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「眠そう」 「おいしそう」

ある日徹夜で麻雀しました。 私の同僚が先輩に「眠そうですね。」と言ったところ、 先輩は「眠そうじゃなくて、眠いの!」と言いました。 ある日のグルメ番組で女子アナが料理について「おいしそうですね。」と言ったところ、 大物男性タレントは「おいしそうじゃなくて、おいしいの!」と言ってました。 この点「~そう」に、一見~にみえるけど、実はそうでもない要素がある可能性を暗示しつつ 「~そう」と言っていると、そういう意味合いがあるならば、「~そうじゃなくて~なの!」という返しは 成り立つと思いますが、当事者ではない為に、また当該事項をまだ経験していない為に、 実体験上ではなく外見上そう見えた、そう思った場合に、「~そう」という言葉を使うのだと 思いますので、上記のごとき返しの方が言葉の使い方を誤っているように思えます。 (なお伝聞の~そうとは、別の話と理解して下さい。) ということで、眠くみえるある人の状態を、当人でない人の側がそう見たならその段階で 「眠そう」の表現は妥当でしょうし、まだその料理を味わってない人の側からしたら、その段階で 「おいしそう」という言葉を使うのは間違ってないと思われます。 それを「~そうじゃなくて、 ~なの!」と返す人は、自分主体でしか物を見れず、「自分は眠いんだ」 「自分は既にその 料理がおいしいことを知っているんだ。」という視野の狭い見解から物を言っているにすぎず、 相手の立場からしたら「眠そう」「おいしそう」で、言葉の使用として何ら問題ない点を見落として いるように思えます。 しかも同じ方向性、同意の内容のはずなのに、相手の言葉を否定し 自分で言い直すわけですから、なんのこっちゃという印象です。 それともこれらの言葉のやりとりは、ボケとツッコミのように、定型的に、「~そうじゃなくて ~なの!」と返す言葉遊びのような言葉の交換の例なのか?  あるいはこのように返す人も あながち間違ってはおらず、「本人でもないのに眠そうとか言うな。 実際眠いんだ!」  「味わったこともないくせにおいしそうとかなんか失礼な奴だな。 実際おいしいんだ!」と 言う人の方が適切なケースもあるのでしょうか?    私には自分を主体にし物の見方しかできないパーソナリティー、了見の狭さ、空気が読めない 傾向等を感じます。 「眠そうですね。」と言われたら「うん。 眠いよ。」と返せばいいでしょうし、 「おいしそうですね。」と言われたら、「おいしいよ!」と返せば場は和むと思います。 これらにつき感じたところ、アドバイス等頂けましたら幸いです。

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  • key00001
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回答No.6

ある種の「お約束」の言い回しと言いますか、「言葉遊び」でしょうね。 まず国語的には、「眠そうじゃなくて、眠いの!」は、間違いと言って良いと思います。 「眠そうですね。」は、動詞「眠い」+助動詞「そうだ」(様態)です。 主旨は言うまでも無く、動詞部分です。 従い本来は、質問者さんが仰る通り、肯定的に「うん。 眠いよ。」などと返答すべきです。 それにも関わらず、敢えて助動詞部分を「ではなくて」と、否定している形です。 それゆえ「言葉遊び」として成立するのでしょう。 一方では、本来は肯定文であるべき内容を、「ではなくて」と言う完全な否定形で返しており、否定されて嬉しい人は少ないので、受け手の印象を悪化させてしまう可能性がある、危険な「言葉遊び」ですね。 「言葉遊び」には、「軽口」とか「地口(語呂合わせ)」,「(駄)洒落」など、色々ありますが、「眠そうじゃなくて・・」は「軽口」の部類に該当するかと思います。 とは言え、軽妙な言い回しなどで、相手に「上手い!」と思わせたり、笑いを誘わねば「軽口」は成立しません。 「眠そうじゃなくて、ホントに眠いんだよ。膝枕してくれる?男同士でキモいけど・・」くらいまで言って、相手を笑わせたら「軽口」ですけどね。 ぶっきらぼうに言いっ放しじゃ、相手を不機嫌にするだけの表現になってしまうリスクがありますよ。 「軽口」の言い回しだけは知ってて、「本質は判ってない」と言うところじゃないでしょうか?

thomasparr
質問者

お礼

>本来は肯定文であるべき内容を、「ではなくて」と言う完全な否定形で返しており、否定されて嬉しい人は少ないので、受け手の印象を悪化させてしまう可能性がある、危険な「言葉遊び」ですね。 言葉遊び説には一応同意ます。  おっしゃる通り、否定されて嬉しい人は少なく、 受け手の印象を悪化させてしまう可能性があり、言う側にとっては危険、言われる側にとっては 正直不愉快な言葉遊びです。  遊びというのは本来楽しいものであって、この場合全く楽しくない 以上、「言葉遊び」のカテに入れるのは私は合点がいかないため、一応同意という表現をしました。 ですが格上の側が格下の側を遊んでるという意味で、「言葉遊び」といっていいかもしれません。 >「軽口」の言い回しだけは知ってて、「本質は判ってない」と言うところじゃないでしょうか? これ同意ですね。 ところで宗教の教祖に新しい見学者が来た時は、否定の言葉は殆ど使わないと 本で読んだことがあります。 たとえばアメリカで宗教教団を開いた教祖のところに、ロンドンから 来た人に問いかけつ場合、「ロンドンは曇りの日が多いそうですね。」と問えば、実際ロンドンは 曇りの日が多いため、Yesで返事することになります。 否定する必要が生じないため、何か自分を 理解してくれる人間であるように錯覚し、またそうした教祖の問いに肯定形で答えるの会話を重ねる ことで、従順な上下関係を築かせる言葉のテクニックであると。  相手より実力あるなり、先輩なりの立場をいいことに、相手の言葉に常に否定形から入る癖のある 人は、いつか反撃してやるみたいな種を心に植え付けている行為、言葉の本質が分かっていないという ことになると私も思います。 上記教祖の例のように人を利用するために言葉のテクニックを駆使する ということでなくとも、普通に要らぬところで相手に反発の種を植え付ける必要はないと思う次第。  ましては本質問は、「そう」の字義・使用法に反してまで、あえて否定形から入った微妙な例と 思います。 その微妙と感じる私の感覚を、皆様にお聞きしたのが本質問の趣旨でした。 御回答有難うございました。

