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仏教的には、医療とはどういう行いだと思いますか?
東北・北海道で医業に携わる者です。 経緯を詳しく話すと長くなってしまうのですが、”仏教的な原理に従って行う医術とは、どのようなものだと考えますか”、というのが質問になります。 あるいは、”医術というものの仏教的な倫理体系の中でどう位置づけますか?”ということについてのご意見でも頂ければ、大変助かります。 皆さまのお考えや、書籍のおすすめなど、お聞かせ頂ければ幸いです。
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- mmky
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”医術というものの仏教的な倫理体系の中でどう位置づけますか? 釈迦仏教の主題は「苦を取り除く。」ということですね。禅的に表現すれば「身心不二」ですから苦の原因は身と心の両方またはどちらかにあることになります。仏教で悟りを求めるという意味は、心を正す(心の苦を取り除く)という意味が強いのですが、それは心に視点を置いているからなのですね。でも身に視点を置くことも大切であることは「身心不二」からも明らかですね。医療は身に視点を置いて苦を取り除くという意味において仏教的に包含されるのです。 ただ、どちらかに視点が固定化することを「執着」といい、これには注意すべきということなのです。 釈迦仏教の中道であれ。という教えがこれに対する答えなのです。「身心不二」ではあるがどちらにも住せず中道を歩め。ということですね。「医者は身を直し、宗教家は心を治す」だけでは仏教の本来の精神から逸脱してしまうのですね。難しいが両方を治すように努力することが本当の仏教の精神です。 例えば,癌などは心の病気が身に現れたものですね。医者が身の癌を治しても潜在的自己破壊願望の強い人は何度も再発してしまいます。病気の内にある心にも目を向けると「身心不二」の意味が見えてきます。 参考程度に
- amaguappa
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大谷大学教授が書かれた『ブッダのターミナルケア』はご質問のテーマに合いそうですね。 わたしはまだ読んでいません。ご存じでしたらご感想を。 仏教も宗派によりけりでしょうが、 あらゆる命を惜しんでこつこつとたゆまず人生を勤めることと、 死に際までそのような意志を持つこと、あるいは必要であれば持てるように支えてもらうこと、 生きているなら、一滴ももらさず生き切るようにと、本人、家族が願える生であること、 もし死んだなら、生き切ったなあと遺族が思えるような死であること、 そういうシンプルな視点で、医療の位置付けと仏教とは繋がるのではありませんか? やはり、医学は患者を対象化して、現象の場として、精神も身体も扱うわけですから 現象の機序を追い、不足は補い余分は除く、というベクトルに働きますが、 それ以外に「何かの原理に従って行う医術」などあってよいはずがないです。 ただ、機械的な対象化を避け、人を見よという姿勢は仏教から学ぶことができるのかもしれず、 つねに意志を尊重して治療に当たるとはどういうことなのか、 そこに向き合う必要が生じるのかもしれません。 もちろん、わががまや要望を何でも聞くという話ではなくて、 生きる意志に、ブレがあったり歪みがあったりするのなら、 あたかも引導するように 命を抱え持つという姿勢のしつけを、医者と患者と家族とが一緒に見出していく、 そして、そのように意志するほうへ延長した先に死を迎えられるように 意志を挫く苦痛を緩和し、身体的束縛から少し解かれた患者自身の時間を創る、 そういった、ケアする側の主体性と、される側の主体性が失われない、 対象化にともなう膨大な作業のうちに主体性がぼやけてしまわない、 医療の姿が認められるのではないかと思います。 多くの場合、このようなテーマには終末期医療が直面しているのではないでしょうか。
- kurinal
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akataya様、こんばんは。 素晴らしい行い、と思います。 一人で居るのと、二人以上で居るのとでは、違うと思います。
- moto_koukousei
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回答欄の文字数制限に入らなかったための、2回目です。 3)「色々列挙された宗教の信者さんと、実際にこういった難しいお話をされたことはあるのでしょうか?」 高校時代や大学時代に、身近にいたいくつかの系統の宗派の活動的な信者さんとはいろんなことを話しました。勤め先で牧師になって米国に行ってしまった人がいましたが、その方とも話はしました。日本の昔からの仏教や神道の専門職の方と話したことはありますが、これは立場もあり、論じ合うような話ではありません。日本語以外はできません。また多くの宗教の信者さんとこの種のことを話したこともありません。どの宗教でも、治療も平癒祈願も一切しないということはないと思っています。