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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:メリバの水)

モーセとアーロンの罪とは何か?

このQ&Aのポイント
  • メリバの水についての解説です。
  • モーセが岩を打つことで水を出したことについての疑問があります。
  • この行為はキリストとの関連性を持つのではないかと考えられます。

質問者が選んだベストアンサー

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  • okw_gpw
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回答No.2

(okw_gpwはそのまま名としてお呼び下さい。無意味な略号です。) 私の『無意味』は、そこに何を当てはめても神や信仰には無関係である、という事を述べています。およそ全ての意味が当てはまり、語るに曖昧です。だからこそ引用しやすくも在るものです。 追加の資料を読むと、あなたをとりまく岩とモーセの事が、無学な私にも浮かんできました。せっかくですからそちらもお答えします。 = = = = コリント前書のパウロ解釈の表現は概念的です。キリストが聖であるとも、メリバの水の事を述べて居る様にさえ、私には読めません。ここでは海が、雲が、霊的な食べ物が、飲み物が、岩が、各々詳しく何を意味するのかは述べられません。モーセもキリストも、言葉の中ではただ一点の意味として概念的に引用され、それ以上のものではありません。そう述べながらパウロが「ぜひ知ってほしい」と述べるものは何かです。信仰を持つ方はそれを「キリスト」と見てしまうのかもしれません。ですが文意を鑑みれば、それは「御心に適わず滅ぼされた」です。「メリバの水の岩」と同じく、必要に薄い意味をわざと概念で覆い隠した表現、と見て取れます。 意味は『信仰が陥り易い過失の指摘』です。 民数記20より、モーセと岩の関係はここで確かに判ります。そこに至る怒りや疲れなどといった人間の内面は、各々に解釈されても良いものです。ですがモーセが何であったかまでは、想像ではとても断定的には述べられません。文章が述べるのは、彼らが何を述べ、何をしたか、だけです。そこから判る「あなた(モーセ)が、何を信じず、何を聖としなかったのか」が要旨です。 結論を言えば、読み取れるモーセの言は、投げやりや慢心ではありません。 文章はモーセが民衆に再三、「なぜ、あなたがたは」と訴えられており、指導者としての辛い立場を強調して描写します。両者は険悪で、道程に理解を示さない民の姿が見て取れます。モーセと民は「言い争って」います。 モーセが導く者として神の側に立ち続けるなら「それは神の御心である」と述べ超然と構えていれば良いものですが、現実そんな事をすれば民の共感や信は得られません。導かれる者として民の側に立つなら、「私にも判らない」と共に嘆けば良かったのでしょうが、それでは指導者として失望されます。 モーセはそのどちらでもなく、民に理解を与える為に「説こう」とし、方法に間違ったのです。 モーセも人間です。本来、自らも導かれる立場の者です。しかし導く者として神を信じる民を必死に導きましたが、苦難に直面した民は自分達だけを「主の会衆」と述べ、モーセを神の偽物と罵り、「会衆」から外してしまったのです。民は『盲目に導かれるだけの存在』として慢心し、自分達は現実に投げやりで何もしようとせず、なのにモーセの言葉には理解を示しません。モーセはどれだけ辛い立場に居たことでしょう。 民を戒めて「われわれがあなたがたの為に」と述べられます。しかしそれは導く者として絶対に許されません。導かれる者の理解を穢してしまい、民が自ら築く「神の国」の概念を理解できなくなってしまうからです。 神の国を目指す為には、皆が「聖なる」が何かときちんと見つめ直す事で和を取り戻すのが正答です。水を与えられ、ひれ伏すなら奴隷と変わりません。 それを親子に喩えるなら、我侭放題で言う事を聞かない子供に、親が「悪い子ね。なぜ私があなたにご飯を用意しなければならないの?良く考えなさい。」と言うのと同じです。人間同士ならば正論ですが、親子の立場でそれを子供に言ってはいけないと、私達にもすぐに判ります。それが神の国を目指す指導者であれば、神の国の民に決して言ってはいけない言葉なのです。 神はそれを指摘しました。傷ついた子供の心(歪んだ民の理解)は癒えるかどうか判りません。だから「できないであろう」と悲観されるのです。不可能でも拒絶でもなく、ただ「その行いで困難になった」と漠然と述べられます。 民の不理解を嘆き、モーセはこう述べます「そむく人たちよ」と。その意味は「神の御心にそむく人たち」です。「なぜ私があなたがたの為に水を用意するのか、よく考えなさい」と。しかしそれを自ら考える事ができるなら民はモーセを非難しなかったでしょう。そしてその事を伝えるには不適切な言葉です。「聖なる」を失った信仰は神に見咎められます。しかし水は与えられ、神のみは聖であると述べられます。 それはモーセの慢心や驕りではありません。民の慢心や驕りに、モーセが取った行動の是非です。言葉はモーセ個人の視点からの純粋なものですが、神の御心には届かなかった。たったそれだけの、しかし致命になり得る過失です。 モーセの顛末も、パウロの言葉も、現代の私達にこそ重く響くものでしょう。 「聖」がそうした物だとするなら、人を大きく越えた概念です。それを正しく行なえるのはまさに聖人であり、人間に間違いなく行なえるかどうかさえ疑わしいものです。だからこそ尊く、社会に常に必要とされる人物像です。あなたが宗教に身を置くなら、導く者であり、同時導かれる者として両方にありがちな過ちを戒めるものとして理解されることでしょう。 キリスト、信仰が絶対だという先入観があると、文章から意味を読み取るのは難しくなります。しかし無信心に読む私でさえ、聖書の言葉は人間にとって大変価値あるものだと、確かに感じられるものです。 私の文書理解は、以上です。日本人の心から観たものです。 拙文ながら、あなたの正しさの糧になれば幸いです。