その他の回答 (7)

  • TANUHACHI
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回答No.8

 「言葉遊び」と自嘲気味にいいながら文法的な説明をし、~すべきと仰る回答者の方がいらっしゃいますが、後から取って付けた説明ですね。文法が始めにあるのではありません。文法は「取り敢えず」の約束事にしかすぎません。これでは質問者が前提とする「~すべき」の論理と同様で「こうでなくてはならない、他は許容しない」との評論にしかすぎません。  それが正しいとの決定的な論拠は何処にあるともないともいえない。精神医学者であり哲学者でもあるK.ヤスパースの言葉は暗示的です。曰く「言葉は思考の家である」。  法律や学術の言葉は正確に読み取ることが求められますが、一般の会話や文学の言葉には厳密さがさほど要求されません。ですからそこに「言外のニュアンス」「行間を読む」などの幅が生まれることになります。  ところでこの質問者がどの様にお考えになっているのか、やつがれは早く知りたいところです。それによって話は新たな局面を迎えることも予想に難くありません。

thomasparr
質問者

お礼

>「言外のニュアンス」「行間を読む」などの幅が生まれることになる その大前提として、共通認識の文法があるのではないですか? 文法を軽視してニュアンスや行間を 読みあうことを是としたらテレパシーで交信し合わなくてはいけません。 そんな能力は普通の人は 持っていないのです。 とはいえ相手の言葉にある背景を読む力は大切です。 それでもお互いが「はっきり言わなくとも 分かれる。つーか分かれよ。」と要求したらとんでもない社会になります。 それこそ甘え、 わがまま、自我の押し付けではありませんか? ミスコミュニケーションを避けるために、言葉は極力 多くの人が認める文法に基づいて正しく使う努力を普段から心がけるべきなのです。 なお相手の言葉の行間を読んだ結果として、「おいしそうじゃなくて、おいしいの!」などと言う人に 質問本文で「自分を主体にし物の見方しかできないパーソナリティー、了見の狭さ、空気が読めない 傾向等を感じる。」と書いたわけです。  ですが実際当該人物に空気を読んだ対応を求めもしないし、反論もしないと。 ただ言葉を受け止め、この人はそういう人物と評価を下すのみ。  他の回答者へのお礼で私がある習い事の先生をしていると書きましたが、私事ですが大人の生徒もおり、 私から低い人物評価を下されたら、損するのは実際その相手でもあります。 とはいえ表立って相手に 不利益を与えたり、言葉で中傷したり等の子供じみたまねは致しません。 この点、ある(私の内心で 人間的に低評価を下していた)生徒が、ある日「私と同じ分野の先生として近い将来生計を立てたい」 との希望を打ち明けました。 本人ノウハウもまだなく、明らかに私のサポートを必要としています。 「頑張って」と声は掛けましたが、実際本当に彼が手がけたら、手助けは一切しないつもりであると。 それは過去の彼の言動から、私に協力する気を起こさせないからです。 つまりシンプルに先生と生徒 という関係以外ではお付き合いしたくないと。 まして同業者なんてなっぴらであると。 それこそ過去に彼の発した言葉から、私が行間・ニュアンスを読んだ結果からです。 それを相手に 伝え改善を促すこともできますが、例えば文法の認識からして異なる認識を持つ、コミュニケーション の成り立たない異なる惑星の住人に説明したところで無益・無駄、もし本人気付くとしたら長い時間を かけて、彼自身が人生で自分へのしっぺ返しから教訓を得て、自分で気付いた場合のみです。  そうなった時に私と同じ仕事をしたいと言ってきたら協力する用意はあります。 こうしたことも全て 言葉の行間を読むことで判断されたと。 というのは人間と言うのは、いっくらでも本心と異なる 美辞麗句を並べることは可能であって、それだからこそいかにニュアンス読む行為・能力が大切か! しかし自分が相手に意見・言葉を発する時は、逆に「分かれよ」「行間まで理解し読みとれよ。」 などと甘えたことは要求せず、今この現代において多くの人に認識されている言葉の用法を以って、 自分の意図を過不足なく伝えようとする努力を怠りません。 補足的に聞いたポイントから特定のシチュエーション・関係性においては、用法を逸脱した言葉の やりとりもあっていいんじゃないか、という御指摘は他の御回答者様方の具体例から理解しました。 (「そう」の使用法が本質問メインポイントでしたが。)   用法を著しく逸脱してまで 相手に「分かってもらおう」とする態度は、繰り返しますが”甘え”以外の何者でもありません。 下記はNo.4お礼にも書きましたが、御回答者様は、 >精神医学者であり哲学者でもあるK.ヤスパースの言葉は暗示的です。曰く 「言葉は思考の家である」 と書いてもピンと来るような、言葉を深く掘り下げるのが好きな愛好家同士で、やりあえば一向に 問題ないと思います。  ですが一般には言葉の字義・文法を逸脱した表現で、ニュアンスまで よみあって、互いのことを分かりあいましょう、などと言っていられない今日ではないですか? ミスコミュニケーションによる不利益・ストレスは実際大きいのです。 あと和歌や連歌で相手の言葉の背景にある意図を(はっきり表現されていなくとも)よみあい うたを交換しあうような同好の士を探すのもいいですよね。  素敵なことです。 そうした中で文法を大きく逸脱して行間を読みあう言葉のやりとりを大いに楽しんで下さい。 ここでご縁があったついでに進言させて頂きました。 

