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手書き文化について
- 手書き文化の魅力と現代の変化について考察します。
- 古筆切・古筆手鑑展で感じた手書きの美しさと情感について紹介します。
- ネット普及による手書きの減少と、その影響について考えます。
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素敵な投稿ですね。 私は大切な方への年賀状は、手書きをしています。 手書き=心が伝わる、感情の表現がしやすいと思っています。 相手を想い、一文字一文字丁寧に書こうとするこころ 時には怒りが爆発して殴り書き それを自分であらためて読み返す時の様々な感情。 手書きの文字でなくては味わえない心の機微が存在すると思います。 仕事では、できるだけ感情が先にたたずにお付き合いしていきたいので メールやプリントしたものを使用しますが 身内に対しては、ここぞと言うときには手書きで対応しています とくに、子供たちをしかるときなどは。 姪が遊びに来て帰ったあとに、本棚が乱れ、ブックカバーを外したまま折れているものがありました。 私は、あえて、「人の本を借りて、返すときに元のとおりにしまえない、汚す」ということについて 「とても悲しい思いをしました」という気持ちを手紙にしました 姪からは「ごめんなさい」という内容と共に、そのときの状況や気持ちが書かれていました。 たぶん、便箋や封筒も気持ちにあわせて選んだでしょうし、 なんども、書き直した様子が伺えました。 内容はメールでももちろん伝わるのでしょうが 自分自身を見つめ、相手を思い、心をつなぐ時間がもてた、善い時間だったと思っています。 ご質問に添う内容ではなかったかもしれませんが、 思わず嬉しくなり回答を寄せさせていただきました。
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- heart_mind
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丁寧なお返事をありがとうございます。 マシュマロさんのお考えが他の回答者様との対話でなんとなくですが、 ちょっとだけ、えーと、こんな感じかな。 確かに、英語の立体的な精緻さは曖昧でフラットな日本語にはないもの かもしれません。 また、日本の基礎教育にいても言葉の規範性については、大切には されていると思いますが。 しかし、一方で今までは日本語の美をどこに求めるかといえば、 散文、いいよどみ、脈略のない写実、宮沢賢治的かたこと、リズムなどなど フラット感をそんな風に、規範性を壊すことでから底なしの自由をもとめる ことで立体感のようなものを追い求めてきた気がします。 書道も規範性と隣り合わせにそんな前衛的な要素があるのかと思っていましたが 現代では、はやんないんでしょうか。 それよりも、マシュマロさんは、英語の精緻的な規範性を日本語に取り込むことで、 立体的な表現を可能にして、さらなる発展を追い求めたいということなのでしょうか。 今までは、修辞的表現からもっともっと自由になろうと、 規範を取り除く試みで美を求めてきたかもしれないけど。 やはり、これからの時代はマシュマロさんのような考え方も 必要になるかもしれませんね。 こんな理解をしましたが、違ってますか。
お礼
heart_mindさん、何度もお付き合い下さって本当に感謝します。 >他の回答者様との対話でなんとなくですが >英語の精緻的な規範性を日本語に取り込むことで、立体的な表現を可能にして、さらなる発展を追い求めたいということなのでしょうか。 これに対しては私の文章が至らないために誤解を招いてしまったようです。 ごめんなさいね。話があちこちに飛ぶのも原因でしょう。 Ciaopolpoさんとのやりとり(No.6)から私があらためて考えさせられたのは「言葉は武器」であるということです。 私の生活の基盤はもちろん日本ですが、海外に行く用事もたまにあります。 その時ほど「言葉は武器」と認識する機会を私は他に知りません。 自分の言葉を最大限に駆使して、いかに他人を説得するかに全力を注ぎます。 (また、過去の滞在においてそうしないと暮らしていけなかったのも事実です。) ところが日本にとどまっていると、その必要性があまり無いように感じられます。 持てる自分の言葉を駆使して自己表現しようという気概が感じられません。 