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宗教と哲学は同じものですか?

それとも異質なものですか? もし 異質であるとすれば 違いは何処にあると思いますか? ・

みんなの回答

  • abc2008
  • ベストアンサー率17% (7/41)
回答No.12

哲学と宗教の違いとしては、先ず哲学は帰納的アプローチを取り、宗教は演繹的アプローチを取ることかと思われます。つまり、哲学というものは世の中の様々な諸現象をいろいろな角度から考察し、その求める真理や核心等を導き出そうとするものですが、宗教になるといきなり核心というかその本質を説き明かし、それがどのように社会や我々に影響を及ぼすかを説き教えようするものです。   それで哲学というものは、その手法は科学に似ていて真理の追究や物事の探求等の信じるに足る確証を求め続ける学問であり、いわば文系の科学みたいなものかと思われます。それに対し宗教は、先ずはその説かれた核心を信じることから入り、それによって得られる物心共の現証により、その説かれた核心の確証を求めていくものです。それで信じる対境としての本尊というものが必要となるのですが、つまりは崇めるべき対象物が有るか無いかの違いもあるでしょう。早い話が、哲学に何らかの本尊が付けば宗教になるということかと思われます。 このようにアプローチの仕方には顕著な違いはありますが、真理を捕らえようとする点では、似通っていて、大体、哲学の哲も宗教の宗もその意味するところは同じであり、どちらも大本とか根源等を表していて、ですから、真理を積極的に学ぶ(能動的)のか、ただ教えてもらう(受動的)のか違いもあるかと思われます。

回答No.11

三毛猫です 珍妙解答者である 皆さんの解答をよんでおもったのですが 科学が発展すればするほど 科学と合わない宗教は合理性を失っています 中世の欧州では 教会が政治と一体化して 科学 医学 思想 すべてが 暗黒 となりました 魔女がり 彼女たちは元来 シャーマンで 民間療法士だった 今でも欧州の田舎では私は魔女となのる女性は多く 魔女祭は今でも行われていて 観光にもなっています。 キリスト教は他の思想を弾圧してしまった。 キリスト教同士でイギリスでは 今でも 殺し合いが行われ 子供が 今日は3人殺した こんなアホな話はあるか 教義が違うなら 創価学会が行った 法論対決 小樽問答に代表される様に 対話に寄るべきだ。 異教徒は殺してしまえ プラトン も ガリレオの地動説も 解剖も 否定 世界は創造主のみ アホか 私はキリスト教の悲惨なる歴史を見ると 支離滅裂だ 科学の発展と一致しない 宗教は 認められない 仏教の法華経は物理学に近い 生命哲学の極致。 科学と一致しないのは信の宗教ではない 私はキリスト教を否定する。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.10

西洋哲学と言われるものは、キリスト教から 生まれたものです。 神が人間を創った。しかも己に似せて、特別な 存在として人間を創ったのだ。 なら、人間を創ったことに対して、神は特別な 意図があったはずだ。 その意図とは何だろう。 人間存在とは何か。 こういうところから、哲学が発生したのです。 だから、宗教と哲学は同じものではありません。 異質でもありません。 宗教は哲学のお母さんです。

agripapa
質問者

補足

キリスト教発生以前に西洋に哲学と呼べるようなものはなかったのでしょうかね? 珍説ですなww ・

回答No.9

広義の哲学(科学を含む)の対象は「あらゆる智」(sophia)であり、それらの智に対して「愛(情)」(philos)をもって接しようとする姿勢にこそ「哲学」という概念の根本があると思います。 ただし「智」が先にあるのではなく、「情」が先にあって、「智」を求めようとする(愛そうとする)のが「哲学」だと考えます。 「愛そうとする(求めようとする)」というのは、「特定の智に対する溺愛」や「特定の智への固執」とは異なり、対象(智)の向こう側へと貫いていく方向性(動的な動き)になるでしょう。 このあたりの概念は、「超越的概念」と「超越論的概念」といった対比にも相当するでしょう。 よろしければ、 http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/4597/@geoboard/348.html を参照願います。 それに比して「宗教」は、発足当時は哲学と同様に「情」が先にあって「智」が出来上がってくる過程もあったでしょうが、「宗教」として確立した段階で、「智」(ないし「智」に相当する「教義」・「教祖」)が先にあって(信者となりうる人々の)「情」が後からくっついていく状態になるでしょう。だからこそ「信じる」という事態に陥るのでしょう。 狭義の哲学の場合には、「○○の哲学」と限定される場合が多く、既に「智」が静的に規定されたものを扱うことが多いので、上述の定義を援用するなら、宗教と同一になります。

agripapa
質問者

補足

旧約聖書的に言えば 確立された宗教はバベルの塔でしかない可能性もあるわけだが 宗教暗黒時代のガリレオが観察と科学的視点から、それでも地球は回っているといったようなブレイクスルーは 別の宗教によってなされる? なんか違うな... 止揚は哲学的態度によってなされる のではないか? その違いはどこにあると思いますか? ・