民族文化があるように、宗教によってタブーはあるし、人生観のようなものもあるから、それには抵触しないように治療も平癒祈願があるのだと思います。 4)「あなたがガンになって残り数か月の命ということが分かって、私が事務的にあなたにそれを告げたとしましょう。あなたが言うように、医者が”技術者”であるなら診断精度は抜群なので問題なし、医者に出来ることはもう無いので極めて”効率的”に次の患者の部屋に行き、私はさっさと仕事を切り上げてゴルフの練習にでも行くとしましょう。あなたは、それで納得が行くでしょうか。」 「あなたの余命は残り数2月程度と思えます」と通告するのに、楽しいことを告げるように言うのは尋常ではありません。事務的に言う是非は、相手の状況もあるでしょう。どういう告げ方をするのかも、相手や状況等を総合した医術の範囲でしょう。 患者の不安や恐怖をいたずらに煽り助長させる方法をとるべきではないと、おそらく習っているのではないですか。http://ganjoho.jp/professional/communication/communication01.html 「患者にがん告知を行うためには、少なくとも告げ方と告げた後に患者を支えていく技術が必要である。このような技術を学ぶことなく患者にがんと伝えることは、糸結び、メスやハサミの使い方、術後管理を知らない医師が手術の執刀医になるのと同じである」とまでいわれているそうです。 この技術の習得のために、先輩医師が行う告知の現場に必ず何度かは立ち合う。新任の医師・レジデント・看護師を対象のがん告知に関する講習会に参加して学ぶ他に、ロールプレイで模擬インフォームド・コンセントを行ったりすることもあるのではないですか。 患者Aにガンの余命と今後の過ごし方を話して納得(インフォームド・コンセント)を得たあと、別室で患者Bに「1週間後には退院で、5年後に検査も必要だが、もう大丈夫だよ」と励まし、外来に来た患者Cに診察後明日のゴルフコースの話をしても、何ら問題ないです。 入試や卒業試験、資格試験の一応準備のようなことが終わったとして、その1時間前にサッカーをしようと誘う人も少ないでしょうし、誘いに乗る人も少ないでしょう。仕事で大失敗をしてその案件がダメになり大きな損害は発生することが必至であることがわかった直後に、失敗した人が「その件はわかった。明日のゴルフの計画を詰めよう」と楽しそうに言ってくることは少ないでしょう。『気分は簡単には切り替わらないもの』という一般的了解事項があります。ですから、そこの配慮は重要です。そのようなことを含め、医術というのでしょう。 結婚式の披露宴で、別の知人の離婚話を持ち出すのは常識的でないのは、結婚式や披露宴のプロでなくてもわかります。ステーキを焼いて出す料理人が、屠殺シーンや汚物処理の方法を客に話し出すのもおかしいです。担任の教師が、生徒Aから受験失敗の報告を聞いた場で、その生徒Aに「Bさんの合格祝いにこれから行くんだ」と自分の行動予定を告げるのが、教師として常識を欠いているのと同様です。他の職業でも、技術の中にはコミュニケーションなどのテクニックもあるのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 蛇足ですが、 多くのことは、その思考し思い込んでいることの他にも類似、あるいは対照できることがあります。そうしたことがないかを探して見るのも、自分で打開策を探す手がかりになると思います。 幾何で解けなければ、代数で解いてみる、それでダメなら類似の問題を作り実測してあたりをつける。現実の世界では、行き止まっているよりも、何かの手がかりを見つけることが大事です。 どうにも悩んだら、その道の先達はどう考えていたのだろう、どう処理(この処理・処置・切り抜けがポイント)していたのか、文献であたったり、現場を見たりが大事だと思います。 インドで、HIV感染者・AIDS患者用の治療薬(ジェネリックで特許を無視)が生産され、多くの国で使われています。欧米でもインドやイスラム圏でも、臓器移植は行われます。 http://www.aa.tufs.ac.jp/~masato/awr_61.html 社会の現実を知りたいのならば、宗教家や倫理道徳をもっぱらに論じる人の見解よりも、実際の病院、医療機関を少しでも見聞きする方が有効なことは多いです。 ユダヤ教の多いイスラエルも、医療は充実しています。医療機器でも先進のものを開発しています。 http://www.israel.emb-japan.go.jp/eojprofiles/JP2010/JPMedicalServices.htm 韓国の宗教事情は微妙ですが、医療は韓国経済を支える産業の一つとして高度医療から美容整形までまさに勢いづいています。 http://www.konest.com/data/korean_life_detail.html?no=2531 http://enterprisezine.jp/article/detail/3211 仏教は昔から医療の向上に熱心でした(多くの宗教でも同じです) 一部にオカルト的な宗教で、呪い祈祷、奇跡の水、石、手かざしなどを優先し、科学的医療を排斥することもあります。それは、ホメオパシーを信奉し、科学的医療を拒否するのと基本的に同じことです。 