日常生活で支障をきたさなければ良いという考えもあるでしょう。 しかしながら今、世界は一瞬にして繋がっている状況です。 たかが一素人の書き込みが多大な影響を与えることだってあり得る時代です。 発言の影響力という点でその最たるものは政治家の発言ではないでしょうか。 お手本にも反面教師にもなり得るのです。 このギャップをどう克服するか。 こういった(国内外を問わず他人に対する言葉を用いた)自己表現力というものは、国内にいてはそう容易く身につくものとは思えません。 あるいは国内のみで通じる内輪受けの内容(説得力に欠けるゆえに陥る日本特殊論など)に甘んじる傾向もいまだあるのではないでしょうか。 日本の未来は現状以上に安穏と暮らせる状況とは私には思えません。 ですから、日本の子どもたちに機会を与えるなら先の自己表現力を培う機会であって、世界にあってはローカルな手書きによる文字の習熟の機会よりも優先順位として勝るであろうとの結論に至った、とお礼で述べたのです。 インターネットがもたらす功罪と言ったらおこがましいでしょうか。 私自身、キーボードの多大な恩恵を受けているにもかかわらず、多少穿った見方をする妙なところがあるのです。 きっとひねくれているのでしょう。 功についてはCiaopolpoさんがご指摘の利便性、効率性が挙げられます。 今まで書くのが容易ではなかった漢字が自動変換によって多用出来るようになりました。 辞書要らずで省スペースで、編集にかかわる各種機能も計り知れません。 また、遠く離れた海外とのやりとりがこんなに楽で便利になった時代はありません。本当に夢のようです。 他方、罪についてはhekiyuさんのご指摘通りです。 あるいは、手書きしなくなることによって、私たち日本人が漢字を書けなくなる、つまり電子機器無くしてかな文字でしか作文できなくなる怖れが挙げられるでしょう。 この功罪の罪がもたらす影響が、日本を含めた漢字文化圏の国々の文化にいかようにあらわれるのかという懸念は拭えません。 そしてそれは日本人、そして日本人同士のコミュニケーションも変容させることでしょう。 漢字文字の歴史をふりかえれば、時代につれ相応の変革が為されてきましたし、わが国も敗戦前後で漢字教育が異なります。 今後はさらなる教育改革が予想されます。 手書きを廃して視覚的な活字認識に特化していくことは避けられないのかもしれません。 ただ、便利さを追求する陰で何かを失っていくとすれば──いったん失われたものは、そう容易く復興することは簡単ではないような気がしてならないのです。 >さらなる発展を追い求めたいということなのでしょうか。 立体的な表現…そうっか、それって面白い発想ですね。 形骸化に甘んじることなく(前衛書道も含めた)日本の芸術文化のさらなる発展を求めたいところです。 でも、最近書道科や美大などへの出願率がだいぶ減っているそうですよ。 このところの不景気の影響を受けているのでしょうか。 私は40代半ばですが、例えば当時の芸大(美)の志願倍率を思えば、近年の倍率の低さが嘘のように思えるくらいです。 (全体の志願者総数が減ったにしても大幅減です)。 heart_mindさん、ありがとうございます。 拙文の意を最大限に汲み取ろうとなさっていただいたことに対し、心より感謝申し上げます。
補足
こちらにて回答をお寄せ下さった皆さんにあらためてお礼を申し上げます。 いずれのご教示もたいへん参考になり、深く考えさせられました。 全ての方にベストアンサーを差し上げたいのですが、システム上それが叶わないことをお許しいただきたいと思います。 ごめんなさい。 ひねくれた拙問に対して最初にご回答を下さったNo.1さんに差し上げたいと思います。 ですが、私の気持ちとしては皆さん同等です。 本当にどうもありがとうございました。
No.4です。相変わらずそそっかしいので、ご質問の趣旨を取り違えた回答をしてしまったにもかかわらず、丁寧なお礼をありがとうございました。 毛筆ではなくて、手書きのお手紙のことでしたね。 御礼の最後にあったように、確かに、キーボードに収まりきらない日本人の情感や余韻は、絵文字に変換されているように見えますね。 また、話が変わって申し訳ないのですが、 私は、この変換してポン、と手軽に書けるようになったのを機会に、もう一度、日本人の自己表現の苦手さを振り返って、特に政治家のスピーチを書くお仕事の方や、翻訳家、小説家、など、言葉にかかわる人たちに、もっと、人の心を揺さぶるような、理論に裏打ちされながらも、感情にも訴えかけるような、文章を書けるようになって欲しいと願っているのです。 