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「夜と霧」についての解釈
失業中の者です。最近「夜と霧」という本を読みましたが、作者の一番?言いたい部分がいまいち理解できずにいます。 「わたしたちが生きることから何を期待するかではなく、生きることがわたしたちから何を期待しているのが問題である」 上記の文ですが、国語力がないのか、文学的能力がないのか、いまいち理解できないのです。 自分なりの解釈では、「自分には生を授かった、だから好きなこと、やりたいことを思いっきりしよう、親も大事にしよう」、ではなく「自分には、目標がある、やらねばならないことがある、自分の愛する人がいる、だから生きていかなければならない」という解釈でいいのでしょうか?? 現代にある事例などを取り混ぜながら説明いただけたら、助かります。 よろしくお願いいたします。
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- obrigadissimo
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曽野綾子さん・遠藤周作さん(2人ともカトリック) のフランクルさんに関するエッセーなどを読んでみませんか。 他にも、哲学者・心理学者・神学者・牧師など、 いろいろな人が書いていますので、 読んでみることをお勧めします。 私は、中学生のときに読んだのですが 衝撃が強過ぎて、 耐えられなかった記憶があります。 質問に関わることでは、 人は、不幸な出来事によって不幸になるのではない。 そのことを不幸だと思うから不幸になる。 (ヴィクトール・E・フランクル) という彼自身の言葉が考えるヒントになるのではないでしょうか。 できれば、というより、是非とも、 原文を読んでみませんか。 翻訳には少なからず誤訳が含まれていますので、 原文で読めばスッキリするでしょう。 (スムーズに読めない部分は概ね誤訳とおもって 間違いないでしょう) 質問の言葉だけでも、書店で、原文で記憶して来て、後で、 ノートに書きませんか。 あるいは、有名な本なので、複数の図書館に原書が 有るでしょうから、最寄りの図書館で、 取り寄せ可能ではないでしょうか。 Good Luck!
- tumaritou1
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再度書かせていただきます、『私は永遠の命』というメッセージを『私は私の心から貰った経験があります。』14歳に『死に対する恐怖症』になって、毎日捕虜収容所で暮らす気分で有限の命を毎日のろって暮らした経験です。 この恐怖感は、慣れた場合に少なくなるという性質のものでは在りませんでした。毎日、絶えず意識する度に、心が締め付けられていたものです。 不安神経症と言う事で、入院森田療法をやっていた鈴木知準先生の本を読んだ事がきっかけになって、2ヶ月間入院治療を受けました。28歳の時です。 禅の話とか、剣道の話しとか、弓道の話とか、その他にも沢山の本を読んでいただきました。 ノイローゼは悟りを開かないと治らない、とか言っていました。『変な事を言っている先生だな』と感じた事があります。 禅も剣道も、全く興味が在りませんでしたが、不安神経症と言う事で、にっちもさっちもゆかなかった末の入院森田療法でしたので、ただ素直に聞いておくだけでした。 先生の本棚に『鈴木大拙全集』と言うものがありがたそうに置いてあったのを、目撃していました。 退院してから、鈴木大拙博士の本を買って読んだものです。 退院して四年後の或る日、自分が『無意識の自分と出会う体験をしました。』 今まで恐怖症で苦しんでいた私は、『その意識』と出会った時、自身の恐怖症の正体が分りました。恐怖感は『その者からの救いの手であった事が判りました。』 有限の世界で、死を恐怖する事は、『自我意識の特性である事から、仕方ない事だとしても、無意識の中にもう一人の自分が隠れていた事です。 自我意識として苦しんでいる自分に、永遠の世界を垣間見させていた者が『自身の内部に存在していた事です。』 この瞬間、今まで恐怖感のために『全身に込めていた力が全て抜け落ちました。』一瞬にして、恐怖症の完治という体験です。32歳の時です。 生死の問題が解決した経験です。その後もう既に32年の歳月を重ねています。身体中から力が抜け落ちた感覚は今も続いています。 殆どストレスが無い状態です。心が争う事をしない状態になっています。『心の中が静まり返っています。』神と和解した状態です。涅槃という状態と思います。 人間は『期待する心を捨てて取り組む時』全て満足する結果になると思います。子供が『生きる意味を考えずとも、幸福であるように』です。 フランクル博士の本の調子は、鈴木大拙博士の調子と同じ響きがあります。人間の無意識脳の中に全ての秘密が隠されています。それは右脳に存在する意識です。生まれる前から備わっている意識です。 人間としての記憶装置も兼ね備えた意識です、フランクル博士が書いていた『実存』です。この実存によって、人間は学ぶ事無く『不安も安心も恐怖する事』を既に知っています。 又心臓の回数も、呼吸の回数も、ホルモンの調節も、腸などの消化の働きも、無意識の自分が、自動的に行なってくれています。腹が減った事も、お腹が一杯の事も、水が飲みたい事も、暖かい所を探すように指示さえ出しています。 右脳の意識は命そのものの維持装置として働いています。『自我意識』では間に合わないと判断した場合では、『思わずに手や足が出ています。』 右脳の意識が脳の障害によって、余す事無く描かれている動画を紹介して、終わりにします。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM
- tumaritou1
- ベストアンサー率28% (260/913)
この作者は、精神科医として学んだ経験として、或いは生き延びた場合の指針として強制収容所の生活を耐える事が出来た人のように感じています。 他の著書などもあわせて読んだ経験から読み解く場合、人間が生きてゆけるのは『生きる目的を持っている場合』が可能で、生きる目的を失った場合に『生』が遠のいてゆくという箇所が幾度と無く出てきます。 今の日本では、交通事故の死者よりも、自殺する人の数の方が多いという現実があるようですが、こういう現象にも通じていると感じます。 是だけ文明が進んで、仕事の内容も、ある面楽になって、過酷な運命に翻弄される機会が少なくなったにも拘らず、過酷とも思える『自死』を選ぶ人達が後を絶たない『背景』に通じている事柄が存在すると感じます。 その背景とは『生きがいの喪失』或いは、『自分の生きる意味の喪失感』と思います。 サーカスの熊と、野生の熊の話も出ていました。サーカスの熊の場合『仕事を持っている関係から』長生きをする事が分っています。 自分が生きる意味を、今現在の置かれた環境から『如何に見出すのか、或いは見出せないかが分かれ道』になると思います。 与えられた環境であれ、自分から望んだ環境であれ『大事な事は、自分が内発的に、生きる意味を見出す事』を精神科医としては指導していた事です。 誰であれ『その人の中には。(識られざる神)=『実存』が存在していて、その実存に訴えてゆく事を自殺未遂の人にも、精神を病んだ人にも、訴えかける、ロゴテラピーを提唱していました。 精神を病んだ人には、その人の背景には『狂うことが無い実存』が存在している事を見抜いて、その実存に働きかける療法です。 自殺未遂の人には、本当には『生をいとうしむ心=実存』に働きかける療法です。 人生に対する『絶望』=『否定する心』に対して、同じ人格の中には『肯定する心=実存』が存在している事を見抜いている療法、ロゴテラピーを提唱しています。 同じ境遇にいても、最後の死の淵にいた場合でも、最後まで希望を持った生き方を薦めていた事が読み取られます。それが苦悩にも意味がある、或いは苦悩の中にこそ意味があると云う事を、言っています。 (信じてくれるなら)、命の終わりには、『私は永遠の命だ』といって、窓の外の木と対話していた少女の話が、魂の救いと、して今でも心に残っています、
お礼
回答者様がおっしゃっている 「人間が生きてゆけるのは『生きる目的を持っている場合』が可能で、生きる目的を失った場合に『生』が遠のいてゆく」 というのは、私もこの本を読んで、フランクルの伝えたかったことの一つではないか、と思います。 そして、現代においても、あてはまることはたくさんあるので、今も読み継がれているし、私自身も現在失業中であるので、思わず図書館で手に取ってしまった(探していたわけでもないのですが)次第です。 本の中では、収容所内ではクリスマス前後に死者が増えた、とありましたが、戦争が終わる兆しがない、とわかった途端に、私がその場にいたら、同じように生きる希望を失って、動く気持ちもなくなり、自ら死を選ぶことをしていたかもしれません。そう思うとぞっとします。 最後にあります、マロニエの木と対話していた少女の話、私も惹かれました。 惹かれたのですが、私自身が理解できずにいて、そこまで自分が達することはおそらくできないだろう、という思いもあり、本を読んだ後ももどかしい思いをしています。 やっぱり、極限状態に陥ってみて、初めてわかることなのだろうか・・・・。と思いました。 ありがとうございます。
- hisya
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「すなわち、人生から何をわれわれがまだ期待できるかが問題ではなくて、 むしろ人生が何をわれわれに期待してるかが問題なのである」 自分の持ってる本の訳です 自分は次のように解釈してます >「人生から何をわれわれがまだ期待できるかが問題」 これは人生において自分の目標や自分のやりたいことです これは絶望的な状況の場合があり、実現を諦めないといけない場合があります 人生の意味をそこにおくと生きる意味がなくなります 自分を中心にした夢は誰もが叶うわけではないです そして、自分の夢が破れたときに、人は生きるのが耐えがたくなりやすいです >「人生が何をわれわれに期待してるかが問題なのである」 これは人生において自分に何を期待されてるか考えることです これはいかなる状況においても、選択の問題があり意味があるという考え方です 自分の状況を受け入れて意味を持たせるにはどう生きるかが問題になります それには自分の運命を受け入れることから始まります、 そして、現実の状況の中で自分を中心に考えるのではなくて、 何かのために誰かのために役立つことを無いかと自分の意味や役割を探すのです これは実際には簡単ではないですが、過酷な状況で生き延びるための考え方です PS=フランクルのバックボーン フランクルは人間を越えた存在を信じていたと思います 人生で何かをわれわれに期待してるものがあるという考え方です キリスト教の神のようなものが考え方のバックボーンにあるんでしょう そのために神をの存在を考えない日本人には理解が難しい面もあると思います
