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熱中と充実感と死について
私は死をとても恐れています。 しかし、学校へ行かない日で一日を好きなこと、例えば本を読み、トレードの研究をしたりして活動的に、かつ熱中していると充実感に溢れ、死について考えずに済みます。 しかしこれをパスカルは「崖に向かって歩いているのに、目隠しだけして安心しているようなものである」といいます。(私も大体同じ考え方) 皆様の考え方ではこのようなことに関してどう思いますか? なお、私の意見はお礼、補足で述べない予定です。
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- tumaritou1
- ベストアンサー率28% (260/913)
率直に今考えている事を述べさせて頂きます。14歳から『死の恐怖症』になって、18年間もの間、『死の恐怖』と戦った経験が在ります。当然ながら、パスカルも読みました。 『自分は何者だろうか?』といった事柄も常に頭の中に、離れない問題として絶えず考えていました。死の恐怖感は、長年の慣れ、と云う事では解決しない問題と云う事が判りました。 『思えば思うほど、逃げようとすれば逃げようとするほど』そういった問題は、頭をもたげてくる問題でした。 『死刑囚の気持ちが分るような考え方になって、苦しい気持ちになって、長い間生きた結果』ノイローゼの状態になってしまって、離人症という状態で暮らしてきましたが、27歳で『入院森田療法』を2ヶ月間受けました。そこでの生活と、先生の教えによって、恐怖の実態を『意識の根底からの理解をする事によって』解消した経験が在ります。 その経験によって学んだ事を書いています。 鈴木知準先生の所で、入院森田療法を受けた時、先生の書斎に在った、『鈴木大拙博士の、禅に関わる全集』を、退院してから読んだものでした。 鈴木先生は、『ノイローゼは悟りを開かないと治らない』「ノイローゼの一年は十年座禅をした事と同じ』と云う事を、たまに口にしていました。 何日かに一回と言う感じで、『道に至る』『昔は苦しい想いで暮らしていた人が、そういう苦しい生活の後に、今は安楽に暮らしている』というような話を、本を読んで聞かせてくれました。 森田療法の真髄『症状の事は、口に出して云わない事』=『不問』と言う生活態度を、身に付けて退院しました。 その4年後、自分自身の恐怖を『起こしている者』に出会うという体験が在りました。その瞬間から『死の恐怖感』或は、自分は何処から来て何処へ行くのか?と言う長い間の疑問が全て『氷解した経験』を今書いています。 人間が何故苦しくなるのか、心に湧き上がる恐怖感が『何であるのかが分かるようになりました。』その原因は『心の矛盾』を感じている事です。 人間には、『心が二つ在るからです。』二つの心が争う場合に『漠然とした不安や、恐怖を感じています。』この事実と、この解決方法を『宗教文化の発展として』人類は『心の矛盾の解消方法として残しています』 キリスト教においては『神』と言う形で、仏教においては『仏性』と言う形としていますが、是は『右脳に存在する意識』です。他の言葉にするなら『自分自身に内在する命を働かせている意識』です。 『生命活動の源の意志』と言う書き方が一番適切と感じます。この意識の存在を科学的な記述になっているものから載せて置きますので、参考にして下さい。 キリスト教から入る事は分り難いと思いますが、『禅』から入る事は割と容易と感じます。禅は右脳の意識と出会うための『長い間の人間の業績が蓄積されています。』 鈴木大拙博士の著書を学ぶ事によって、『命の働きの意志』と出会う経験をさせて頂いた者です。博士の言葉ですが『今の世界の中で、禅が残っている国は日本だけ』と言っています。 禅には『右脳の意識』と出会うためのノウハウが書かれています。学んで『自分自身の疑問を解消される事を望みます。』 人間には二つ意識が在るという脳の研究による結論です。ウイキペデアからです。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した” 又右脳の意識が、脳による障害によって、はっきりと体感出来ている動画も載せて置きます。この主人公は脳科学者です。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
人間は、意識している部分よりも、無意識部分の 方が多いと言われています。 人間は、死を意識していないときでも、無意識 部分では死を意識しています。 死がなければ充実も無いでしょう。 死があるから、充実感も感じられるのです。 その場合の死は無意識下で意識している 死です。 だから 「崖に向かって歩いているのに、目隠しだけして安心しているようなものである」 というのは納得できません。
お礼