thomasparr
質問者

補足

書き忘れた点ですが >ところでこの質問者がどの様にお考えになっているのか、やつがれは早く知りたいところです。それによって話は新たな局面を迎えることも予想に難くありません とあるように >これでは質問者が前提とする「~すべき」の論理と同様で「こうでなくてはならない、 他は許容しない」との評論にしかすぎません。  の部分で厳しくお書きになったわりには、実はここでやりとりを楽しんでらっしゃるのかもしれません。 私が返答したことでここから展開があることを期待されているようでもあり心苦しいですが、私はもう 十分であり、お腹一杯です。 他の回答者の方々から満足のいくアンサーをもらてましたので 締め切らせて頂きます。   なお、 >「~すべき」の論理と同様で「こうでなくてはならない、他は許容しない」との評論にしかすぎず、 ですが、その書き方自体既にこちらサイドを全く許容しておらず、自己矛盾を起こしている文だと 感じます。 また「こうでなくてはならない」とそんなこと質問本文には書いていません。  これもこちらの文意を大きく取違えていると思います。 いずれにしても御回答有難うございました。

noname#227653
noname#227653
回答No.7

それは冗談半分で言っているだけのことです。 私も、「おいしそう!」と言われて、「これはおいしそうなんじゃなくてね、とってもおいしいんだよ」と答えたことがありますが、別に相手の言っていることを否定した訳ではありません。相手は私が食べているのを見ているだけなので「おいしそう」という表現しかできませんが、私は相手の目の前でそれを食べているのですから、そのおいしさを味わうことができている訳です。そのことを「どうだ、うらやましいだろう」という気持ちを込めて 「おいしそうなんじゃなくてね、おいしいんだよ」ということばで表現したわけです。 「眠そうなんじゃなくて、眠いの」も、自分は今強い眠気を 実感してるんだよ、ということを冗談半分で言っているだけです。 ですからこういう表現は、冗談を言える相手にしか使えません。冗談なんか言えない上司に「君、ちょっと眠そうだね」と言われて「眠そうなんじゃなくて眠いんですよ」とは返せないでしょう。 あなたは「おいしそうですね」に対して「おいしいよ」と答えれば「場は和む」と書いていらっしゃいますが、それは「場を和ませる言い方」というより、「ごく普通の言い方」「波風を立てない言い方」ということになるでしょう。 冗談を言いあえる間柄であれば、「おいしそうなんじゃなくておいしいんだよ」と言う表現もありです。冗談は当たり前じゃない表現をするところからうまれるのですなら。 ついでに言うと「おいしいなんてもんじゃないよ」というのも同じことですよね。 あれは「おいしい」などと簡単に言ってすませることができないくらいおいしい、という意味ですが、「おいしいなんてもんじゃないよ」という表現を使った人に対して、おいしいなら「おいしいよ」って答えればいいじゃないか、とは思わないでしょう。