フロリダで、十七歳の黒人の男の子が、パトロールの警備員に誤って撃ち殺される事件があり、それが自己防衛で処理されて、逮捕に到らず、大問題になっているのですが、それについての、オバマさんの言及は、”もし自分に男の子がいたら、きっと、彼のような外見だったに違いない。この事件を見過ごしてはならない。”というもので、さすがのメディアも、シンとしました。 TPPの参加について”アメリカはレノン、日本はマッカートニー”の軽さとは、一線を画するものだと感じます。 ジャクソン・ポラックのリンクをありがとうございます。彼が活躍した時代は、アメリカが野心に満ちて、活動していた時代で、各地に高層ビルが建ち始め、その玄関ホールや会議場の存在感を高めるために、彼のバケツから絵の具を(実際に)ぶちまけた創作が、売れたように思います。(フランスの画家が印象派以降、抽象画に移行するのに時間がかかったのは、高層ビルが建たなかったからかもしれません。) 彼のパトロンはグッゲンハイムさんだったらしいですが、例えば、私の住むヒューストンの小金持ちのお家を訪問すると、モダンなお家には結構大作が飾ってあります。伝統的な間取りの家には、そんな場所がないので、小さめの油絵を飾ってあるお家が多いのですが、驚くほど有名無名の印象派以降の作品ばかりです。お家に合わないんですけどね~。好きなものはしょうがないですね。 ちょっとしたギャラリーのようなお家が多いのは、パーティなどがあったときの話題づくりもあるのではないか、と拝察します。 美はパトロンによって創られるんですね。仰るように、バブルの時に、焦って土地を買いあさった、その気持ちは判るんですが、私も、それは、それは、残念に思います。 あぁ、また、話がそれてしまって。 文章を外部に発信してゆく手段として、手書きの書信がたどる道は、狭くて厳しいものになるでしょう。小学校辺りから、”手書きクラブ”のような活動をしてみたらどうでしょう。あとは、いわゆるファッションとして、(嗜好あるいは趣味として)残ってゆくような、場所が必要になるでしょうね。
お礼
Ciaopolpoさん、重ねてのご教示をどうもありがとうございます。 「もう一度、日本人の自己表現の苦手さを振り返って…人の心を揺さぶるような、理論に裏打ちされながらも、感情にも訴えかけるような、文章を書けるようになって欲しい」に私は大いに賛同します。 そして未来ある子どもたちには、対外的にみても今の日本人に欠けていると思しき相応の自己表現力を育成する事のほうが、手書きの習熟よりもはるかに急務と言えるのでしょう。思わず納得です。 >”アメリカはレノン、日本はマッカートニー”の軽さとは、一線を画するものだと感じます。 おっしゃる通りですね。 「人の心を揺さぶるような、理論に裏打ちされながらも、感情にも訴えかけるような、文章」など、現状では絶望的にすら映ります。 ならば、せめて”失言”くらいはしないでいただきたい。 アメリカへのリップ・サービスの意を込めたのかもしれません。 ですが、失笑ものでしょう、国内外を問わず。 オノ・ヨーコにはどう映ったことでしょうね。 アメリカの高層ビル群と抽象絵画に関するご教示も興味深かったです。 旺盛な需要に見合った当時のアメリカに相応しい作品、ビルを飾る壁画が次々に製作されていったのですね。 ヒューストンにお住まいとのこと、ロスコのチャペルはお近くですか。 彼もまた、当時マンハッタンの某ビル内レストランのために手掛けていますよね。 ロンドンと国内に分割所蔵されているのを私は観たことがあります。 あれらが一堂に会したと想像すればさぞ圧巻でしょうね。 当時のアメリカのパワーや隆盛のほどをうかがい知ることができそうです。 他方、パリを中心としたアンフォルメルに日本の美術界は影響を受け、互いに交流を得た経緯がありますよね。 昨年の震災と原発問題の余波のなかで某美術館が企画したアンフォルメル展を思い出します。 その頃はまだ日本の文化庁による美術品損害補償制度が無く、MOMA以下若干の貸し出しがキャンセル扱いとなったのも致し方ない措置と言えるでしょう。 で、ようやく会期後半(6月だったかと)にポンピドゥーから大作1点を借り受けることが出来たと作品横のキャプションで知りました。 あたかも大きな一枚扉のような、茶と黒の構成で光と躍動感に充ち溢れた作品でした。 そうそう、彼の出身地である南仏一帯も洞窟壁画が点在するのです。 日本の将来に覚束なさを感じながら観たそのアンフォルメル展と、(前日千葉沖で大きめ地震があった影響で翌日だから閑散としていた)先のポロック展。 どちらも私にとって生涯忘れられないものとなりそうです。 私の方こそ大いに脱線してしまい申し訳ありませんでした。 また何かお気づきや誤記などありましたら、どうぞご教示下さい。 (一両日中に締め切る予定です)
