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熱中と充実感と死について
私は死をとても恐れています。 しかし、学校へ行かない日で一日を好きなこと、例えば本を読み、トレードの研究をしたりして活動的に、かつ熱中していると充実感に溢れ、死について考えずに済みます。 しかしこれをパスカルは「崖に向かって歩いているのに、目隠しだけして安心しているようなものである」といいます。(私も大体同じ考え方) 皆様の考え方ではこのようなことに関してどう思いますか? なお、私の意見はお礼、補足で述べない予定です。
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- amaguappa
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314hさんの仰るような意味でパスカルの言葉を捉えるのも、一面ではそのようにありうるかもしれませんが、 むしろパスカルの見据えた〈死〉について、後年プランショが掘り尽くしたところが 思潮の本流であるように思います。 すなわち、死は不可能な経験であるということ、 死ぬことのpouvoirを欠いた様態でしか、生という時間も空間も立ちあがってこないこと、 そのような不可能性としての死を内包しているのが生であること、 ブランショはこれをめぐって初期の主著である『文学空間』を著していますが、 パスカルにおける〈死〉もまた、想念や概念の想像上の死のことではなく、 生と何らかの状態で関わる経験としての、得体の知れない空隙なのではないでしょうか。 〈崖〉で行き止まりとなる歩みのイメージは、なるほど生の延長に死があるようにも見えるでしょう。 けれども、パスカルが感じているように、崖はすでに在る、ということについて、いっそうデリケートな視線を向ける必要がありそうです。 それは〈私〉の世界の経験を俯瞰視する思弁において、 あたかも一つの経験的事象であるかのような崖であるかもしれませんが、 実際は、他者によってしか〈見えない〉崖であることでしょう。 どの〈私〉にとっても、〈目隠し〉されていることが生の条件でしょう。 わたしから教えてさしあげることがあるとすれば、 この、延長のような見せかけを持ちながら同時的内包の様態にある生と死とは、 時間や空間を認識として立ち上げるバランスのようでもあり、 奇妙な不安が根を深く降ろす原因ではあるものの、 人間は、意志というもうひとつの次元の営みを持つことができるということを知って頂きたいと思います。 パスカルのほかにもジードが描いたように、 熱中や充実感は、生の裡に死を排してあるのではなく、 死を捩じ伏せて屈服させている生命力の、生きる意志そのものの発露です。
少し付け加えます。 感慨です。 昔、若かった頃、仕事先の老人(女)から聞きました。 時が過ぎてゆくのが早い、恐ろしいですね、と言っていました。 私はその頃は、恐ろしいとはまったく思っていなかったのでその言葉が印象に残りました。 でも今になって、その言葉の意味が分かります。 それは、確実に死に近ずいてゆくことの実感です。 見渡せば、周りにいた人達も次々に消えていってしまったという事実が何よりの証明となって迫ってくる感じです。 もう、目隠しがきかない、感じです。 また、崖の向こうに甘い夢をみることもない 若い頃は光と闇があったような気がします。 でも今は違う。 うまく言えませんが 別な世界にいるような感じがします。 何度も死んでは生まれ変わった・・・と言えばきれいですが 結局、絶望と希望の狭間を行ったり来たりしているうちに時間が過ぎてゆく 気がつけば、昔の絶望も希望も夢みたいなものです。 昔、崖だと思っていた時間の中を 今、自分が平然と生きている 不思議ですね。 やっぱり若かった頃は、生きてゆくことが不安だったのだと思います。 今まで生きてきてよかった・・・とは言い切れないのですが 命を絶つよりはよかったのではないかと思っています。
お礼
アインシュタインが言っていた年をとるにつれて感情の振れ幅が小さくなり、次第には孤独すら甘美になるというような感覚を言っているのでしょうが、私には体感したことが無いので理解出来ないんですよね。 体感してみたいものではありますがずっと先のことなんでしょうね。。。 確かに命を絶つよりはいいと思いますね。