多くの神社で家内安全、商売繁盛、安産祈願、無病息災、合格祈願、あの人と結婚祈願などの祈願がありますが、それと関係なく、実際的な安全対策や勉強、経営努力などは行われます。 どこの宗派でも大きな宗教施設(教会、寺、神社)では、為政者の隆盛・繁栄・豊穣・戦勝・敵の折伏等を祈願することが大きな目的になっています。同時に国家経営にはその時代で考えられる方法でそれなりに努力します。 医療も同じです。祈願し、祈り、捧げていますが、同時にその時代でその人が有効そうだと思う治療対策をとります。 それぞれの社会で行われた治療の実態をみて、それなりの納得をするのが大切と思います。 宗教と、宗教以外、宗派の教義や一神教/多神教などで分けて考えるのではわからなくなります。
- moto_koukousei
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回答欄の文字数制限に入らないので、2回にわけます。 1)「”医学のカバーできる範囲が内分泌・神経生理・知的能力にも及べば、スピリチュアリズム・宗教の受容者が減ってしまう”とのことで、少しどうなのかな、と感じています。医学知見は”どうやって病気が起こるか”は説明できても、”それが”という問いには絶対に答えられないからです」 医学=学問、医療=治療すること、医術=治療の技術と考えるとします。すこし前にはある種の障害に関してセロトニン仮説が提示され、現在はその仮説と整合する医術が用いられています。ご存じかもしれませんが、重篤なエピソードを抑える効果は高いですが、骨折の治療のようには完治しません。再発を繰り返す人が現状大勢います。しかし、このセロトニン仮説が提示されることで、「私が悪いのではない。病気・不調の類であり、薬で治るものなんだ」と安心する人は多いのです。現在、精神障害について大脳生理の解明から新しい診断法や治療法が試みられつつあります。新しい診断法や治療法の情報がテレビや雑誌などで取り上げられるだけでも、希望を開き、心を落ち着けることができる人や家族もいるのです。そうした学問研究の展開、あるいは実際の臨床医療の進展があると、オカルトに期待する人、スピリチュアリズム、宗教に期待する人は減ります。これは、良い靴が市場に出回ると、下駄や雪駄、草履、わらじなどの購入者が減るのと同様です。 障害や疾患、その他の不具合や事故、災害等に遭遇したときに、“なぜ自分なのか”“どうして私が”と不幸を恨む気持ちが生じることもあります。そういう気持ちを強く感じる人も、あまりそのような思いにとらわれない人もいます。自分に異常に強くこだわって他の思考や感情を失い、ネガティブな発想だけになり、ひどい場合には恨んだりします。(恨む対象がなければ、運命や神、天を恨み、対象を見つけられれば他人や制度、社会を恨みます)そのような恨みに通じる執着・執著には、何かを改善するエネルギーはありません。むしろ状況をさらに悪化させ、本人の辛さを高めるだけです。多くの生物は災害、事故、怪我、障害等による不都合を後まで引きずってしまうことはまれです。人間についても基本的には同様です。起きたこと遭遇したことを後まで引きずるのはむしろ例外です。ただPTSDやパニック障害のようなこと、あるいは被害者意識、ひがみ、ねたみ、げす根性のように言われることが人間にはしばしば起きることは確かです。このとき、宗教がこれを寛和する役目を持つことがあります。信仰で我執から開放される人も少なくありません。また最近は認知行動療法の手法で状況を改善する人もいます。また、昔から高齢者、経験者、先達、先輩、師匠、上役が、不幸や不遇にうだうだ言う者をどやしつけて、しっかりするように役割責任の遂行や目前課題に誠心して取り組ませることで、この閉塞的心理状態を解決をさせてきています。 「医術」を投薬、注射、手術に限定せず、加温、湿布、マッサージ、リハビリ、言葉がけ、アサーティブな対応、インフォームド・コンセントでの展望的説明、院内の環境やスタッフの態度などまでに拡張して考えれば、それだけでも、障害者や患者、障害や死を迎えざるを得ない者も、ほっとして緊張や異常に強いこだわりから少し逃げることができます。そのことは、結果的に宗教や信仰を強く求める人の数を減らして行きます。(足の形と合わない靴であれば、下駄を好む人も多くなりますが、歩行も楽で快適で着脱も簡単な靴が増えれば、下駄の愛好者は減るのと同じです) “なぜ自分なのか”“どうして私が”という問いに、真っ向から回答できる必要は高くはありません。そのような問いは一見原因やメカニズムを質問しているように見えても、そのような回答を求めているのではないからです。質問に見えても「辛み・つらさ」の吐露なのですから、正面から回答することよりも、辛さの打開の方法や方向を示せれば良いことが多いです。医学の進歩はこのことに有効な手段を今後も提供すると思います。医師やコメディカルがこうした知識をもち、テクニックとして上手に使えれば、相当程度の改善ができるようになります。 2)「インドの物乞いが凛としていると仰るのなら、一度体験されてはいかがでしょうか。東京・新宿のホームレスでもなかなか堪えるものがあると思うのですが。」 インドの物乞いが凛としていると書いてはいません。