補足
再読したところ、私のほうこそ、そそっかしいどころかあり得ないような誤記を見つけたので訂正させていただきます。 さぞかし奇異に思われたことでしょう。すみませんでした。 No.3ご回答お礼欄 ×「当時のアメリカの国威と諸々の思惑との合致──ロスチャイルド家」 ○「当時のアメリカの国威と諸々の思惑との合致──ロックフェラー家」 追って皆さんにお礼を申し上げたいと思います。 もう少々お待ちください。
- heart_mind
- ベストアンサー率13% (5/38)
すいません。言葉足らずな面がまたでてしまいました、あいかわらずですが。 「言葉足らず」をどこかでもとめていないでしょうか、ということなんです。 若者のはやり言葉なんて、まさにそれで、短くして伝わる人にだけ、つたわ ればいいという排他的欲求は、もっと言葉よりも純粋なことを伝えたいという、 ことなんじゃないでしょうか。 英語圏の方が、日本人のワードに対する感覚の鈍さを指摘される理由には、 言葉の機能の軽視の現れではないかと考えてみたりします。 ワードの機能、記号の厳密さにこだわりたくない。なぜなら、そこには、 もっと純粋なことを伝えたいという欲望が隠れているからだと思うのです。 だから、こんな風に一文字づつコードが整然と割り当てられていることに あらがわないでいられないんじゃないかと思うのです。 絵文字とかもかわいいですよね。 コミュニケーションの本質を大切にしたいから、遊ばずにはいられないと いうことじゃないかと。 だからローカルからみたらマシュマロさんは、少数派にはとても思えない かな、となんとなく思ったのです。
お礼
heart_mindさん、お忙しいのに本当にありがとうございます。 「言葉よりも純粋なことを伝えたい」って…そう思う若者の排他的欲求って一体何でしょうね。 それってもしかすると──いつの時代にもあると思われる大人社会に対するある種の不条理感や閉塞感などを仲間うちに伝え共感したいというあらわれでしょうか。 このたびのheart_mindさんのご回答では「英語圏の方が、日本人のワードに対する感覚の鈍さを指摘される理由には…」のくだりに特に興味深く考えさせられました。 日本人の「言葉の機能の軽視」と「ワードの機能、記号の厳密さにこだわりたくない。」とおっしゃる事から私が考えたのは、論理的な文章や会話にさほどこだわらなくても、本意が伝わるであろうという独善的かつ排他的な傾向がやはり否めないのではないかということです。 修練不足なのか、煩わしいだけなのか、定かではないにしても。 ところで──このお礼を入力する僅かな時間のうちにも、文字入力変換に要する選択そして決定キーを随分と叩いているなあとあらためて気付かされます。 それも凄い勢いのスピードで要領良く半ば他の考え事をしながら。 子どもにとってはどうなのでしょうね。 慣れれば簡単ですし、パソコン入力はオモチャとしても愉しいことこの上ないでしょうね。 それに対して、字を習い学ぶまでは容易くても、字形を相応に揃えみずから「これで良し」とするまでの過程はかなり煩わしく感じられるかもしれません。 でもその煩わしさを自身の力で乗り越えるというのもそれなりに大切だと思うのです。 近年パソコンの普及とともに入力が手書きの機会を激減させつつあるのは、ほぼ世界同時進行と推測します。 私は子ども共々10年以上同じ公立小学校にお世話になっています。 最近思うのは、年配の教諭の書く字がまず間違いなく丁寧で美しいのに対し、新卒や若い教諭(特に男性)の字が相対的に拙く雑に映ることです。 幼少の頃からキー操作に慣れ親しんだ世代として仕方のないことかもしれません。 達筆であれとはとても申しません、でもせめて初等教育にあっては、子どもが書くほうが丁寧で凛々しい字、だなんてあってほしくないとも思うのです。 おそらく先生方も時間をかければ相応に丁寧な字をお書きになるのでしょう。 単に忙しいから雑で汚い字になりがちだとすればなおのこと近い将来、成績表は手書きではなく効率的で勝手が良いパソコンによる入出力にすべきとの判断が下ることにもなりましょう。 