補足
パスカルの言う目隠しというのはおそらく崖のことは理解しているにもかかわらず、それについて深く考えない姿勢を表現しているのだと思いますよ。
>崖に向かって歩いているのに、目隠しだけして安心しているようなものである 人の愚かさを捉えたような意味だとすれば素晴らしい喩えですね。 私の友人で、目隠しをしないで崖に向かって歩いていってしまった人がいました。 崖を崖とも思わなかったのでしょう。 すべては冷静でした。 ですが、私は彼が正しいことをしたとは思えません。 周りの人達に対しても、彼自身に対してもです。 生きることは誤りかもしれないが、死ぬことはそれ以上に誤りだと思うからです。 誤りをごまかすのが熱中ならば、その充実感も虚しいもののように感じます。 でもまだ一時的でも充実感があるうちはいいのではないでしょうか。 淡々と崖に向かって行ってしまうような状態が怖いと思います。 知らず知らずのうちに、目隠しをされている方が幸せなのかもしれません。 目隠しを取って、自分に残された崖までの距離をどう生きるか 駆け足で行く必要はないと思います。 誤りや虚しさ、という言葉は付きまとってもいいから一歩一歩を大切にすべきと思います。 崖の向こうに夢をみるよりはいいのではないでしょうか。
お礼
不可知論や無神論の立場を取るのならそれ以外に選択肢はないんでしょうね。。。 ご回答ありがとうございました。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
回答への感想ありがとうございます。 一時的なもの、という表現は一時気を紛らわせていられる、と言った意味合いで使ったんですが…別の表現があるかどうかあとで考えてみます。(今から出勤なので) また仏教的考えですが、親の元に帰る(帰趣←あまり一般的でない言葉ですが)という思いが持てるようになってきたように思っています。
お礼
そういう意味合いでしたか。 その心情がいまいちわかりませんね。こればかりは実際になってみないとわからないんでしょうか。 ご回答ありがとうございました。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
死への恐れ、恐怖。 それは不安感の伴った恐怖、だと思います。 若いときは“自分”がまだ定まっていません。 自分は何なんだ、どうしたいんだ、何がしたいんだ、どう生きればいいんだ、と解からないことだらけが不安感をあおり、それが死への恐怖と重なってくるように思います。 自分という者が何だかわからないままでの死は、怖いという心理が起きるようです。 それは、生き切るという事が“命の目的の一つ”だからでしょう。 それゆえになにか物事に熱中しているときは、忘れていられるんです。 でもそれは一時的なもの。 そしてその一時的な物事への姿勢をパスカルは批判したのだと思います。 人生の目的、生き方を明確にできている人の死への恐怖感はあまり持っていないように想像しますが、私は目的を持てないまま歳をとったので、永いこと死は恐怖でした。宇宙の彼方へ一人ぽつんと置き去りにされてしまうような恐怖感です。 でも歳のせいか、結構その恐怖も薄められてきています。 それは幼子が母の胸にい抱かれているときの安らかな様を死の中に見出せそうになってから。 死ぬという事は我が母の胸の中に帰ることだ、神様仏様の懐に帰り、抱かれることだ、と思えるようになってから。 そしてそのことを確信して死にたいので、努力して好ましい生活をして、父母や神仏に嫌われぬようにしています。
お礼
ご回答ありがとうございました。
補足
一時的というのは死後という永遠と比較して一時的という意味でよろしいですね。 それと一つ気になる点があったので質問させてください。(めんどかったら補足への回答は結構です) >歳のせいか、結構その恐怖も薄められてきています。 >神仏に嫌われぬようにしています。 >そのことを確信して死にたいので 今はまだ仏教に対する確信に至っていないが確信が強まってきていて、それによって恐怖がなくなってきているのか。単に年を重ねるとこの世においての自分の位置づけがわかり、なぜかそれによって死後の恐怖はなくなってくるということなのか。どちらのほうですか?