お礼
ありがとうございます。 単に、(単に、という言い方はよくないのかもしれないですが)自分の目標、やりたいこと、しなくてはならないことは、確かに自分の置かれた状況次第においては、あきらめないといけない場合がある、ということでしょうか。 それでも、自分の人生(おかれた状況)を受け入れ、やらねばならない、やるんだ、と進む思いというのが、後半のところにある解釈なのかな、と思いました。 そのためには、自分中心に物事を考えるのではなくて、「誰かのために役に立つ」という考えが大事なのかな・・とも思いました。 稚拙な文章ですみません!! 回答者様のおっしゃるように、フランクルは、キリスト教的な考え方がバックボーンにあるのかなと思いました。 日本人には確かに理解しずらいなあとも思いました。 ありがとうございました。
- spongetak
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良い質問ですね。 私も、以前読んだときに、疑問のままで置いておいたのを思い出しました。 本の中で、生きる意味、について、何度も出てきたと思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B4%E3%82%BB%E3%83%A9%E3%83%94%E3%83%BC イメージとしては、以下のような感じかと思います。 一般の人は、「生きる」というのを、じぶんなりに自明のことがらとして、生きていて、その範囲の中で、何か良いことが起こるのを期待したり、良いことを追い求めたりしている。 そうではなく、「生きる」という範囲の限界線を厳しく問いかけ、「わたし」が、「生きる」の限界線を越えていこうとするような、真剣な問いかけをしていきながら、(「生きる」に、「わたし」が追いつき、追い越そうとするような、試み)、 フランクルが経験したような限界状況において、生きることの意味を命がけで問う中で、そこで見つけられるような「生きることの意味」の側が、わたしたちに、どのように行動せよ、と期待・要求しているか、の方が問題だよ、ということかなと思います。 私の解釈では、誤解を承知で、上記をひらべったく言えば、 わたしたちが生きることから何を期待するかではなく、 >のほほんと生きていながら、偶然出くわす快楽を享受したりするのを期待するのではなく、 生きることがわたしたちから何を期待しているのが問題である」 >限界状況で見いだされる人生の意味の方が、自分に、どうせよと言っているのか、その方が問題だよ。 しかし多分、「生きることの意味がみつかった」と言っておちついてしまえば、また限界の内側に収まると思うので、この作業は何度も繰り返されるのだろうと思いますが。 しかしまた、必死に問う中で、見出した「生きる意味」に沿って、実存的に生きている人は、本当に生き生きとしていて、無敵な感じだろうなと思います。一流の世界では、そういう人はたくさんいるんじゃないかと思います。
お礼
お礼が遅れて申し訳ありません。 本をやっと読み終えたところなのですが、半分くらいしか理解ができなかったかもしれません・・。 前半の、「わたしたちが生きることから何を期待するかではなく」は、もしかすると、後半の文の自分の解釈と同じなのかもしれません。 後半の「生きることがわたしたちから何かを期待しているのが問題である」は、限界状況の中にいることが、条件になっているのかなと思いました。 もう明日にでも死ぬかもしれないという状況の中で、自分がどうあるべきか、を考えられること?なのかなと思いました。 いずれにしても、今の自分は、前半の文のところまでしか理解が出来ていないし、自分自身もそこまでしかできないだろうなあ・・・と思いました。 でも、分かりたい、理解してみたいです。 ありがとうございました。
お礼
ありがとうございます。 親切に教えていただき、感謝しています。 原本ですね!うーん。実は今回読んだ本は、新しい本だったと思います。(図書館で借りた本で、返却してしまったのですが、女性の方が翻訳された本です) 翻訳の本でも理解しずらくて、正直なところ、原本を理解できるのかどうか不安です・・・。 おっしゃるように、原本をもし読めたら、自分が質問した言葉を記憶し、ノートに書いてみるのはいいことかもしれません。 私も実際今回読んでみて、ノートに書いています。それは、理解しずらくとも、どこか心に残る、どうしても流せない部分だったからだと思います。 曽野綾子さん、遠藤周作さんのエッセー本、探してみようと思います。 やはり、キリスト教とどこか切り離せない部分があるのですね。 ありがとうございました。