ゆくゆくは板書や手書きの反復練習など非効率で必修とみなされなくなるかもしれませんね。 ただ願わくば、コミュニケーション手段の一つとして、特別な気持ちを込める際には手書きでのやりとりを選択できるような《字を書くことができる》授業を後世のわが国の初等教育に望むばかりです。 でもその願い空しく──Ciaopolpoさんがご回答No.6でご教示下さったように、ボランティアが放課後子どもたちに手書きを教える日など、この国の置かれた公教育に対する期待や懐事情を勘案すると、現実問題としてそう遠くはないだろう、あるいは家庭での教養や躾の一つになり下がるだろうなあと、しみじみ納得させられた次第です。 「字は相応に書き手のひととなりをあらわす」という過去の美意識とともに。 齟齬も含めて何かお気づきの点がありましたらご教示下さい。 よろしくお願いします。
補足
No.6お礼欄補足: ブリジストン美術館「アンフォルメルとは何か?—20世紀フランス絵画の挑戦」 貸出作品:スーラージュ「絵画」 www.pierre-soulages.com/ Paris, Musée National d'Art Moderne, centre Georges Pompidou: Peinture 195 x 130 cm, 10 août 1956 (cat. n° 240) (attribuée par l'Etat en 1956) (inv. : AM 3481 P)
- heart_mind
- ベストアンサー率13% (5/38)
お習字は小学校の頃やったことがあります程度です。 つまり子供が文字をお手本にならってかきなぞる行為が、しだいに「てすさび化」 していったと、やはり批判的立場にたちたい欲望にかられます。 しかし、タイポフォトグラフィの造形的表現のデザインから、ダダイズムに傾倒して 概念や知識を否定し、認識以前の本質を突き詰めようとしても記号、よりかかって しまう中原中也さんの苦悩は、なんかいっちゃってる感じです。 日本人のことだから、やっぱりフォントの開発もこだわってされていく気がします。 やっぱり、本質みたいなものは変わらないきがしますから。 それは、皮肉ではなくて、そういうよさは残る気がするということですが。
お礼
heart_mindさん、こんにちは。 文字をお手本にならってかきなぞる行為がしだいに「てすさび化」していったから今更…とのご趣旨と承りました。 「てすさび化」…昔の人にすればきっとその通りに映るのでしょうね。 私は入学と同時に書を習い、お手本通りとはいかないまでも書の面白さや美しさを愉しみ尊び続けてきました。 年賀状も手書きです。 コンクールにも割と積極的に参加しました。 でも、昨今では宛名が印刷されたものが多いですね。 多忙な時節柄、挨拶することを第一義とみなせばコミュニケーション手段は二の次、いえむしろ、効率良く遅れることなくあけおめメールで済ますケースも重宝がられるのも無理ないことかと思われます。 私の個人的なこだわりの問いとも言えます。 達筆でていねいな書か否かと挨拶や食事の行儀作法は等しく肝心と認識し続けてきましたし、こどもたちにも私と同じように習熟の機会を設けて相応に書の大切さや面白さを伝えてきただけのことであって、つまりは書道や手書きのやりとりが好きな素人談義に過ぎず、今どき非効率で懐古的な嗜好なことは否めません。 むしろこちらのサイトでは新たなネット上のコミュニケーションのありようであったり、利便性や可能性について問い質した方が有効かつ有益なのでしょう。 でも、多様性と存続という観点で、あらゆる情報が「キーボードでぽん」が主流となりつつあるこのご時世だからこそ(スカイプなど本当に便利だと思いますが)、心逸り焦る衝動を抑えて自身を内省し相手に思いを馳せるアナログな手書きの新たな魅力を見出せるのではないでしょうか。 数式などは正しくシンプルなものほど解りやすく理に適うと思うのですが、文字や言葉、コミュニケーションの場合は必ずしもこのかぎりではなく、正誤の是非を問い質しあうよりも、多様性を秘めて柔軟性に富んでいたほうが豊かで愉しいと考えるのです。 そのような私はごく少数派の遠吠えをしているに過ぎないのでしょうか。 ところで、新たなフォントの開発に対する私たち日本人の優位性を唱えていらっしゃいますね。 おっしゃるように、確かに現状において私たち日本人はアレンジそしてデザイン性の追求に長けているように映ります。 でも、これからはどうなのでしょう。 heart_mindさんは「本質的なことは変わらない気がする。皮肉ではなくて、そういうよさは残る気がする。」と楽観的におっしゃるので、出来ればその根拠を少しでもうかがってみたいと思っております。 よろしければ是非ご教示下さい。 もう暫くの間開けてお待ちしております。 ご回答をありがとうございました。