thomasparr
質問者

お礼

冗談半分説一応同意です。 冗談を言える相手にしか使えないということですよね。 書いて頂いた文例は、冗談の範疇にいれて構わないと思いますが、一般にはつまらない返しになる 場合が多いんじゃないかと。 つまらなければもはや冗談ではないわけです。  おじさんが繰り返し言うダジャレが聞いてて苦痛になるのと共通の類かもしれません。 しかし ダジャレは相手の発言を否定するところから入っていないので、まだ印象としては救われます。 ところである高校を訪問した際、こんなシーンを見ました。 生徒が校庭の脇にある体育の先生方の 職員室を掃除していました。 ある先生「おいお前人のサンダル履くなよ。」  生徒「いや、これこれと思い、、すいません。」  先生「なにがいや、だ? こっち聞いて 嫌んなるわ。 お前が水虫だったらどうしてくれる! 勝手に人の履くなと言ってるんだ!」 生徒「すいません。。」 先生、生徒を睨みつけつつ退室。 その後掃除していた生徒の会話を聞いて生徒の言い分が分かりました。 つまり当該サンダルは 共用サンダルと同じところに置いてあったと。 前に裸足で掃除していたら履くように他の先生に 勧められたのだと。  他の生徒はなんとなく当該サンダルは危険なにおいがしたので、履くのを 避けたと。 が当該生徒にしてみたら、共用のところに置いてあったから何気なく履いてしまったと。 上記例では上下関係もあったので、生徒は指摘され釈明することなく謝っていれば、より穏便にすんで いと思われます。 とはいえ間違った事情も私は理解でき、言いたくなる気持ちも分かりました。   ですが言葉の最初に、「いや」という相手の文を否定する言葉を付けてしまったので、先生の怒涛の 反撃をくっしまったと。 立場が上の方はこういう時言いたいことが言えますが、下の方は受忍し 謝っただけの方が往々にして得です。 まして「いや」とか言うのはもってのほかと。 とはいえ立場がぎ逆だったら言えるわけです。 先生が生徒のスリッパを間違って履いた場合、 生徒「すいませんそれ自分のなんですけど、、」と言っても、先生「いや、お前が共用部分に 置のが悪いんだ。」  これで無問題そうです。  ですが本当にそれでいいんでしょうか? 私はどんな関係性でも、人としてのマナーというか共通の原則はあると思うのです。  同等の立場、 例えば夫婦で会話の頭に常に「いや」から入る配偶者がいたとして繰り返されたら、ほんと嫌になる かもしれません。 それが積み重なったら他の原因ともあいまって離婚事由にだってなりかねない。   上記例で生徒が医者になり20年後、定年退職した先生の主治医にたまたまなった場合、「先生 あのとき私を頭ごなしに叱りましたよね。 ということもあって手術は100%の力を発揮せず、 70%くらいでやりました。 あしからず。」と言う医者がいるわけもなく、医者のプロフェッショナル 魂で全力を尽くすはずです。  相手の正当な対応・マインドに依拠するのはその先生です。   先生だって、体育教師としてプロとしてお金をもらい生活していたわけで、生徒に言いたい放題言って いっていいわけもなく、また人間社会では立場がいつ逆転するかも分からず、上下関係にあまえ、 おもしろくもない冗談で言葉を濫りに使用したら、いつかしっぺ返しを食うのはその本人だと私は 思います。  おもしろくなくとも、書いて下さったような軽口の事例なら無問題ではあります。 しかし言葉のusage・definitionに反してまで、否定形から物を言うのは、おかしいですよと、 そうした習慣があるなら直した方よくないですか?という視点も込め質問しました   ご回答ありがとうございました。

  • hakobulu
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回答No.5

言ってみれば推測の用法になるわけですが、あるひとつの動作・状況などに対してその推測という行為が適切か否かという問題になると思います。 たとえば、よく映画などのシーンでありますが、戦場で脚を吹き飛ばされてうめいている戦友に対して、「痛そうだね」と言うだろうか、ということです。 相手の痛さは推測するしかできませんから、日本語表現としては間違いではありません。 しかし、ここには、相手の状況を自分の状況として共感・共有しようとする意思が決定的に欠けていることになるでしょう。 「そう」という言葉の解釈の問題ではなく、こうした推測を全面的に表わす言葉を採用して発言する、ということ自体に疑問符がつきそうだ、ということです。 あるひとつの状況に関して、「推測などしている場合ではなく、ひたすらその状況を共有・理解すべき場面」が世の中にはある。 そのような場面で「そう」を使うのは不適切と判断される、ということになるでしょう。 ご質問の例の場合も、どちらも推測するしかない状況と言えるでしょうから、 先輩に対する「眠そう」 大物男性タレントの作った料理に対する「おいしそう」 どちらも正しい表現でしょう。 あとは、この状況が、【「推測などしている場合ではなく、ひたすらその状況を共有・理解すべき場面」】であるか否か、という問題になります。 先輩は、これを肯定していることになるでしょう。 「先輩の俺が眠たいと思っている状況を後輩のお前はなぜ理解しないのだ」というわけで、質問者さんのおっしゃるとおり、自分主体でしか物を見れない。 ただ、このような発言の裏には後輩に対する不信感、というか信頼感の欠如が日常的にあるような気がします。 仮に良い関係性を築けている間柄であれば、「眠そう」という推測に対して「理解していない」という不満が出現するはずはないからです。 タレントの場合、 「俺が作ったものがまずいわけがないという状況を君はなぜ理解しないのだ」 という意味になりますが、これは先輩の例とは若干異なると思います。 目蓋が閉じかけているなどの状態から眠いということは判断できますが、食べていないものをおいしいと判断することは全くできないからです。 つまり、推測以外の表現が入り込む余地はありません。 タレントは、それをわかっていながら無理な理屈を押し通すことで「強引な表現=間違いのない事実」というアピール手法をとった可能性もあります。 そういった意図がなかった場合には、先輩と同じく自分主体でしかものを見れない人と同類になるでしょう。 ただ、自分主体を誰に対しても前面に出すわけではないと思います。 後輩や女子アナに対してなら、それができると判断したので、そういう対応になったはず。 アドバイスとしては、 「~そう」は、【「推測などしている場合ではなく、ひたすらその状況を共有・理解すべき場面」】では使わない。 また、仮にそういった特殊な場面でなくとも、わがままが通用する人間だとあなたを認識していそうな相手に対しては使わない。 といったところでしょうか。    