「私が知っているインドでは、物乞いもうらぶれても、滅入っても、恥ずかしそうでもなく、金持ちは当然のこととして金を払っています」と書きました。貧困で衣食住に事欠く人はインドだけでなく世界中にたくさんいます。物乞いをする人の数はさほど多くはありません。物乞いではありませんが、失業給付や生活保障の給付を受けて、それで生活している人は、先進福祉国家では結構います。年金生活でも多くの場合、納付した保険料より遙かに多い年金を受給している人は多いはずです。こうした福祉国家がもつ給付制度のない社会ではどうしているかというと、インドはその好例で、富裕階層は貧困層に金銭等を渡し、貧困層はそれを要求するという習俗習慣を不文律として作ってきたのです。ですから、堂々と子供も大人もバクシー(シ)と言ってきます。渡している人も、それが習慣だからというようにチップやお賽銭のような感覚で渡しています。これはその社会が形成してきた一種の文化です。英国、米国、日本でも厚生給付を受けていても卑屈な人はそれほど多くはありません。日本では健康保険が一律になっています。健康保険料納付が少ないし生涯多くは納付しないであろう人でも、堂々と高額医療を受け、公平で丁重な対応を医療機関に求めます。社会保険料を多額に納付している人も尊大な態度をとっている人は多くはありません。間接的な形態で制度としてやるか、個人間の直接的なやりとりかの差は、歴史社会的なものです。 江戸時代の江戸を繁栄した豊かな都市とお考えでしょうか。実は、農村部より死亡率も高い不衛生な場所でした。農村部で収容すると農村の貧困下が進行してしまうので、余剰人口となるものが江戸に多数出てくるので、浮浪者、食い詰め者も多かったところです。http://www.systemicsarchive.com/ja/a/population.html 食料生産も工業生産もない地域で、庶民生活を支えるための土方、大工、屋根職人、左官、経師屋、タンス職、ボテフリ(行商)、屑屋、駕籠かき、人足、丁稚、下働き、繕い物などをやるしかない、江戸中期で人口の3分の2が男性、妻帯し子供を持てる人は少数です。その人口が膨大で、 食糧、衣料、木材、炭、塩など根本的な消費財の生産供給を江戸の外に依存しているのです。その江戸の外に供給できるものは江戸ででる糞尿肥料くらいです。大阪のように流通の要・商業都市で稼げていたのとは違います。江戸では旗本や各藩の江戸詰の人の落とす金を庶民・町民が分け合って暮らしている構造です。布団や綿入れ・夜具もなく、衣類をかぶって寝る人も、少なくはないです。その日暮らしで、飢饉の年には江戸がもっとも死亡率が高くなるような構造の江戸でも、庶民は明るく暮らしています。暗く落ち込んではいられないからです。日銭が入れば宵越しの金は持たないと飲食遊興に使うのが基本の生活が、当時としては時代環境にあった生き方です。webなどで江戸庶民はロハスであったが工夫した生活でうまく暮らしていたと書いている人が多いですが、生きるためにはそう生活せざるを得ないのです。インドのムンバイ郊外、中国の北京周辺には、スラムやスラムのようなところがありました。(上海のソバにもあるそうですが見ていません)外面から見る表情は暗くはありません。デリーで路上に寝ている人は大変そうに見えましたが、表情はわかりません。新聞には凍死記事などもありました。事情があってビルの床に段ボールを敷き、上着を掛けて寝たことがありますが、固いだけでなくて、冷える感じであまりやりたいことではなくて、次回からは会議用テーブルの上で寝るようにしたこともあります。日本のドヤといわれるところで宿泊しようとしたこともありますが、中心部は腰が引けて周辺部の安宿で寝たこともあります。自分の日常とは異なる環境で就寝するのは若くてもきついでしょうが、高齢になったり身体に不具合を抱えていればさらにきつくなります。 新宿のホームレスでも、郊外の河川敷の橋の下で生活している人も、変化の直後はかなりきついでしょうが、長期に続くとそれはそれなりに慣れる面もあります。その時、昔のことと常に比較すれば辛さは増します。それがわかるから、過去のことなどに執着するのでなくて、今を明るくするその暮らしに徹しようとすると思います。 ( 3) 4)は、別回答です )
- yuimakozi
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釈尊が生きていた、2500年前には現代のような医療行為は存在しなかったと考えられます。ですから、原始仏教の経典には、あなたの問いに対する答えは書かれていません。 ここからは、私の想像を入れた意見です。 釈尊は、「生、老、病、死」が、人間の苦しみの原因であるとし、その苦しみから人々を救うべく四諦八正道を説きました。 医療が、病苦から人々を救うというという行為であるとすれば、釈尊は肯定したと思います。 苦しみを和らげ、人間の持つ自然治癒能力の手助けをするという行為ならばという限定付ですが。 しかし、現代の医療は、もうそういう次元ではないように思います。治療薬開発のために人体実験をし他の動物たちを苦しめ殺していますよね。臓器移植のために、脳死が人の死であると都合よくきめつける。そして、遺伝子さえも操作して病気を克服しようとしています。 これは、死を恐れ生に執着している何物でもありません。人々は、どんなに金を使っても、他人の臓器を移植しても生きようと必死です。自分の命を伸ばすためなら他の人間や動物が犠牲になっても何とも思っていませんよね。 きっと、釈尊は今の医療や人々の行動をを嘆き否定すると思いますよ。 人間は、如何に医療が発達しようと必ず死ぬのです。人間は長く生きれば幸せなのでしょうか。 執着を捨てることが、涅槃への第1歩であると釈尊は説いています。