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.8

 ♯3の方の補足。 「宗教は何に対して疑問を持たないで哲学は何に対して疑問を持つのでしょうか」との疑問に対し 例えばハイデガーが『存在と時間』および『ニーチェ』において考究した「人間を時間軸としてまた思索や文化の総体的結実としての『ヨーロッパ』のなかで理解したならどうなるか」との問い掛けに対する検証が行われねるが、宗教にはそうした検証はありません。専ら「信じろ」として疑うことをタブー視します。もっともそうするしか宗教にはできないのでしょう。  「哲学」は哲学することであって、批判的にテクストを読むことに始まり自らの思索の萌芽を志向する学問です。

agripapa
質問者

補足

世界は一つの信仰宗教で成り立っているわけではない。 一つの方向に方向付けられた意識の中で何かが検証されたからといって、それが真であると検証されたと言えるのでしょうか。 意識の異なる 洋の東西であり 一生物種に過ぎない中で という意味になり... 宗教暗黒時代にガリレオがそれでも地球は回っているといったように 認識は天地が逆転する場合もある のかな? ・

回答No.7

かつて、世界における人の知り得る領域が狭かった頃、 宗教が哲学であり、科学であった時代があった。 人智の及ばないものを無理やり分ろうとしたり、あるいは 人力の敵わないものをなお何とかしようとする(祈る)ため には、全知全能の第一原因が便利だった。 しかし、科学が発達するにつれ、宗教的世界観にとって 不都合な事実を発見するようになり、異端として宗教から 追い出され、次いでその科学の更なる発達において独立 した世界観を成すようになって、哲学もそちらに引き寄せ られて宗教から離れた(宗教的世界観は、科学や哲学で 明らかになっていない陰に潜む日陰者になった)。 「科学も哲学も信仰に過ぎない」という指摘には一理あり ますが、その内面的志向には大きな違いがある。 物理的事実を正確に理解し、そこから生きる方法を導き 出そうとするか、心理的な整合性(安寧)を優先するか。 (物理)科学>哲学>宗教(心理)

agripapa
質問者

補足

科学が信仰に過ぎないという表現は聞きますが 哲学が信仰に過ぎないというのは聞いたことがないな... ところで 科学の領域の 量子論は宇宙のすべてを表現し得るとでも思ってるのでしょうかね? ・

回答No.6

西田公昭先生 の マインドコントロールが宗教の答えかも 自身の考えとは別に一定の方向に思考が 引きずり込まれる。 必ずしも悪いとは限らない 自身を昇格する時には必要性がある。 宗教とは マインドコントロール 三毛猫の珍妙解答。

回答No.5

 こんばんは。  【Q:哲学と宗教の違いはどこにあるか。。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7002904.html    ☆☆ (回答No.3) ~~~~~  エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。  その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。    言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。そういう意味でも 表現は自由なのだ。このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。  ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われたとも言い得る。その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツワリという嵐に遭い 難破することも生じ得る。  こうなると 自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たとえば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。――《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわった自由意志とその自由がある。したがって 表現の自由は そこに同時に 表現した内容についての答責性を帯びることになった。  このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思考として――この自由を 仏性とも神の霊とも言った。これは 非思考として《信仰》と呼ばれる。  この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ずであるにもかかわらず 人間の言葉で思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。    神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っている   ならば――つまりは へそを曲げウソをつくのではあるが これをあ   やまちとして気づくときその自由に留まるならば―― ひとは ひと   を殺すこともなければ むさぼることも裏切ることもなかろう。  といった規範を得る。  この規範を どう思ったか 《殺すなかれ・むさぼるなかれ・姦淫するなかれ》という戒律としてまた道徳として 神の霊に代えて崇拝するやからが現われる。つまりそのときこれを神のおきて(法)として 説き始めたのが 《宗教》である。  一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしらえ この規範道徳と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌(さば)こうと言うのだ。  やがてこれが権威とさらに権力を持つようになると――つまり それにあざむかれて従う阿呆な人びとがいるということだ(欺かれるなら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰り広げるようになる。宗教は 個人の信仰の自殺行為である。  《科学》は哲学をさらに詳しく問い求めたものである。それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分立しうると考えられるからである。あるいは どの人の思考や行為であるかにはかかわらず ひとしく認識しうるモノ・コトの世界がそれとしてあるとなれば この世界をやはり分立させそれに対しては 自然科学という領域を 設定している。  《芸術》は これらの定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に表現の自由を追求する人間の自己表出および自己表現なる行為である。ゆえに手段は 言葉に限らない。哲学に通じる人間の真実――あるいは 稀には科学の問い求める経験的な世界の真実――が描かれていると人が感じ得るなら よいものだと言われる。  ~~~~  ボケたの?

回答No.4

宗教は哲学の実践的 形態である。 仏教哲学大事典より

agripapa
質問者

お礼

もしくは その逆の言い方でもいい... ・

agripapa
質問者

補足

それが哲学のすべてを言い表してますか? ・

回答No.3

全然違いますよ。全く逆。 宗教は疑問を持たないことが基本、哲学は疑問を持つことが基本です。

agripapa
質問者

補足

ほう.. 宗教は何に対して疑問を持たないで 哲学は何に対して疑問を持つのでしょうか ・

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