bragelonne
質問者

お礼

 okw_gpw さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  1.  まづ そんなことにこだわるなかれと言われかねませんが ひとこと 《無意味》をめぐってです。  ★ 私の『無意味』は、そこに何を当てはめても神や信仰には無関係である、という事を述べています。およそ全ての意味が当てはまり、語るに曖昧です。  ☆ わたしから見れば 《神は信仰には無関係である》というところは おそらく《無い神》としての・むしろ信仰のことであろうと見ているという意味になります。〔有る〕神と無い神とは 互いに同等であるという意味です。  この《信仰》ということは 全体をつうじて有効な主題であると思われますので 触れることにしました。  2.  パウロの述べることも 同じく信仰についてだろうと見ます。そして okw_gpw さんもそのように解しておられると思います。  ★ ~~~~  ・・・そう述べながらパウロが「ぜひ知ってほしい」と述べるものは何かです。信仰を持つ方はそれを「キリスト」と見てしまうのかもしれません。ですが文意を鑑みれば、それは「御心に適わず滅ぼされた」です。「メリバの水の岩」と同じく、必要に薄い意味をわざと概念で覆い隠した表現、と見て取れます。  意味は『信仰が陥り易い過失の指摘』です。  ~~~~~  ☆ たぶんそれでも ひっかかりがあるとおっしゃるのは 《霊の岩としてのキリスト》という表現であろうと思います。  でも これも 無理なく解釈できます。というのも 《キリスト》は ふつうの人間であるイエスとは違って 神格としての存在を言っているからです。イエスという人間の貌(かお)とキリストという神(神の子であり神である)の貌とが一体です。  つまり キリストも 《霊》です。ゆえに  ★ 「御心に適わず滅ぼされた」  ☆ と同じ意味内容になると見られるからです。たぶん これでよいと思いますが。・・・  3.  すなわち すでにご回答の主旨にかかわるものですが あらためて信仰については 次のようにおっしゃるときにも わたくし個人は まったく同じ立ち場であり考え方であると思っております。  ★ キリスト、信仰が絶対だという先入観があると、文章から意味を読み取るのは難しくなります。しかし無信心に読む私でさえ、聖書の言葉は人間にとって大変価値あるものだと、確かに感じられるものです。  ☆ ひとつに 《信仰は 経験的な思考や行為に――時間的にというよりも考え方のうえで――先行する》と見ます。《絶対だ》というのとは少し違うと思います。《経験的な出来事に先行しつつ しかも実際の社会生活においては むしろ背景にしりぞく》と見ています。  なぜなら――もうひとつに―― キリストは 霊だからです。意味は 経験世界を超えているというものです。非経験のチカラが 経験世界にそのまま現われることはないわけです。ただ《わたし》の主観の内で 信教・良心の自由のもとに 言わば非思考の庭がわが心に成るというかたちで 持たれているものですし それに過ぎない(つまり つねに社会的には背景にしりぞいている)と見ます。    そうして 《無い神》も じつは非経験なのですから 言ってみれば《霊》です。したがってまったく同じくわが心に非思考の庭が成るというかたちで おっしゃる言葉を用いるなら《無信心》というかたちの信仰を持っておられる。こう捉える者です。  わたしは 教会には属していません。  4.  次のように結論づけられています。  ★ それはモーセの慢心や驕りではありません。民の慢心や驕りに、モーセが取った行動の是非です。言葉はモーセ個人の視点からの純粋なものですが、神の御心には届かなかった。たったそれだけの、しかし致命になり得る過失です。  ☆ その内実は ちょうどふさわしいと思われますので さらに引用いたします。  ★ ~~~  民の不理解を嘆き、モーセはこう述べます 「そむく人たちよ」と。その意味は「神の御心にそむく人たち」です。「なぜ私があなたがたの為に水を用意するのか、よく考えなさい」と。しかしそれを自ら考える事ができるなら民はモーセを非難しなかったでしょう。そしてその事を伝えるには不適切な言葉です。「聖なる」を失った信仰は神に見咎められます。しかし水は与えられ、神のみは聖であると述べられます。  ~~~~~  ☆ このように伺うと 一瞬モーセも民も ともに荒れ野をさまよう何十年もの日々にやはり疲れていたのであろうし モーセでさえ不平をうったえる民に対してあたかもその民の状態に同化したかのように その指導者としての立ち場をも忘れてしまった。とも〔一瞬〕感じました。  説教師が《さすがのモーセも疲れからか 投げやりになり慢心を起こしたのではないか》と見るところを まづは《民の慢心や驕り そして神やモーセに対する不理解》と見たのだというところに重心を置かれたというように思います。  そのあと 指導者のおこなう発言としては度を超えてゆがんだ内容のことを言ってしまったと。  ★ ~~~  それを親子に喩えるなら、我侭放題で言う事を聞かない子供に、親が「悪い子ね。なぜ私があなたにご飯を用意しなければならないの?良く考えなさい。」と言うのと同じです。人間同士ならば正論ですが、親子の立場でそれを子供に言ってはいけないと、私達にもすぐに判ります。それが神の国を目指す指導者であれば、神の国の民に決して言ってはいけない言葉なのです。  ~~~~~~    5.  《あたかも親として子に言ってはいけないような言ってはいけない言葉》については さらに詳しく説明がなされています。   ★ ~~~  モーセが導く者として神の側に立ち続けるなら「それは神の御心である」と述べ超然と構えていれば良いものですが、現実そんな事をすれば民の共感や信は得られません。導かれる者として民の側に立つなら、「私にも判らない」と共に嘆けば良かったのでしょうが、それでは指導者として失望されます。  モーセはそのどちらでもなく、民に理解を与える為に「説こう」とし、方法に間違ったのです。  ~~~~~  ☆ ここでずばりわたしの――わがままな・でも偽らざる――感想を述べることがゆるされるとするならばですが この《指導者として言ってはいけない言葉》を言うという《方法上のマチガイ》 これは 赦されるのではないか。と思われて来ます。   単純に《あらそい》を――指導者とそれに従う人びととの間にあっても――すればよいわけです。けんかつまり口喧嘩をすればよいと思われます。雨降って地固まるとも言います。  ★ モーセと民は「言い争って」います。  ☆ それを まだまだ突き詰めて行っても――それは むしろおっしゃっているような《聖なる》ということの問い求めにさえなるのではないかと思われるところもあるからには―― よい。と思われるのです。  それとも  ★ 「聖なる」を失った信仰は神に見咎められます。  ☆ となりましょうか。  6.  ここまで来るともう分からなくなりました と言いますか あるいはやはりまだ 分かりません。というのが 率直な思いです。  それは 《岩に命じよ》と《岩をつえで打った》との違いをどう処理しておくかが まだかかわっているように思われます。    信仰という基礎の上に 指導者であることおよびその発言内容の問題 これが浮かび上がって来ましたが どうでしょう このご指摘の点も 上に見て来ましたように 《度を越して禁句を言ってしまった》かそれとも《それでも赦されて欲しいと思う》か で迷います。そしていま上の《命に背いて岩を杖で打った》問題――これも赦されて欲しいと思うのですが――が さらに明らかになって欲しい。  度を越した欲求でしょうか。  * 要するに ぜんぶ赦されて欲しい。というのが この質問の出発点にあるようです。