- kannzou001
- ベストアンサー率22% (49/216)
>「崖に向かって歩いているのに、目隠しだけして安心しているようなものである」 目隠ししたら余計怖いと思うのだが・・・。 自分の人生がいつ終わるなどは分かりませんが、日本人の死亡率や平均寿命という、前例を例に取れば自分が、持病もなく健康体なら、食生活などを気をつければ今の世の中少なくとも60歳以上は生きれます。 事故にあう事も確率論から考えれば、恐れる要素も少ない。 私の中では崖は、まだ遥か先にしか見えないのでその実感すら余りありません。 でもその崖は自分が思っているよりも、近いかもしれません。でも私には遠くしか見えないのです。だからまだ死の恐怖や実感は全く抱けないのです。 そのため、毎日緊張感の無い日々を送っています。 むしろ私は、人生を無駄に長く生きてしまうのではないかと言う、恐れを抱く事はあります。 >皆様の考え方ではこのようなことに関してどう思いますか? むしろ羨ましい。死を実感出来ると言う事はそれだけ必死という事だから。 私も人生を必死に生きてみたいです。
お礼
必死というわけでは無いですよむしろ絶望に近いです。 ご回答ありがとうございました。
補足
パスカルについてあまり知らないようですので簡単に。。。 目隠しして歩くというのは人生の最後にしろ必ず死が待っているにも関わらず、それに対して大して考えもせず生きている人たちに向けてパスカルが皮肉を込めて放った文章です。 それと死というのは突然死などもたしかにそうですが基本的には老化による死というつもりで書きました。
どう考えようと死は確実にそして必ず訪れます。 それが明日なのか数十年後なのかは誰にもわからない。 死に対するどのような解釈を行なってもそこから逃れる事は誰にも出来ません。 目をそらすのも良いし、正面から対峙するのも良いでしょう。 問題なのは死の瞬間をどのような状態で迎えるかって事。 後悔をしながら死ぬか、満足して死ぬか… これは生まれてから死に至るまでの人生の総決算です。
お礼
ご回答ありがとうございました。
補足
色々な見方があるのは一応知っています。 出来れば質問にあるようにあなた個人の意見をお聞かせ願えませんか。 論理的でなくても感覚的でもかまいません。
- worldallone
- ベストアンサー率25% (78/301)
そのテーマについては、今後アセンションと呼ばれる弟4密度の世界に移行する際の 重要な鍵となっております。 というのは人間最大の恐怖が生と死についてなのです。 恐怖をなくすとは死の概念自体なくすことです。 そもそも存在自体に本当の死などないのです。勝手に思い込んでいるだけです。 その例として睡眠です。これは多次元の自己へ移行している状態です。 この状態を今の常識は死と呼んでいるんですが・・ 毎日この次元の肉体に抜けたり戻ったりしているんです。 本当にさまざまな世界があります。今後時間などもただの幻想と思えてくるでしょう。 科学的にも明らかになってくるでしょう。これは素粒子以下の話です。 UFO(地球外知的生命体)と死の世界とは密接に関わっています。 すでに地球ではその技術は持っているのですが・・ まぁ本題とずれるので割愛し、とにかく今は信じられなく、 頭がおかしいんじゃないのかと想いでしょうが、天動説から地動説みたいなもんですよ。 しかしそれを論理だけでは理解できないですから、実際体験し、 経験して払拭するしかないわけです。 生きているときに死の恐怖の軽減・克服を体験する為にはいろいろあるとは思いますが、 一つあげますと、ヘミシンクというツール(道具)があります。 これはオーディオ・ガイダンスの特許技術で、バイノーラル・ビートと呼ばれる、 左右両脳が同調して活動する技術のことです。 自動的に変性意識という状態に導くものです。 いうならば睡眠時に意識が移行する過程とかを体験出来るのです。体外離脱ともいいます。 実際はラジオの原理です、(振動周波数)意識の集意点がどこの世界に合わさってるのかです。 多次元の自分とヘミシンクで共鳴を起こすことで、異なる二つの次元の体、 意識が記憶と共に共有出来ます。 これを極めれば、コントロールすることが出来ます。死後の世界など探索する事が可能です。 肉体は仮の自分だと認識出来るようになります。 通常睡眠時は意識の共鳴がないので記憶を持ち帰ることは出来ません。 参考HP http://www.aqu-aca.com/contents/whats-hemi-sync/whats-monroe-inst.html もうそろそろ大概の人々は古い価値観や信念から(解放)自由になってもいいと思うのです。 これを人間の覚醒と呼びます。それを促したいからです。
お礼
人間が話す人間に理解出来ないことは信じませんが。。。 ご回答ありがとうございました。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
