的障害者で説明しますと。 1,母親にとっては健常者の他人よりは価値がある でしょう。 2,社会にとってはどうでしょう。 一見すると価値が無いようにも思えます。 しかし、ハンデがある人の存在は、社会の抱えている 問題をクローズアップするのです。 障害者の為に造られた施設の多くは、健常者にも 利益をもたらす場合が多いのです。 彼らの研究や治療は、人間の探求理解にも 大きな貢献をしています。 フーコーやフロイトは精神異常者を調べて成果をあげました。 彼らの存在は、私たちに優しさを教えてくれます。 動物ではこうは行きません。 このように考えますと、人間にとって、知的障害者は健常者と 同等の価値を認めるべきだと思います。 パキスタンだったかな、障害者が生まれると、悪いモノは全部 この子が引き受けてくれた、と考え、大切にするとか。 仏教にも似たような考え方があると記憶。 錯覚かもしれないが、確率論的に納得できるような。
お礼
>ということですね。 前の質問でも答えて下さいましたっけ?前の質問ではそうでしたね。 今回も大体同じなのですが、どうしても私の考えている条件を満たす思想が見つからないものですから、外部に求めようとした次第ででもあります。 >母親にとっては健常者の他人よりは価値があるでしょう。 これは健常者の母親と障害者の母親を比べるべきじゃないですか? そしてそこに差異を認めることはできないように思われます。 > 障害者の為に造られた施設の多くは、健常者にも利益をもたらす場合が多いのです。 具体例、もしくは費用便益分析のようなものでもう少し具体的に教えて下さい。 >このように考えますと、人間にとって、知的障害者は健常者と 同等の価値を認めるべきだと思います。 なんだかあなたの話を聞いていると誤解かもしれませんし、悪気はないですが感じたままに言うと実験動物(良く言えば研究対象)としての価値に思えてしまいます。 ここを考察して考えたんですが、人間というのは自ら目的を持って生み出すが、動物というものは何も自発的に生み出そうとしないですよね。 ここに人間!としての価値があるように思うのですがどう思われますか? >錯覚かもしれないが、確率論的に納得できるような。 そういった考えは社会の統一や道徳の観点で素晴らしいですね。(仏教国ブータンに代表される幸福の概念) ご回答ありがとうございました。
- Y Y(@yy8yy8az)
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人間“全ての人”の価値を同列に・・・・・ 同列、とは同じ、等しい、という思いで使ったのでしょうか。 広辞苑から (1)物事の役に立つ性質、程度。経済学では・・ねうち、効用。 これに依れば、すべての人の価値を同列に置くことはできない。 (2)〔哲〕「よい」といわれる性質。 「わるい」といわれる性質は反価値。広義では価値と反価値とを含めて価値という。 これに依っても、すべての人の価値を同列に置くことはできない。 感情論や人間性伝々に関わってこそ、314hさんが望むような適切な回答が得られるのではないでしょうか。 実存としての答えは、宗教的世界に踏み入ってしまうように思います。
お礼
>感情論や人間性伝々に関わってこそ それだと人間の価値はお互いに価値を認め合うものがいるから存在するのであって(なぜなら人間は共通的な部分を持たないものは理解できないから)人間単独で見た場合には価値を持たない。 といったことになってしまいませんか? それに誤りに陥りやすいでしょうし、個人差もあります。 誤った結論からはなんでも演繹可能ですからね。 >実存としての答えは、宗教的世界に踏み入ってしまうように思います。 やっぱないんですかね? 例えば不完全だとは思いますが、人生は無意味であり、主体が最も大切であるため自己の幸福の最大化を目指すことが一番の目的となる。故に理性の欠如はその目的の実現に向けて無意味となる。 そして人間には自由意志があるが、動物にはない。よって幸福の最大上限の有無によって動物より人間が優れているといえる。 であるからして我々は動物と人間の差異をみとめ、知的障害者=一般人という図式を認め無くてはならない。 これに近いような論とか展開できるんじゃないかなとも思ったんですが、この名大に関して矛盾なく仕上げることは不可能なんですかね。 訂正しておきますが、私がこの質問を通して得たかったのは望むような回答ではなく、私の行こうとしている、哲学的不条理を受け入れる道を歩むとしたらどういうことになるか?ということに関する断片的知識です。 ご回答ありがとうございました。
- 雪中庵(@psytex)
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どのような障害者も自ら望んでそのように生まれたのでもなければ、何かの罰でそのようなハンデを与えられた訳でもありません。 いわば事故です。 事故ならば、保障するのが筋です。 何がなくとも自然法があり、基本的人権の保証は、なされねばなりません。 これは、社会生命としての人類という種の「自然」法であり、他種の動物への敷衍(かわいそう)は、当人の感傷の限りのものです。
お礼
>事故ならば、保障するのが筋です。 誰の責任でもないといいますが、社会が保障するときに痛みを負いますが社会的に見ればそういった保障は行われるべきでしょうね。 そこは理屈ではわかります。 しかしあえて彼ら個人の価値に迫るとどうなるのか?と聞いているわけです。 もしやわざと質問に答えまいと(答えるべきでないと)しているのでしょうか。
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お礼
彼らが何をさして言っているのか、 >「つまり、~と人間を区別する」 とはどういうことか。 もう少し具体的言ってもらえないと理解が及びません。