bragelonne
質問者

補足

 okw_gpw さん お礼欄を書いたあと ひとつの考えが思い浮かびました。ひとつの答えです。つづってみます。  それは ご指摘のようにモーセが民に向かって言った言葉に問題があるというものです。あるいはつまり その言葉を言ったのが すでに神から水を得るにはどうすればよいかについての答えをあたえられたあとだった そのことが どうもまづいのではないか。です。  すなわち人びとから水がない 水が欲しいとうったえられ そのあと神の栄光が現われ 答えをあたえられているからです。  ▲ (民数記) ~~~~  20:7: 主はモーセに言われた、  8: 「あなたは、つえをとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、    その目の前で岩に命じて水を出させなさい。こうしてあなたは彼ら    のために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませなさい」。  ~~~~~~~~~~  そのあとなのです モーセが人びとにひどい言葉を投げかけたのは。  ▲ (同上) ~~~~  20:10: モーセはアロンと共に会衆を岩の前に集めて彼らに言った、    「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこ    の岩から水を出さなければならないのであろうか」。  ~~~~~~~~~~~  これは おかしい。すでに神からの答えが得られているにもかかわらず 何だか民衆に八つ当たりしているかに思えます。  こう考えると かなりモーセは 疲れが出ている。その疲れが出たまま ものを話している。ここに反省材料がある。というように考えられます。  したがってさらにそのあとは すでに一度じつは岩を杖で打って水を出したことがあったので もうそのまま・つまりその過去の事例のままを あまり何も考えることなくおこなってしまった。  と解釈すれば このことも すんなりと受け取ることができます。《会衆の目の前で岩に命じて水を出させなさい》という神の言葉をも忘れてしまったのだと。  ひとつの回答だと思われます。答えの候補だと思われます。どうでしょう?  つまり おっしゃっていただいた《度を越した禁句》のことを頼りにこう考えることが出来ました。答えに成り得るとしたら その点 感謝申し上げます。ありがとうございます。

その他の回答 (1)

  • okw_gpw
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回答No.1

基教教にも聖書にも詳しくないので、資料の文章解釈として述べさせて頂きます。 あなたの岩とキリストの関係が認識に曖昧なのは、 その概念の扱いが文中に曖昧だからです。 パウロの説明引用から分かる様に、キリストが岩、としたのは喩えです。キリストを打ったわけではありません。理解に間違うモーセに打たれてなお正しく水を人々に与えた岩を、キリストの様な存在だとパウロは述べ、筆者も賛同を述べています。 モーセが叩いた岩はキリストではありません。それが何だったのか、聖書は意味を与えていないはずです。そうであるかもしれないし、ないかもしれません。それが「岩」。実体の無い純粋概念です。 キリストが岩であり素晴らしいと述べるのはパウロと筆者の「私見」で、それは「経験的な判断」です。キリストは岩の様な存在であるのは間違いないでしょう。ですが岩はキリストであるかどうか判りません。「岩なるキリスト」は、それをきちんと捉えている表現で、それはあくまでキリストです。3.『確かにのども乾き…』の段落までは私見として正しく述べられていると見えます。 しかし、問題は3.『確かにモーセも人ですが…』の下りで、そこから岩は突然キリストになっています。概念の意味が完全に変わってしまったのです。モーセはキリストを叩き、キリストが水を出した事になっています。 それがあなたの指摘された違和感です。 キリストに先入観無い私には言葉に概念を摩り替えた「言いくるめ」としか映りません。 まさに「経験的な判断」で「叩いて」しまっているのです。 前半は経験的判断の否定、後半は経験判断そのもので書かれた文章です。私見は私見と区別しなければ理解は純粋さを失います。また比喩は数式の様に=で結べるものではありませんから、言葉が示す概念の「方向や重なり具合」には十分注意しなければなりません。それを保持したまま述べるのが「岩なるキリスト」ですが、途中でその概念を喪失し、文章が変貌しています。言葉の表現を変えることは許されても、言葉の概念を変えることは許されません。 岩が何かは一切判りません。叩かれたから水を出したのかもしれません。叩く行為に関係なく水を出したのかもしれません。聖かどうか考える手がかりは無く、しかしそうした意味を深く考える事は神との関わりの考察を外れる無意味な物だと、私にも推察できます。だからこそあえて意味に知る必要はないと、何も述べられない示されない。おそらくは、それが「岩」です。 これ以上の意味は資料からは判りません。 他に視点を求めなければならないでしょう。 神や筆者への言葉として文中いかなる失礼があるかも判りませんが、門外漢の戯言とお許し下さい。