- Xiong Qing Ying(@xiongqin)
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私は専門家でもなく、仏の教えを受けたこともありませんが、仏教と医療は相反するものと考えております。 仏教は生を受けた者への生き方、また安らぎを得る為に導かれる教えと思っています。 医療はあくまでも人の命を助けることにあり、仏教とは懸け離れた行為であると思います。 動物でも、人間でも、その他全ての生物は、地球の環境の中で鍛えれれ成長していくものと思います。 医療によって無理に延命させるのではなく、仏教は、その定められた宿命に対して人間の条理を正しく抱いて逝くことを導くものと思います。 医療は個人、一個の生命体を助ける行為以外には無い、仏教はその教えを受ける者全てに影響を与えるものと云えるでしょう。 医療は個人の生きる欲望を叶えるものであり、個人の感謝及び少数の以外にはない。その本来の人間性への与える大きさは、非常に小さなものと云えると思います。 極端な話ですが、現在の医療は既に立ち上がることも不可能な人達に対しても延命を図ります。 それは神の意思ではない、現実にある人間の意志です。 仏教は、これらの人達に安らぎを得させ逝くことが本分としているものでしょう。 つまり、癌になって手術して延命を図るよりも、安らかに逝くことを目論むのが仏教といえるものではないでしょうか。 そう云った意味からいえば、仏教は医療より遥かに優れた人間性への要であると云えるかもしれません。 人間も動物も、その他全ての生命体は、母なる地球から生まれた同一の生命体であり、母親である地球が一個の生命体を助けるよりも、間引きにより、優れた生命体を生み出すほうが本来の姿であるといえるのではないでしょうか。 さて、人間のみが蔓延る、この母なる地球上で、鍛えられることの無い人間の生きる術をいつまでも続けるられることができるか、仏教の教えは全ての人間を見ている、特別に一個の生命を助けるものではない、つまり医療の中で仏教を語ることは、私はナンセンスであると思います。 インドは全てが神の意思によって導かれている、と解釈すべきと思います。 従って個人が死に逝くことはさして問題ではない。 これは、私の考え方です、他人に強要するものではありません。 参考です。
お礼
面白いご意見ありがとうございました。 医療はミクロ、仏教はマクロの幸福を扱うという理解で、大体よろしいのでしょうか。もしそうであれば、私見ではありますが、ミクロの幸福が取るに足りないというのは、複雑に絡み合っている現代社会の実情からは乖離しているように思います。 例えば、お金がなくて自分の親が満足に医療を受けられず死んだという子供は、社会に対してルサンチマンを抱くようになるでしょう(全てではありませんが)。社会とはネットワークなので、その子供が将来関わる全ての人に影響を与えていきます。これは例えば、学校の教師を例に取ると良いと思うのですが、教師は一人の人間が一度に数十人の人間に影響を与えています。ミクロへの影響が、全体に比して取るに足りないというのは科学的に見ても、すこし実情から乖離しているのではと私は思います。 それに、乱れた社会というのは、乱れた個人の心の集合体ですよね。なので普通は、個人というミクロを通じて以外に、マクロに変化を及ぼすことは出来ないように思うのですが。。。私が、ブッダやキリストのような、マクロに影響を及ぼす大きな仕事を背負わないで済む、微力な人間に生まれてきたことは幸いなことです。 ご意見どうもありがとうございました。参考にさせていただきます。
- moto_koukousei
- ベストアンサー率54% (331/606)
『仏教的な原理に従って行う医術とは、どのようなものだと考えますか』との質問と『ヒンズー的な原理に従って行う医術とは、、、』『イスラム的な原理に従って行う医術とは、、、』『ユダヤ的な原理に従って行う医術とは、、、』『カソリック的な原理に従って行う医術とは、、、』『プロテスタント、、』『天理教、、、』『PL教団、、、』『ジャイナ教、、、』『吉田神道、、、』『道教、、、』『儒教、、、』『無宗教の原理に従って行う医術とは、、、』とで、答えはさほど変わらないと思います。 医術はテクノロジーです。それ以上の意味や意義はありません。その時代、医術に関する施術者の知識技量、医術での治療などを希望する者の知識や考え、使用可能な設備、機器、医薬品等で、実行される医術が決まります。 <<身障者が物乞いをしたり、人が当たり前にその辺で死んで行くのをインド人は誰も気に留めません>> 私が知っているインドでは、物乞いもうらぶれても、滅入っても、恥ずかしそうでもなく、金持ちは当然のこととして金を払っています。