叔母はもう八十五歳を過ぎましたが、年賀状とお礼状は必ず手書きでしたためます。便箋は良い香りがします。祖父が健在な時はお正月に一家で百人首のなかから一首とって、何回か練習し、清書を壁にかけていたものでした。代々、書道の家だったんですね。 しかし、それも母の代までで、私達の年代はもうダメです。一体、戦後、日本にはなにが起こったんでしょうか。明治時代までの生きていたしきたりで、昭和の時代に死んでしまったものも多いと思います。 家元制は、批難される対象になることが多いですが、華道、茶道、日本舞踊が立派に生き残っていることを考えると、危機管理の先端をいっていたのかもしれません。 ご質問に回答する気になったのは、先日、大学生二年生の男の子と、ロシアで生まれたユダヤ人のおばあちゃんと、正しい英語について、お話をする機会があったからです。 男の子は、大学の先生が、言語は生きているものであり、現在、私達が便利に使っている形を正しいと見做す、と教えているのだ、と言うと、おばあちゃんが、”私はそうは思わない。現にアメリカ英語よりもイギリス英語のほうが本式で、きちんと保存されている。イギリス英語のように、アメリカ英語も保護されるべきだ”と主張します。(ユダヤ人ですから、その舌鋒は鋭いのです。)リベラルな私は当然大学の先生に組するものです。 その理屈を演繹すれば、書道は、昔の遺物として、鑑賞物、美術の範疇に属することになります。これからの時代に対応しつつ、便利に使われてゆく希望が全くないように思われます。実際、こうして書いていても、辞書機能がなければ、私の書くものなど誤字だらけでしょう。便利になったものです。 書道が生き残る道、として、光悦の昔に戻って、ふすまや屏風に絵を描き、そこに即興で和歌をしたためるようなライブパーフォーマンスができる天才がでてくることですが、その美を判って、それにお金を出そうという人が果たして残っていますか。 アメリカでは、中国のものとして、”カリオグラフィー”なるカテゴリーがありますが、一般の家庭で壁に飾ることは皆無です。浮世絵のような、美術としての輸出も不可能だと思います。 以上、思いついたままですが、回答にさせていただきます。
お礼
Ciaopolpoさん、こんにちは。 あなたの率直なご意見に感謝します。 Ciaopolpoさんは書道に慣れ親しんだお家柄だったのですね。 将来的な展望としての書道は”昔の遺物=国内美術品”と位置付けられ、いずれにせよ新たな利便性や活路を見い出せないであろうとのこと、現状では反論は容易ではないと思われます。 先日ポロックの回顧展(東京)に赴いたせいでしょうか、忌憚のないCiaopolpoさんのご指摘「書道が生き残る道として…天才がでてくることですが、その美を判って、それにお金を出そうという人が果たして残っていますか。」に、当時のアメリカの国威と諸々の思惑との合致──ロスチャイルド家とMOMA、アルフレッド・バーJr.やグリーンバーグ、ローゼンバーグといった豪華な存在を少々羨ましく思い、他方、極端なナショナリズムに陥ることなく、経済力のあったバブル当時の日本にもっと官民を挙げて為し得たことがあったのではなかろうか…などと昔を惜しんだりもして…。 展示会場ではある晩年の作品に奇妙な親しみを抱きました。 「一般の家庭で壁に飾ることは皆無」といった感じの、ポロックの作品ながらもアメリカではハッキリ言って人気も評価もそう高くなさそうな漢字の、書道を彷彿とさせる前衛作品です。 よろしければ"Staatsgalerie Stuttgart, Graphische Sammlung untitled"とgoogle上で画像検索なさってみてください。 「無題」1950年 エナメル塗料、白色染料、紙 【学芸員による作品解説】 興味深い手直しの跡 (2011年11月29日)読売ONLINE また、アメリカ英語とイギリス英語のエピソードも興味深かったです。 なかでも「便利に使っている形を正しい」という箇所が特に気になりました。 アルファベットの文字は活字印刷や電子機器に便利で最適なのでしょう。 けれども、漢字や仮名文字はどうでしょう、等しく便利で最適と言えるでしょうか。 