bragelonne
質問者

お礼

 おくぅ_ぐぷぅさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  § 1  まづ 資料の提出の仕方がまづかったようですね。  ★ あなたの岩とキリストの関係が認識に曖昧なのは、 / その概念の扱いが文中に曖昧だからです。  ☆ モーセが岩を杖で打つその物語のくだりと そしてその岩がじつは〔霊の岩として〕キリストであるというパウロの解釈のくだり これらをかかげます。そのあとに ご返答をしてまいります。  ・ モーセが岩を杖で打つくだり:  ▲(民数記20:1-13) ~~~  1: イスラエルの人々の全会衆は正月になってチンの荒野にはいった。そして民はカデシにとどまったが、〔* モーセの姉の〕ミリアムがそこで死んだので、彼女をそこに葬った。  2: そのころ会衆は水が得られなかったため、相集まってモーセと〔* その兄〕アロンに迫った。  3: すなわち民はモーセと争って言った、    「さきにわれわれの兄弟たちが主の前に死んだ時、われわれも    死んでいたらよかったものを。  4: なぜ、あなたがたは主の会衆をこの荒野に導いて、われわれと、    われわれの家畜とを、ここで死なせようとするのですか。  5: どうしてあなたがたはわれわれをエジプトから上らせて、この    悪い所に導き入れたのですか。ここには種をまく所もなく、いち    じくもなく、ぶどうもなく、ざくろもなく、また飲む水もありま    せん」。  6: そこでモーセとアロンは会衆の前を去り、会見の幕屋の入口へ行ってひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現れ、  7: 主はモーセに言われた、  8: 「あなたは、つえをとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、    その目の前で岩に命じて水を出させなさい。こうしてあなたは彼ら    のために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませなさい」。  9: モーセは命じられたように主の前にあるつえを取った。  10: モーセはアロンと共に会衆を岩の前に集めて彼らに言った、    「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこ    の岩から水を出さなければならないのであろうか」。  11: モーセは手をあげ、つえで岩を二度打つと、水がたくさんわき出たので、会衆とその家畜はともに飲んだ。  12: そのとき主はモーセとアロンに言われた、    「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわた    しの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与    えた地に導き入れることができないであろう」。  13: これがメリバの水であって、イスラエルの人々はここで主と争ったが、主は自分の聖なることを彼らのうちに現された。  ~~~~~~~~~~~~~  ・ 岩が じつは霊の岩としてキリストのことであったというパウロの解釈のくだり:  ▲(コリント前書1:1-5) ~~~  1: 兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、  2: 皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、  3: 皆、同じ霊的な食物を食べ、  4: 皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。  5: しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  § 2  論点と言いますか ご主旨は 基本的にふたつだと思います。  ひとつは 《岩》がキリストだというのは あくまで比喩であるという見方。  ひとつは その比喩を言う前にそもそも《岩》が何であるか。これが 分からないのであって それこそ――つぎの言葉は使われていませんが――信仰の問題であり 一人ひとりの心の中の問題だと見る見方。  まづ  ★ 神や筆者への言葉として文中いかなる失礼があるかも判りませんが、門外漢の戯言とお許し下さい。  ☆ というお気遣いは だいじょうぶです。真面目に問い求めをしてその結論をお伝えいただきました。そこに 失礼はあり得ません。もし仮りにあったとしても そういう場合にはそのように回答を仕向けた質問者にすべての責任はあります。ご安心ください。  § 3  《信仰》の問題であり それは取りも直さず《わたし》の内面の問題であるという見方についてです。  ★ ~~~~  岩が何かは一切判りません。叩かれたから水を出したのかもしれません。