死がなければ死について考えることはまず不可能ですし、この世界のみで楽しみ続ければそれがその主体にとって全てで充実にあふれてますよ。 >納得できません。 例えば どこか得体のしれないけど漠然とわかる気もする場所に行くことになったとします。その時にあなたが何も調べずにその場所に行ったとします。 そのことについてその場所に一緒に行った仲間から「お前は崖に向かって歩いているのに目隠しだけして安心しているようなものだ」と言われたらあなたは「無意識では考えていた、あなたの言うことは納得できない」というのですか?そういうシチュエーションに基づいて言っているのです。 パスカルはキリスト教信者なのに対して私は無宗教なのでたしかに意味合いは変わってきましたね。すみません。 私は何が起こるかわからないところについて考えることもせず行こうとしているのはどういうことなんだという思いからです。 ご回答ありがとうございました。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
小学生のころには死を恐れたものでした。 少し成長して、高校生のころになると生が有限であることに恐れを感じたものです。 今は、生が余りにも貴重であることに気づき恐れ慄くことはあります。
お礼
そうなのですか ご回答ありがとうございました。
- cincinnati
- ベストアンサー率46% (606/1293)
「人は考える葦である」という言葉は科学者でもあり、数学者でもあり、また熱心なキリスト者であったパスカルの言葉ですが、人間は考えるという能力を与得られていますので、パスカルでなくても自然の傾向としていろいろなことを考えるのだと思います。 その結果人は自分はどこから来て、どこに逝くのだろうかと思わず考え始めてしまうようです。そして即座に気づくことは、過去のことも未来のことも自分の目には「無」としか見えないということではないでしょうか。たとえ刹那的に楽しいことがあって、その「無」の現実を忘れることが出来たとしても一時的で、また自然の傾向として、自分はなにものだろうとか、死とはなんぞやなどと考えてしまうのではないでしょうか。 パスカルは哲学とは哲学を嘲笑し、批難することであるとも述べていますので、人間の考える力はどこまでも風に吹かれて定まらなず、結論に至らない問題に無常にも弄ばれてゆくのみのような気がします。すこし考えれば、人はたちまち虚無的になってしまいます。どんな業績をあげようと、そのために努力をしようとも「死」で全てが終わってしまうのであるならば、死んだのちに評価されようが、後世にその名が語り継がれようが、虚しいことに変わりはありません。 >私は死をとても恐れています。 勇ましく死んでいった多くの方々がおりますが、内心では恐怖におののいていたのではないでしょうか。聖書の中でしかしパウロは以下のように述べています。 (21) わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。(22) しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。(23) わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。(ピリピ1章) イエスは語っております。「私は道であり、真理であり、命です。だれも私を通してでなければ、神のもとにゆくことはできない。」私どもを作られた存在者には私たちを生み出した目的があります。 ご自分の死の恐怖に対処する方策が聖書にあります。近くのプロテスタントの教会の牧師に訪ねてみてください。ご質問者さんの疑問に答えるために牧師はその場所に神により遣わされています。
お礼
>パスカルは哲学とは哲学を嘲笑し、批難することであるとも述べていますので、人間の考える力はどこまでも風に吹かれて定まらなず、結論に至らない問題に無常にも弄ばれてゆくのみのような気がします。 そういう意味合いだったのですか。前からいまいちわからなかったのですが納得行きました。 もし宗教を信じるのであればプロテスタント以外ないと考えているので時々協会には行っていますが、あれは追い求め続けなくては神を見ることはできないかつ、理性では理解出来ないと言われているので、先が見えず今は保留中です。 ご回答ありがとうございました。
- ga111
- ベストアンサー率26% (247/916)
よくある考え方だと思います。 死に対するネガティブ スパイラル、もしくは、消極的らせん状の下降線的考え方。 大部分のひとは、こういったネガティブ スパイラル的考え方をしないようにしていると思いますが、個人の自由でしょう。ネガティブ スパイラル的考え方をしない人たちは、経験的に日常生活に支障をおこすとか考えるのかもしれません。 死ぬのは当たり前だろ、と平然と構えた人たちもいます。
お礼
ご回答ありがとうございました。
補足
そういうことは把握しています。 出来ればあなた個人の見方を教えてくれませんか?
- MOG777
- ベストアンサー率14% (20/139)
死を直視して自殺する者もいますし 死を直視して有意義な生を送る者もいます。 死を直視して殺人を納得する者もいますし 死を直視して他人を尊重する者もいます。 また、薬で症状が軽くなる者もいれば 同じ薬で副作用に苦しむ者もいます。 ひとつの行動は対象との相互作用により良い結果、悪い結果、無反応をもたらします。
お礼
ご回答ありがとうございました。
補足
そういう人がいるのは私も一応知っています。 出来ればあなた個人の考えを聞かせてもらえませんか?
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お礼
禅とキリスト教の間に存在する違いと共通点というのも面白そうですね。 でもそれだと右脳の機能に障害を持った人はどうなるんでしょうね。 ご回答ありがとうございました。