thomasparr
質問者

お礼

>「先輩の俺が眠たいと思っている状況を後輩のお前はなぜ理解しないのだ」というわけで、 質問者さんのおっしゃるとおり、自分主体でしか物を見れない。 ただ、このような発言の裏には後輩に対する不信感、というか信頼感の欠如が 日常的にあるような気がします。 その通りですかね。 似たような場面で同様に返したくなる場合は私にもあります。  例えば私は少し太っていて、何もしていないの人より汗をかくのですが、そういう時に 「暑そうですね」と言われたら、私も「暑そうじゃなくて、暑いの!」と言いたくなりますね。  言いませんけど。 言いたくなる背景には、「汗っかきな体質には自分自身ほとほと嫌気がさして いると。 過去にもよく暑そうとか言われた経験多数、いちいち指摘せんでも結構です。  大きなお世話です。 正直やかましい。」という内心があるからでしょう。 ですが相手にとっても 「今日は暑いのに汗っかきのあなたが同じ部屋にいて余計暑く感じるますわ。」という内心があるの かもしれず(あるでしょう)、私も「やかましいわ」と思うと同時に「御迷惑おかけして すいません。」という相反する気持ちもあります。 いずれにせよ私が 「暑そうじゃなくて、暑いの!」と答えた場合に、相手も自由気儘に発言する 人で「何ですかその言い方は? ”私の側で”あなたが暑そうに見えたから暑そうと言ったまで。  ていうかあなたを見てると今日は体感温度が5度くらいあがります。」とか言われたら、こっちも 更に言い返して深刻なトラブルに発展しかねません。  そうならないよう言葉は、大多数の人が認識する(1)definition・usageに基づくことを前提とし、 (2)配慮を持って使うべきと思うわけです。  たとえ文脈に「後輩に対する不信感、信頼感の欠如」 があったとしても、売り言葉に買い言葉になりそうな展開は精神衛生上よくないです。  そういったのを避けるのが人間の智恵と思う次第です。  政治家やタレントが正義の下に相手を 糾弾したつもりが、言葉の使用を誤って逆に追及される側に陥ってピンチになるシーンをよく見ます。 無名な市井の人間だってマスコミにとりあげられなくとも、普段の人間関係でそうした事例多々あると 思います。  自分がたまたま相手より目上だから、相手より実力あるから、相手の言葉を頭ごなしに 押さえつけた返答をしないよう、注意して生きたいものです。 ですが相手がそういう言葉を使う人間だったとしても、いちいち反論はしません。 心の中で一定の (低い)人物評価を相手に与えるのみます。 相手だって結局気付かずないまま損をしてるわけです。  段々出かける時間が近づいてきました。 全ての御回答頂いたポイントに言及せずにすいません。 御回答有難うございました。

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.4

 その言葉に対するスタンスもしくは距離というほどのものと思いますよ。 英語ならば“~ seem ~”などの表現に相当する表現がありますが、これも「傍から見て」の目線と「主体から見て」の目線では明らかに異なります。“He seems to be an honest.”との文章があった場合、このHeが本当に親切な人物であるかはわかりません。そうでない可能性もありうる。親切である可能性もありうる。また更に穿った見方をする人ならばそこからは「現在は親切そうに見える」のであっても過去にはどうだったかは判らない知らないとも訳するでしょう(英語ならば“He seems to have been an honest.”として変化を記しますがそれでも厳密に現在と過去の対比が出来ているかどうかには疑問符が付く)。  質問者様が「言葉をその場を和ませる、コミュニケーションの道具としてだけとらえればそれでいい」とお考えであるならば、それは「言葉を鎖に繋いでしまう」可能性があるように僕は危惧を感じます。  日本人には議論を好まない、波風立てることが美徳ではないとの何か固定観念に近いものが心理的にあり、意見若しくは異見を言うことやその人物に距離感を置く傾向があります。群れなしたがる、群れの中にいれば安住の地を求めることができるとの信仰にも近い根拠レスな認識に囚われている感もあります。  仕事の場で「眠そうですね」「うん、眠いよ」という会話のシチュエーションも、上司から部下に掛けられた言葉なら、そこには皮肉を込めた言い方で「もう明日から来ないでもいいよ」とのニュアンスが込められているとも思いませんか?。言葉は話し手や書き手の手を離れた瞬間から一人歩きを始めます。それが殊に不特定多数であり、また面識のない人物に向けて発せられたなら相手はどう受け取るでしょう。時には諍いのきっかけともなりかねないでしょう。それほど言葉はデリケートでもあり逞しい。  逆に部下から上司に向けて発せられた言葉なら「仕事やストレスが溜まって大変だな」との相手に対する気配りがうかがえます。  逆に僕は質問者様の方が了見の狭い人物であるとも思われます。質問者様が思っていたことの百分の一も僕は受け取っていない可能性があるかもしれません。この部分が大切な事です。言葉を水面に投げ入れられた小石に喩えたなら、水面には波紋が広がっていきます。静まりかえっていた水面に何かの変化を生じさせていることの証です。ビリヤードのキューで突かれた一つの球が他の球に当たり様々な方向へとエネルギーを拡散させて散らばっていく光景にそっくりです。 それが「言葉を恃みそして紡ぎ出す」様々な可能性を秘めている根拠であるとはお考えになり、言葉にタガを嵌めてしまう事は罪作りとは思いませんか?  「全然」は文末に否定を伴うものとだけお考えになっていませんか?。実際に明治時代の文章を読みますとそこでは「全然」は否定を伴っていないケースが殆どです。「全然」が全文否定であるとするのは戦後の文部省の役人や審議会のおっさん達が英語の“Never”を事例として勝手に決めたことであってそれこそ根拠レスと言わざるを得ません。