叩く行為に関係なく水を出したのかもしれません。聖かどうか考える手がかりは無く、しかしそうした意味を深く考える事は神との関わりの考察を外れる無意味な物だと、私にも推察できます。だからこそあえて意味に知る必要はないと、何も述べられない示されない。おそらくは、それが「岩」です。  ~~~~~~  ☆ このご見解を承けて自然とみちびかれる内容は おそらくはすでに書きましたように《信仰》なのだと思われます。言いかえると 説教師の講解にも次のようにあります。  ● (参考サイトの説教師) ~~~~  たとえモーセのいら立ちや怒り、不信仰がありましても、キリストは命の水を拒むことなく、モーセと民のために、杖で打たれつつも、霊の糧である命の水を出して下さったのです。  ~~~~~~~~~  ☆ すでにきわめて抽象的で雲をつかむような話になっていますが もしこうだとしたら 《岩》は あらためてキリストである。ことになります。その意味で 《信仰》の問題だと言えるのではないか。  ★ 無意味  ☆ ですとか あるいは無根拠ですとか こういった表現の意味するところは 信仰であり神のことだとだいたい相場が決まっています。  たぶん これでよいのではないかと思います。  § 4  ところが この《岩》をキリストだというのは あくまで比喩なのだという見方があるはずだ。という点。  ★ ~~~~  前半は経験的判断の否定、後半は経験判断そのもので書かれた文章です。私見は私見と区別しなければ理解は純粋さを失います。また比喩は数式の様に=で結べるものではありませんから、言葉が示す概念の「方向や重なり具合」には十分注意しなければなりません。それを保持したまま述べるのが「岩なるキリスト」ですが、途中でその概念を喪失し、文章が変貌しています。言葉の表現を変えることは許されても、言葉の概念を変えることは許されません。  ~~~~~~  ☆ つまり 引用が長くなりますが  ★ ~~~  しかし、問題は3.『確かにモーセも人ですが…』の下りで、そこから岩は突然キリストになっています。概念の意味が完全に変わってしまったのです。モーセはキリストを叩き、キリストが水を出した事になっています。  それがあなたの指摘された違和感です。  ~~~~~  ☆ というかたちにおいて 講解は語っているという問題。  たぶん質問者なりに解釈しますと こうおっしゃっているのではないか。つまり  ○ ~~~~~  モーセらの現場では 荒れ野をさまよっているのであり そこにおける岩は あくまでふつうの岩である。そういう歴史もしくは物語の実際として 岩はどこまでも岩である。  ところがその物語を物語の全体として捉えて そこに述べられた内容や個々の要素をあとからさらに解釈するならば――パウロのしたようにであるにしろないにしろ―― 比喩なら比喩としていろんな解釈をくわえることも起きることだ。  そういうことであり そのような現場での話と現場から離れてみた話とを区別すればすむことだ。と。  ~~~~~~~  ☆ あとから解釈して得た比喩としての《霊的な岩であるキリスト》を 現場での《岩》そのものと同一視するなら それは話が違ってくるのだよと。  たぶんそういうことなのだとまづは理解したところです。  § 5  けっきょく 《ほかの誰でもなく〈わたし〉の信仰》の問題だという第一点は そのまま受け容れられますし 第二点の《後からの解釈としての比喩の話を 第一次の物語の現場での話とは別のものとして扱え》ということも うべなわれるものと思います。  では あとに何があるか。何か問題はあるか?  § 6  たぶん あります。たぶん  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~   ▲ (民数記20:8) 岩に向かって、水を出せと命じなさい。   ☆ と〔* 神が〕いうところを   ▲ (同上20:12) モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので   ☆ というふうに〔* モーセは神の言葉に従って〕《命じる》のではなく〔* 自分で勝手に〕《杖で岩を二度打つ》ことをおこなった。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 全体の内容から帰結される結論であると思われるのですが・そしてそれはそれで 納得の行く説明だと思われるのですが どうもそんなことで モーセは それまでの神につかえる敬虔さから逸れて民衆の不満を聞くのがいやになり投げやりになりしかも わるいことに すでに慢心を起こしてしまった》とみちびけるだろうか? この問いです。  じつは そう素直に読めるのです。読めるのですけれど もうそれ以上のことはありませんか? という変な問いになっています。  よろしかったら お知恵をお貸しください。

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