実際を観たわけではありませんが、日本でも、ヨーロッパでも、飢饉や疫病蔓延の状況下では、その辺で倒れたり死んでいるのを、もののように扱っていたようです。多神教の暴力性とか、一神教の暴力性とか、そうした宗教とは関係ないと考えた方が適切だと思います。 「神道のような多神教は平和的で、キリスト教のような一神教は好戦的」「キリスト教のような一神教は平和的で、神道のような多神教は好戦的」とかの発想そのものが、事実をみないし、考えもしない浅薄な思い込みです。「宗教=平和的」と思うのも思い込みです。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1433740004 日本で仏教が本格的に取り入れられたのは、政権が政権の安定と継続、戦勝祈願、自分や自分の家族の繁栄と病気平癒を望み、それに有効であると考えられたからです。 自然信仰(自然崇拝のような祭祀)のような形で存在していたものに比べて、派手な儀式を伴う仏教がいかにも素晴らしく見えたのも、仏教が受け入れられた大きな原因です。そして薬草などの知識技術も僧に随伴していました。密教が隆盛を誇ることになったのも、その祭儀や呪が派手で先行する教学仏教よりも効きそうだったことです。仏教も、神道も、豊作、雨請い、安産、怨霊退散、病気平癒、戦勝祈願、怨敵呪詛、死亡後幸せ(?)に有効そうな高度な文明であると見えたからです。 心理的幸せ感や怨嗟、恐怖、不安、恩愛、憎悪、生死、苦痛、疾病、老化衰弱に対して、金銭や財産、権力の保有だけではなんともならないことが、宗教の普及を促進しています。 遺伝子操作や整形手術の進歩、神経生理、内分泌の仕組みの解明と医薬品や新しい技術開発で、医術がさらに対象操作できる範囲を、老化や美醜、精神や心理、知的能力にも効果を出せるとなれば、宗教もオカルトもスピリチュアルも受容者は減ってしまうでしょう。 「生物には、個体の寿命があり、世代交代と淘汰と変異で継続していくのだ」という思い込みを大切にしたい人は、押しつけ的に医術を施すことを好まないと思います。(私もそうです) ただ総論でそのように思っていても、怪我をすれば快癒を望み、疾病になれば治癒を望み、障害があれば除去を望み、老化や衰弱が起きないことを望むという面は止まらないでしょう。その時に医術が目前をちらちらすると、それに期待する気持ちが起きがちですから、自分をしっかり維持したいと思ったときに信仰に入ることはあるでしょう。ただ、その場合は、自然祭祀、祭儀等の外界への働き掛け効果を期待する信仰や宗教ではないでしょう。 もしも宗教と医療のことが気になるのならば、、 各教団などがやっている医療機関の医療の実態を調べたらどうでしょうか。 天理教 http://www.tenriyorozu.jp/ PL教団 http://www.perfect-liberty.or.jp/ 立正佼成会 http://www.kosei-hp.or.jp/ 孤独、貧困、疾病で障害があり高齢となったときどうする 浄土真宗本願寺派の方のサイト http://www.tyoueiji.com/2houwa20.html#020 http://www.tyoueiji.com/2houwa18.html#018 「病気やケガは神が与えた試練である」などと言う人に「いつから神様の気持ちが分かるようになったのか」と噛み付く人もいますが、自責して苦悩する、他責して恨みを増すことで何も良くならないとすれば、それをできるだけ平静に受け止めるようにすることで辛さや苦しさを解消する方が良いと考える人は多いでしょう。 宗教家でなくても、心理的なセラピーをしたいと思う人は、「責」「怒」「懊悩」が高まらないように、言葉での介入を試みるのではないでしょうか。 医療の現場に行けば、不治の病とか、人間関係や社会関係で苦悩し続けている人、孤独と死に強い不安を持っている人に多数会います。現在の医術でも、おそらくあなたが現場に行くようになって5年経過した時でも、医術でこれを解消するのは困難です。(麻薬のような方法は別として) 一神教でも、多神教でも、懺悔を聞きとり(心理療法の傾聴)これを神の名で安堵することは同じです。お祈りや称名だけでは本人が不安ならば、喜捨や教会への貢献を神や仏が喜んで受け取ったというのもありです。 これから臨床の場に出たいと思っているのなら、宗教や皮膚の色、障害の有無、疾病の種類、貧富や年齢、過去および現在の患者の地位や金銭支払い関係なく、患者の経済的負担等で可能な範囲で、自分の持っているテクノロジー(医術)を効率よく実行することに努めることに鋭意努力するのが良いと思います。 効率よくというのも大事です。患者は多いので、一人に延々と手を掛け、意を払っていては、他の患者は困ります。 その効率ということも、「医師=医術の技術者(テクニシャン)である」と考えて大事にしてください。 コメディカルの医療技術者をテクニシャンと呼びますが、医療は医師の施す医術が主体と考えれば、医師は医術の技術者です。神でも仏でも、聖人でもありません。
お礼