その昔、毛筆が硬筆に取って代わることはさぞかし画期的な出来事だったに違いありません。 当時は大いに変容した認識の一つだったことでしょう。 それでも、近年の「キーボードでポン」革命とは一線を画す何かを感じます。 それは手書きで見出せた文字の個性の欠如、そして漢字や仮名文字そのものの力の欠如であって、必ずしも利便性を至上とはみなせない性質をいまだ漢字や仮名文字は帯びているのではないでしょうか。 パソコンや携帯上で表情豊かな顔文字を目にするたびに、殆ど均質均等な電子文字を用いた表現に「書き手」は何となく物足りなさを感じているのではないか、「書き手」としてのさらなる心情を付加したいと願う表れではないか──などと私は思うのです。 ご回答をありがとうございました。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
漢字は象形文字ですから、基本的には 絵画と同じです。 だから、キーボードでぽん、は問題だと 思っています。 絵画なんですから、手書きにせねば ならないでしょう。 今の状態が将来も続くようだと、日本語が 日本人が変容していくのではないか、と 心配しております。
お礼
hekiyuさん、はじめまして。 手書きから「キーボードでぽん」への移行に、日本語さらには日本人の変容を危惧するご意見と承りました。 私も同様の懸念を抱いています。 そのうち──効率的かつ能率的という理由で、初等教育のうちから、旧来の仮名文字や漢字をノートに手書きで習熟させる代わりに、一人一台用いてローマ字変換によるキーボードを叩く授業がごく当たり前な時代が到来するかもしれません。 そう仮定すればいったい何が危惧されるでしょうか。 毛筆と硬筆とでは勝手が異なるものの、手書きのかぎりは、躍動感に充ちた不可視の軌跡を直感し筆先で辿っていると言えましょう。 ところが「キーボードでポン」に依存するほどに、文字を為しはしないものの、連続性の要となり得る空画を感覚的に捉える経験を欠くことになります。 目に見えない空間や連続性は決してムダではないのですし、時空間の遊び心や想像力を育むどころか、逆に許容しない方向に向かうおそれがあるのではないでしょうか。 あるいは、日本語そして日本人が変容していく懸念は空間認識だけではないかもしれませんね。 手書きの機会が減ることにより、流れるような書く所作の感覚と直感的余情をも一層解し難くなるとするなどと考えるのは私の杞憂でしょうか。 水の上に数書くごとき我が命妹に逢はむとうけひつるかも (万葉集) あいにくマクルーハンは「グーテンベルグの銀河系」にて電子技術がもたらすであろう漢字や仮名文字に対する展望については一切触れてくれていません。 日本語の変容、そして文字文化に関する責任も未来も、私たち日本人に委ねられているのです。 このまま世界的な「キーボードでぽん」の潮流に乗っかってしまっても──問題ないと、いったい誰が言い切れるのでしょうね。 ご回答をありがとうございました。
お礼
g_roseさん、はじめまして。 ご賛同をいただきとても嬉しかったです。 g_roseさんのおっしゃる通りですね。 手書きの良さとは「心が伝わる、感情の表現がしやすいところ」だと思います。 「相手を想い、一文字一文字丁寧に書こうとするこころ」には実際手間暇がかかります。 でもその分だけ、書き手であり送り主である自分自身のカタルシスが増すように感じられるのは何故でしょうね。不思議です。 ワードで履歴書を作成する最近では、手書きによる”スロー・コミュニケーション”の機会がめっきり減ってしまったようで、少々味気なくも感じられます。でも、 >たぶん、便箋や封筒も気持ちにあわせて選んだでしょうし、 なんども、書き直した様子が伺えました。 ご教示下さったようなこどもとのやりとりにおいて手紙に気持ちを託すのは最適だと思いました。 だってかれらときたら、時折見せつける大人顔負けの表情と言い草とは裏腹に、 手書きの絵や文字などはたいそう無垢で愛しいことこの上ないのですから。 こんな愉しい”スロー・コミュニケーション”の機会を増やさない手はありませんよね。 余談で恐縮ですが、回答を下さったお礼に──小奇麗な文箱はお好きですか。 よろしかったらご覧になってみてください。 微かな楠の香りと滑らかな手触りが心地良くて私は保管用に愛用しています。 www.n-kusakizome.com/newpage52.index.html 私のほうこそお礼を申し上げます。 ご回答をありがとうございました。