thomasparr
質問者

お礼

>質問者様が「言葉をその場を和ませる、コミュニケーションの道具としてだけとらえればそれでいい」とお考えであるならば、 本質問のメインパートを改めて申し上げますが、言葉のusageを超えてまで相手の発した文を否定 するのはおかしくないですか? 本質問においては返答者が言葉のusageを誤っているのではないか? という問いかけです。  あとどうでもいい場面で、一つ一つこちらの発言を否定する言葉使われたら 人間疲れますよ。 否定する必要のない場面ではお互いさらっと受け答え、ストレスの少ない コミュニティーにした方がいいではありませんか。 なおその部分に関する指摘はあくまで補助的に 申し上げたまでです。  >質問者様が思っていたことの百分の一も僕は受け取っていない可能性があるかもしれません。この部分>が大切な事です。言葉を水面に投げ入れられた小石に喩えたなら、水面には波紋が広がっていきます。>静まりかえっていた水面に何かの変化を生じさせていることの証です。ビリヤードのキューで突かれた>一つの球が他の球に当たり様々な方向へとエネルギーを拡散させて散らばっていく光景にそっくりです。 これは同意します。 少しお付き合い下さい。 私事ですが私はある習い事の先生をしています。  そこで先日ある子供(以後A君と呼称)の態度が悪かったため叱りました。 彼は毎度態度が 悪く、ある日厳しく注意したわけです。  その日からA君は来なくなりました。後から聞きましたが その子なりにうちの習い事を楽しみにしていたそうで、辞める決断をした時、そして私から言われた 言葉を聞いた時、お母さんは泣いたと聞きました。  私も心が痛みましたが、自分の対応は誤っては いなかったと、そういう話を他の保護者(以後Bさんと呼称)にしたところ、A君は元福島県在住で 放射能を避け半年前に引っ越してきたという話をBさんから始めて聞きました。 合点がいきました。 A君の情緒不安定さに実はそうした背景があったのだと。  別件ですが、私は被災地ンボランティア に参加したことがあります。 参加してもあまり役に立った気はしませんでしたが。 その話の折Bさんに「ボランティアとかする前に、自分の仕事の中で被災地から移住してきた生徒が いたのだから、まず心をそちらにさ割くきだった。。」と言ったところ、Bさんは 「(あなたのやっている習い事は)ボランティアとは違うけどね。」という返答が返ってきました。 私は同業者の半額位の月謝で(←戦略として)当該習い事を教えているのですが、Bさんは ”こっちは月謝を払っているんだから、月謝が安いからといってボランティアと思われたら たまったもんじゃない”と受け止めたのでした。  そういう趣旨ではなく、上述通り 自己満足的にボランティアとかする前に、自分の生徒に被災民がいたのだからその子の心を ケアするのが自分のやるべきことだった、、彼の不安に気付かずにきつく叱り、結果的にやめる 方向に至らせてしまった自分への自責の念からそう言ったのでしたが、説明してもBさんは 「は?そんなこと聞いてないよ。」という顔をするのみと。  更に別件ですがBさんのお子さんは アスペルガー症候群の疑い濃厚ということで、前に「分かって下さい。」という趣旨の膨大なお手紙・ レポート・本を受け取ったことがありました。 Bさんのお子さんは練習で説明を殆ど理解できず 非常に手も掛かります。 彼がウロチョロ、呼んでも来ないため追い掛け回す風景を見学者がみると、 誰も入会しなくなりました。 しかし「これも縁」と受け止めてきましたが、感覚としてBさんの お子さん1人を受け入れたことで、10人は入るべき生徒を失った感じはします。  月謝は他の子と同じ額だけ受け取ってますが、ボランティアに近いものを正直感じていました。 その保護者(Bさん)から、人の言葉を曲解した上、「あなたの習い事と、自分が勝手に被災地 でやったボランティアを同一視しないでよ。 これってボランティアじゃないでしょ」みたいな 言い方を受け、ほんとガクッ!ときたと。  自分は「子供がアスペルガーでつらい。 分かって 下さい。」と訴え、こちらの説明は何も受け止めない態度に、正直「コンニャロ」とそれ以降 思ったわけです。 発端はA君のあたりです。 コミュニケーションというは実に難しいと改めて 思った経験でした。  まさに >言葉を水面に投げ入れられた小石に喩えたなら、水面には波紋が広がっていきます。静まりかえってい>た水面に何かの変化を生じさせていることの証です。ビリヤードのキューで突かれた一つの球が他の球>に当たり様々な方向へとエネルギーを拡散させて散らばっていく光景にそっくりです。 