人間は若い頃、自分に約束された成功を夢想します。
才能を発掘される僥倖、白馬の王子。 いずれも同じ。
「ゴドーを待ちながら」のように待ちわびているうちに、
心躍る物語に自分を投じて夢想するようになります。
テレビやネット、身の回りにも様々な蠱惑的な成功譚が
満ち溢れ、心奪われる。 時に夢想は妄想となり、現実の
我が身の無為を嘆いて隔靴掻痒の思いに悶々とします。
幸せになりたくて、成功したいと願いながら失敗を恐れ
知でも財でも容易く手に入れることばかり考え、あれも
これもと皮相的な知識ばかり詰め込んで訳知り顔で
この世は大したことが無い、つまらないとため息を付き
ながら、気が付けばやたらと貼り付け、詰め込んだ
知識や訳知りに覆い隠され、自分が誰だか判らなく
なっていきます。
失敗をせず、何でも知っている万能を気取りながら
さりとて泥臭く努力することを忌避して生きてきた人は
余りにも簡単なことが理解できなくなってしまうのです。
正しい、とは勿論、自分が決めることですが、突き詰めて
考えていけば、自分が正しいかどうかを判断し、結論を
導き出さねばならないような、責任を負うべき場面など
そうそう無いことに気付くものです。
小さな小さな世界の一瞬にも等しいかすかな分岐点で、
責任と言う重い刃を突きつけられて、覚悟して下す判断。
それを「正しい」と申します。
だから、中々正しい、というものは目前には現れません。
そして、幸せとは何か、と考えることは、ともすれば瞼の裏に
夕暮れを想いながら、暗闇の森に分け入っていく如きもの。
いつしか、ただ 日輪を見つめ、自然や、風景や、人間に
心揺さぶられ心洗われる気持ちのありようであったものを
弄繰り回して口に入れられないものにしてしまう愚行を、
私も幾度繰り返したことでしょう。
やがて年老い、夢想は遠くなり、正論も野望も色褪せて
寂しさと侘しさと、悦びと楽しさと。
童のように無邪気に微笑む老人は、恍惚の人となりにけり。
幸せとは? かの恍惚の人は、生臭い脂っ気を失い、カサカサと
路傍の名も無き花のように微笑みながら揺れています。
そんなものなのかも、知れません。
「正しい」ということも、「幸せ」ということも、廻りから取り込んだ
様々な自分ではないものを一切振り落とし、純然たる自分だけが
残って、その自覚を持つ者だけが感じられる、「自分」そのものの
「手触り」なのかも知れません。
観自在・・・
お礼
こんばんは。 素晴らしい詩をいただき有難うございます。 >童のように無邪気に微笑む老人は、恍惚の人となりにけり。 幸せとは? かの恍惚の人は、生臭い脂っ気を失い、カサカサと 路傍の名も無き花のように微笑みながら揺れています< 何か微笑ましい光景が浮かんできます。そう、微笑みながら揺れている とってもいい表現です。有難うございます。^^
補足
こんばんは。 皆さま、愚者の質問に答えていただいて有難うございました。 どの回答もベストアンサーでよろしかったのですが、一つしか選べないので。 芸術的で美しい詩を書いていただいたので嬉しかったです。只の私の好みです。 皆さま誠に有難うございました。^^