ご意見ありがとうございます、勉強になります。一度大学を出て社会で雑多なものを見てそろそろ中年を迎える私でも、まだまだ日々勉強ですね。 仰るように、医術はテクノロジーであり、それ自体に思想・哲学は関係ないように思います。しかし、その医療資源をどう分配するか、というのは社会の問題であり、そこは完全に哲学・経済学などの領分かと思います。 私は死んでもこうは生きたくないと思ったのですが、インドの物乞いが凛としていると仰るのなら、一度体験されてはいかがでしょうか。東京・新宿のホームレスでもなかなか堪えるものがあると思うのですが。。。一度話しかけてみて、アスファルトで寝ていると背骨が痛くなって辛いと言っていたのですが、もし分かったらそれも教えてください。 一神教・多神教のお話についても、色々と考えさせられました。ところで、moto_koukouseiさんは、色々列挙された宗教の信者さんと、実際にこういった難しいお話をされたことはあるのでしょうか?私はユダヤ教徒と話したことはないのですが、幸い英語には困っていないので、その他のメジャーどころとは割と激論をぶつけあった懐かしい記憶があります。相違・共通点などを身をもって学べた良い勉強になりました。 歴史にもお詳しいのですね。私は浅学でついていけるか自信がないのですが、”医学のカバーできる範囲が内分泌・神経生理・知的能力にも及べば、スピリチュアリズム・宗教の受容者が減ってしまう”とのことで、少しどうなのかな、と感じています。医学知見は”どうやって病気が起こるか”は説明できても、”それがなぜ自分なのか”という問いには絶対に答えられないからです。 新興宗教の類は、身内にそれで躓いた人間がいるので抵抗があります。誤解のないようにお断りしておきますが、私は全く信心深い人間ではありません。オイタも結構してきましたし、教会の中でシスターとオイタをした罰あたりなムスリムともノリが合った下劣な人間ですw。 最後に、一つ疑問に思ったのですが、例えばあなたがガンになって残り数か月の命ということが分かって、私が事務的にあなたにそれを告げたとしましょう。あなたが言うように、医者が”技術者”であるなら診断精度は抜群なので問題なし、医者に出来ることはもう無いので極めて”効率的”に次の患者の部屋に行き、私はさっさと仕事を切り上げてゴルフの練習にでも行くとしましょう。あなたは、それで納得が行くでしょうか。 また何か分かったら、ご教示のほどお願い致します。
この世は空である.空であるが故に移ろい往く現象として あらわれる. それは自然界の流れであり,滞ることなく移ろい往く. しかしそれが人間となれば,別である.そこが人間の愚かな ところであり,怠惰に停滞し,快楽に停滞し,あたかも死を忘 れたかのような振る舞いをするものです. たとえば,痒みを伴う病を患う者が,掻きたくてしょうがない からといって,掻くことに囚われながら一生を過ごしたとして それは幸せといえるのだろうか. そこにあるのは,掻くと気持ちいい,という快楽への停滞に ほかならない.空であるならば本来,痒いという滞りなどは ないはずである.そこには何らかの停滞させる原因がある. その不摂生を取り除いてこそ仏教としての医であってほしいと 願ってやまないのであります. つまりは医食同源であり,死を他人事のように見て見ぬふりを した不摂生の結果が病であると考えます. 主のみもとに寄りて より良き仕事を為されますよう お祈り 申し上げます.ボクにとってはイエスもブッダも同源なのです. 人間的な,あまりに人間的な意見で申し訳ないです(´ω`;)
お礼
ご意見ありがとうございます。 そうですね、不摂生を取り除くような、内面にまで作用できるのが理想だとは思うのです。しかし、医師にそこまでの力があるのか、という疑問があります。正直、お坊さんや牧師さんの方が内面への働きかけには長けているような気もします。というより最終的には、患者自身が最大の医療をなしうる人だと思っています(綺麗ごとではなく)。 つまり、幅広く見ると医術というのは、医療従事者によってのみ為されるわけではないんだな、と私は考えてます。例えば、救急で運ばれてきた自殺未遂の人を助けて退院してまもなく、本当に自殺して死体になってしまったという話しを知り合いの医師がしていました。結局、どうしても死にたいという人を助けることは医者には出来ないんですよね。生活習慣も、酷な言い方をすれば、自分で緩徐な自殺を選んでいるんだと思うんです。患者自身が最大の医療者である、と言ったのはそういう意味でした。誰も死にたい人を助けることは、本人以外には居ないですよね。 命とはしょせん実体がない夢うつつである、という意見をあちこちで聞くたびに(あなたではないですよ!)、以前に人からきいた意見を思い出します。いわく、「そうやって達観できるなら、日々世俗的なことや生老病死で悩むのも馬鹿らしいので、この場でノドをかっ切って成仏してはどうか」というものですww。乱暴な意見ですが、言い得て妙だと思いました。夢うつつであっても、生きていなければ痛い・苦しいと言うことすらできないのであれば、やはり生きることの方に価値がありますよね。そうでない人ならば、実際その場で命を絶つはずですよね。 そのへんのことも踏まえたうえで、医者に何ができるのか、どうやってそれに全力を尽くす強さを持ち奮い立たせられるのか、というところを突き詰めたいのです。たまたま自分のバックグラウンドが仏教・神道だから、こういう形の質問を投げさせていただいたのですが。 本やネットしか見ない頭でっかちの哲学論・宗教論より、あなたの人間的なご意見の方が参考になります。どうもありがとうございました。 m(_ _)m