と思った経験でした。 しかし >それが「言葉を恃みそして紡ぎ出す」様々な可能性を秘めている根拠であるとはお考えになり、言葉に>タガを嵌めてしまう事は罪作りとは思いませんか? この部分は同意致しません。 様々な可能性を含む言葉の側面は理解しますが、現代社会に生きる 我々にとって、言葉の多様性を前面に出しその結果ミスコミュニケーションが原因で疲れてしまう ことのデメリットの方が大きいと思うからです。 言葉の適切な使用の感覚は一定の年数以上生きて きた人間ならある程度つかんでいるはずです。  たとえばですが 客「カツ丼下さい。」 店「あなたは今短絡的にカツ丼下さいといいましたが、当店には普通の カツ丼とソースカツ丼の2種類があります。 9割のお客様が普通のカツ丼を注文しますので、 きっとあなたも普通のカツ丼のことを指しているのでしょう。 が、もし違ってたらどうでしょう?  作り直させるのですか? その場合の損失は誰が負担するのですか?  あと今説明で私は普通の カツ丼という言葉を使いましたが、どういうカツ丼が普通なのかまで、私に説明義務ありますか?  卵でとじ醤油ベースのタレで云々とか?  地域によっても普通のカツ丼のとらえ方は違うでしょう。 あなたどこ出身? てゆうかそんなめんどくさい責務を私に負わせる前に、きちんとメニュー表を 読んで、メニュー表で書いた言葉で、ソースカツ丼なり、卵とじかつ丼なり指定してもらえませんか? その場合、私の出身地の卵とじカツ丼はこんなんではない、とか受け付けませんよ。 そんなこと メニュー表に書いたらきりないですから。」とか言うよりも、店「ソースカツ丼と卵とじカツ丼の 2種類ありますが、どちらになさいますか?」と聞けばすむことです。 そんな応対する店あるわけ ないので、ここまで書いて引用例として不適切だったかなという気もしますが、店員も人間ですので、 心の中では「この客にぶいな~」と思うこともあるでしょう。 そうした心の内側はひた隠しにして、 言葉を選ぶのが、コミュニティーの健全な存続には必要ではないですか? いらないところでストレス を巻き起こす必要はないのです。 それを >言葉にタガを嵌めてしまう罪作り な行為として結び付けてしまう回答者様は、大学文学部(卒)のナントカ科とかで気の合った仲間 同士おやりになればいいことです。  「言葉の可能性」という美名の下に、相手の発言にいちいち 食いつく人が社会のマジョリティーになったら実に生きづらい社会になると思いますよ。 そうなら ないように配慮するマインドの持ち主の配慮の下、「~でなくて、~なの!」と自分の言葉で いいなおす人の勝手気ままさが成り立っていると私は感じてます。 ところで人は死んだ後に同じ 性質を持った人間同士集まると何か本で読んだことがあります。 本当かどうか死んでみおないと 誰にも分かりませんますが、想像してみて下さい。  そういう人同士でお互いの発言を否定しあったり 食い下がったりしたらどんな会話になるか、どんなコミュニティになるか。 配慮できる人々の善意 の下に、今この社会で好き放題な言葉を発して生きている人々は生きているのだと思います。 死後云々とか抜きにして、どこかでまとめて精算させらると思いますよ。 人物評価とかで結局損する のはそういう言葉を普段使っている本人だとも思う次第です。    >「全然」は文末に否定を伴うものとだけお考えになっていませんか? 言葉は時代と共にそりゃ変わりますよ。 変わる要因に文部省の役人が、言葉の歴史なり含蓄なりを 無視して勝手に変えたようなものもあるでしょう。 それはまた別問題ですね。 長くなるので そこははしょります。   「そう」の意義の変遷に基づいて、江戸時代ではこうだった、正しく「そう」を今後使いましょう などと主張しても仕方ないことです。 現代社会の多数が認識する「そう」のdefinitionなり usageなりを前提に言っています。 なおここでは「そう」をトピックにしてるのですから、では 「そう」に今は使われない本来的用法が昔あったなら、むしろそれを指摘して下さい。 御存知 ないのではないですか?  そうしたつぎはぎ的知識、たまたま知っていた知識で、「全然」をについて ここで言及しても全然OKですが、私は全然感銘を受けません。  「おかしいよ!」といった人に対し、「趣があるのですか?」 「平安時代では~」と理屈並べる 人が仮にいたとして、ジョークにしても聞いてて疲れますよねそういうの。 御回答者様は 言葉について調べるのが好きな仲間同士、言葉の可能性をぜひ探り合って下さい。 学者同士とか 趣味で仲間内で追求する分には”全然”いいんじゃないでしょうか?    