肉体が「自分」だと思えば、死は絶対的喪失となって絶対的敗北となる。 しかし「自分」は意識=認識される宇宙全体だと思えば、それは自己の社会生命性や環境との物質循環の自覚化において、他我=愛として、肉体をこえた意志に至り、死=肉体的有限性をこえ、他人への信の限りの永遠の未来の意志の達成が感じられる。 そもそも死は、一般に考えられているような「生命的な生きる意志の敗北」ではない。 人類の遺伝子には、最後に回数券のようなくり返し配列が(50回ほど)あり、一回細胞分裂するごとにくり返しが1つ減って、なくなるとそれ以上細胞分裂できず、新陳代謝できずに老化して死ぬようになっている。 交配のための競合と世代交代により、単なる細胞分裂と自然淘汰よりも、迅速な進化を可能にしているのだ。 要するに、死(世代交代)は愛(交配)とセットであり、不死を望む事は、交配における異性への愛や親子愛を否定する事だ。 よりよく生きるとは、適切に死ぬ事(=世代交代する(生産し育成する)=愛し合う=誕生の喜び)なのだ。 宇宙(認識)とは、無の潜在としての認識可能性の“断面”の移動=自我仮説に対する、相補的な時空仮説として生じている。 そこにおいて、宇宙の膨張=不確定性(h)の収束という、異なる本質=異なる認識可能性を一つの軸(時系列化)にするところに時間性は依拠しており、過去の自分も、空間的広がりにおける他人も同じだ。 宇宙は、別の認識可能性を自己同一視するという、ある種の精神異常として発生し、実は他人も共通であるという愛に向かって進むと言える。 宇宙の発生に、異なる認識可能性(h)の時系列化が必要であったように、その補完(時空仮説に対する無の射影)としての存在性に於ける認識可能性の他我化=愛こそが死生を超えて、生理的な認識性の最大化とその充足の最大化を両立させるのだ。
お礼
確か別の回答でもお見かけしましたが、そういう難しい言葉を使われても理解が行き届きません。 ご回答ありがとうございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 死について考えずには済まない時間が 休みのときにはおとづれるということでしょうか? そして考えるというよりは 恐れが現われるということなのでしょうか? まぁ よくぞここまで生きたわい そろそろみまかるとしようか というところまで行けば いいのではないでしょうか? 百年かその倍の二百年。 その もうよいというところに到るまで生きるわけですが じつは それでも 死のおそれは出て来ます。 出て来ますよ。どうしましょう? とまづは思います。 そちらからの応答はないということですので もっとしっかりと考えを述べ切らないといけないのでしょうが ぎゃくに ここまでで もう継ぐ気がなくなりました。 ぢゃあ 回答をよせばよいとも考えましたが むしろいぢわるのために寄せることにします。
お礼
ご回答ありがとうございました。
補足
こんにちは 考察と言うよりも皆様の意見をただ聞きたいだけでしたのでいつものように応答はしないということにさせて頂きました。 ですから考察よりも単なる意見を聞きたいです。 それでもアンケートカテゴリにしなかったのは回答の質が上がるんじゃないかなと期待してのことです。
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お礼
ご回答ありがとうございました。
補足
すみませんが哲学の分野に関しては最近考え始めたことであり、納得できるもののみを独学している状況なのでわからない部分が多々あります。 パスカルの死を掘り進めたものというのがいまいち理解できません。 一応調べたのですがわかりませんでした。 >得体の知れない空隙なのではないでしょうか。 彼からそれに関するキリスト教的考えを省けばそうなると思いますね。 >〈目隠し〉されていることが生の条件でしょう。 そういう意味の目隠しが最初のほうで言われたパスカルの本流と言われる解釈なのですか? しかしパスカルが「目隠しをして(絶壁を見えないようにするため、なにか目を遮るものを前方において)」と積極的な表現で書いてあり、さらにあれだけ気を紛らわすことについてパンセのなかで書かれていることを考えると、これは人間が気を紛らわす意味で目隠しと言ったんだと思います。 つまりここで目隠しの対象となっているものは、死という中身はわからなくても、人生にとって重大であり、直面しなければならないかかわらず、それから目を背ける姿勢について言ったんだと思いますが違いますかね?(解釈の違いのようなものが見られたので一応確認です) >延長のような見せかけを持ちながら同時的内包の様態にある生と死 この2つの違いがわかりませんね。 私が問題としているのは主体的な死で、どのような捉え方をしても一個人にとって不安の根源の死が解消されるわけではないですよね? >意志というもうひとつの次元の営みを持つことができる それらもすべて死後に私という主体にとって意味がなくなることを考えると非常に絶望的だと捉えています。。。 >熱中や充実感は、生の裡に死を排してあるのではなく、死を捩じ伏せて屈服させている生命力の、生きる意志そのものの発露です。 解決できない大きな問題が眠っている限り、私にはまだ気を紛らわすと捉えることしか出来ません。 特に、熱中している人からそれを取り上げたときはどうなるかと考えると絶望しか残りません。そして取り上げられる可能性は十分にいつでもありえます。病気にしろ戦争にしろ。。。 そうなったとしたら主体は人生の空虚を感じてしまいませんか? もし感じるとすればそれは人間の思考による熱中や充実感がいくら増しても永続的な幸福は望めないし、仮に望めたとしてもそれは環境が主体の熱中や充実感を妨げない場合ということになるので、やはり私の倫理的にも受け入れがたい考え方になってしまいます。