- fujic-1990
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「全知・全能」の神を認める立場であれば、人間の病気もケガも、神の意志のもとに生じている・・・ 少なくても、神の黙許のもとで生じていることになるので、治療することは、神様から、自分のわざに対する反抗とも挑戦とも受け取られかねない行為です。 それに対して、病気やケガは「神が与えた試練である」などと言う人もいますが、いつから神様の気持ちが分かるようになったのかと聞くと答えてくれません。 が、仏教の仏は全知でも全能でもありません。 元は人であり、修行によって如来となりました。 もともとは人であるが故に救い残しはあるはずであり、救い漏れをちょっとでも減らすために何重にも救いの手段が考案されています。 如来が救い残したら、千手観音が無数の手で一気に、千手観音が救い残したら不空羂索観音が一本釣りで、という具合です。 それでも救い残した人を救済するために、56億7000万年(正しくは5億6700万年)後に、弥勒菩薩が降臨して最終的かつ決定的に救済することになっています。 したがって、その間に人間が自分の手で仲間を病気ケガから救うことは、仏の仕事を助ける崇高な行為として位置づけられるべきでしょう。 話は前後しますが、医療はそのように位置づけられる行為ですので、『仏教的な原理に従って行う医術とは、どのようなものだと考えますか』と問われれば、 医者は仏の代理もしくは補助者として、治療を望まない者に対しても施術する、一方的な行為(良い意味での押しつけ・おせっかい)だと考えます、 というのが回答になろうかと思います。 質問者さんは幸いにして、その資格と能力をお持ちになられたのですから、全力をつくしていただけたら、と思います。
お礼
丁寧なご返答ありがとうございました。実に筋が通っていて、非常に参考になりました。 私は事情があって、以前に4カ月ほどインドにいたことがあります。身障者が物乞いをしたり、人が当たり前にその辺で死んで行くのですが、インド人は誰も気に留めません。そのとき私が感じたのが、「これが多神教の暴力性だな」ということでした。つまり、とんでもない状況があっても、全て”あるがままとして受け入れてしまう”という受動的な暴力です。従って私は、”多神教が平和的”という良く言われる意見には疑問を持っています。 こうした「何でもアリ」に堕する危険性をはらんでいるため、仏教・神道の徒として医療を行うためには、一神教の文化圏以上にその行動指針について議論を尽くす必要があると思うのですが、そういう動きがあまりないのが現状でしょう。”何でもアリ”に堕落しないで、持てるテクノロジーを尽くして患者のQOL(生活の質)の向上に全力を尽くすような、医療者としての行動原理・倫理体系を仏教界が示せているか、甚だ疑問です。悔しいけれども、キリスト教圏に比して日本の仏教圏はあぐらをかいて来た、という印象を持ってしまいます。 実は私は今現在は、学生の身で医療行為は行っていません。膨大な知識量を詰め込まれる中で、時々”結局なんのためにこれらの技術があるんだろう?”と分からなくなることが有ります。まして働き始めたら忙しさのため、こういうことを考える精神的な余裕もなくなってしまうんでしょう。単なる技術屋には堕したくないものです。 貴重なご意見を、どうもありがとうございました。
補足
下のお礼について補足です! ヒンドゥ教・神道は多神教ですが、仏教は多神教とは言えませんね。哲学(あるいは無神教?)にあたるのでしょうか。しかしいずれにせよ、何でもアリに陥りやすい性質を持っていることには、変わりないかと思います。 ”あるがまま”を受け入れる状況では、fujic-1990さんが仰るように医療行為に限らず”人が介入すること自体が悪”という、恐ろしい解釈すらまかり通ってしまいかねませんね。実際、かつて医療職は不浄であるとされていたようですね(理由は”神の意思に介入するから”というよりも”血肉に触り汚らわしい”とかだったと聞きましたが)。もっとも、麻酔もなく治癒率も低いかつての阿鼻叫喚の治療行為が、不浄として捉えられるのは無理からぬことかなとは思うのですが。
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お礼
大変失礼ではありますが、あなたはもしかすると躁状態にあるように私は感じております。これだけの長文を一晩で書かれるのは、たとえば私のような人間にとっては大変な労力を要します。僭越ながら、真剣に受診されることをおすすめ致します。
補足
以下のようなことをこのような形で言うのは、大変心苦しいことをご理解ください。 以前に先輩の医師から聞いた、躁状態の人のお話の論理について行くのは非常に困難(話の量・スピードに聞く側がついていけない)だという話を思い出したからです。ご本人はそれについて、大変苦しまれているケースが多いようですが(特に躁とうつを繰り返す人)。 もし、全くの誤解であれば心よりお詫び申し上げます。あなたを貶めることが目的でないことをご理解ください。