thomasparr
質問者

補足

お礼本文に「御回答有難うございました」と書くのを失念してしまいましたので、ここでお礼 させて下さい。 有難うございました。  あとお礼本文で>の挿入が位置がずれていた点と、誤字が多かった点お詫び致します。

回答No.3

語感の問題かと思います。 質問文にあるように、伝聞にも使われる「そう」は、否定のニュアンスもあります。 それを感じて反発するのでは? 「おいしそう(食べてみないとわからないけど)」  見た感想。可能性 60% 「おいしいそうだ(見ただけではわからないが)」 (面と向かっては使えないが・・・)  伝聞だが、かなり確実 可能性 70% 「おいしいようだ(いままでの体験からして)」  見た感想で根拠がありそう。可能性 80% あと、「おいしそう」の「そう」を受けて「そうじゃないの」に続きますから、 気になるようなら「・・・ようだ」を使ったらどうでしょう。 「おいしいようだ」 「ようじゃないの」にはならないでしょ?

thomasparr
質問者

お礼

伝聞に使われる場合の「そう」は、否定のニュアンスもありとおっしゃるのは場合によって同意 します。 ですが本質問の使用例は伝聞ではないです。 目の前の料理を見て「おいしそう」と 言ってるのですから。 なお伝聞なら「おいしいそう」と活用も変わりますし、この場合において 伝聞のニュアンスを感じ取って相手の否定のニュアンスを嗅ぎ取り反発したのだとしたら、 返答した人は相当なア○です。 私なら言葉のやりとりができない○ホとは必要最小限しか話しない という、これまた別の対応になります。   抑揚なく小さな声&無表情で「おいしそう」と言った場合社交辞令で言った可能性もあり、 否定のニュアンスを感じますが、(本文ではそこまで書きませんでしたが)女子特有の 「うわ~おいしそう!」というリアクションでした。 本当においしそうな料理でしし本心から そう思って発言したことは十分理解できます。 それに対し「おいしそうじゃなくて、おいしいの。」 は違うんではないかと。 >あと、「おいしそう」の「そう」を受けて「そうじゃないの」に続きますから、 >気になるようなら「・・・ようだ」を使ったらどうでしょう。 >「おいしいようだ」 「ようじゃないの」にはならないでしょ? なるほど、この視点は自分にとって新しいと当初思いましたが、これも 「おいしいよ・う・だじゃなくて、おいしいの!」と返されるんじゃないでしょうか? それに料理を目の前にして「おいしいようだ」はおかしくないですか?  とはいえ偏屈おじさんを相手にした場合、相手に反論の糸口を与えるような言葉避けて 言葉を発すべきという点は重要ですね。 大変参考になりました。 有難うございました。

  • cxe28284
  • ベストアンサー率21% (932/4336)
回答No.2

私も質問者さんと同じ語感です。 辞書には「そう」は接尾語で様(さま)相の字音ともいわれる。 語幹に接続して状態を推量する意をあらわす。~の様子だ。心配そうな顔、 おいしそうだ。まずそうだ。寒そうだ。暑そうだ。 その場の状況に合わせ、善意で言っている限り、あれこれ言われる言葉ではないと思います。 自分が食べているわけではないので「おいしそうですね。」「ええとてもおいしい!」 「眠そうですね。」「うん、ちょっと寝不足でね。」 とか返せば会話は成り立ちます。 ただ、太った人に「これカロリー高そうですよ。」とか おせっかいとか嫌味にならないよう、気をつけさえすればいいと思います。

thomasparr
質問者

お礼

>その場の状況に合わせ、善意で言っている限り、あれこれ言われる言葉ではないと思います。 まさに私の思いは書いて頂いた通りです。 辞書の定義通り正しく言葉を使い、悪意なく言葉を 使っているわけですから、否定されるのは違うんではないかと。  否定する場合は、返答者が 料理をおいしくない、ないし普通と思ってる場合に限るんじゃないかと。  相手の言葉に、よく「いや~」から始める人がいますが、それって聞いてて嫌になります。  会話のキャッチボールでまず相手の文を否定してから自分の言葉を発する人がいますが 本質問はそうした習慣の一例かもしれません。    御回答有難うございました。 

thomasparr
質問者

補足

No2かNo.6の御回答がベストアンサーと思いました。 で考えてNo.6に致しました。 あしからず御了承下さい。 重ねて有難うございました。

  • lions-123
  • ベストアンサー率41% (4360/10497)
回答No.1

>「眠そう」 「おいしそう」 <私見> 会話のシチュエーションや当事者間の間柄や関係性で、また語調や前後の会話の繋がりで、全体としての意味合いやニュアンス・受け止め方が異なってくると思います。 どちらかと言えば、打診や推定承諾の意図・心理からの言葉がけであり、即座の反応としては乱暴・友達or目下への対応のように感じます。 実際に、会話が交わされた場の雰囲気、関係が違うのであれば、少し礼を失する、粗略な問いえの応え方だと思います。 ex 眠そう→少し寝不足気味です。いえ夏バテなんです。ありがとうございます少し疲れがたまっているみたいです。 美味しそう→美味しいと思いますよ、ぜひ食べてみてください。先ほど頂きましたが、本当に美味しかったですよ。

thomasparr
質問者

お礼

御回答有難うございます。 この時点でNo.8の御回答まで読みましたので、全ての回答者から 書いて頂いた要素を踏まえた上で書きたくなりますが、御回答頂いた内容に応じて書きます。  No.1様の御回答は、私の感覚に近いです。 本文で出した例は、明らかに友達or目下への対応です。 私の中に相手によって態度を変える人間への不信感も根底にあるのかもしれません。  なお言葉のニュアンスがシチュエーションによってが変わるのは当然ですが、本例で「おいしそう」 といった場合、それを作った人への配慮とか、おいしそうなどと平凡な言葉では表現できないくらい 素晴らしい料理である可能性を考慮し発する言葉を考える必要などないわけでして、また 「おいしそう」という表現が失礼な言葉の使用であるわけもなく、そういう言葉を端的に否定される レスポンスをもらったなら、なんとなく心の中で「ガクッ」となります。   「美味しいと思いますよ、ぜひ食べてみてください。先ほど頂きましたが、本当に美味しかった ですよ。」と返ってきたら、相手もおいしいと共感する場合の返答例で100点を上げたくなる文 ですが、かといってそうした返答を相手に強制するものでは無論ありません。 どう答えようが 話し手の自由です。  つまり人となりが現れるということです。 本文例の答え方はやはり粗略 であると。 相手がどう言おうが思おうが「うるせー」の返事ですますような人間性、粗略な パーソナリティ-が伺えます。 とはいえめちゃめちゃ失礼というほどではない微妙な粗略さと 思います。 こう書くと本質問趣旨が、「無礼な人間にならないための話し方」になってしまいます が、あくまでusageを超えてまで相手の言葉を否定するのはおかしくないか? 本例では返答者が 言葉のusageを誤っていないか?というのが質問のメイン部分です。  お礼文がここまで長くなってしまったのは、全ての回答者から頂いた要素をやはり踏まえた上で 書いているからですね。 既にNo.8まで読んでしまいましたのでどうしてもそうなってしまいます。 

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