#1です。
御礼どうも有り難うございます。
奈良時代の仏教というのは、たいへんに興味深いように思うのですが、突っ込んで知りたいと思うと、とたんに難しくなったり、不明であったりで、歯痒く感じることがありますね・・・
当時、東大寺・興福寺・西大寺・大安寺・元興寺あたりが奈良の大寺だったと言って良いと思います。
これらの大寺は100名からの僧侶は当然在籍していたと思いますが。不勉強なもので実際のところは自分はよく知らないですが、その規模からして数百名の僧侶がいてもおかしくないと思います。それぐらい大きな寺だったわけですし・・・
少々時代は下りますが、806年に南都六宗と天台宗に総数12名の年分度者が認められています。年に12名ずつですから、単純計算すれば、結構なペースで僧侶は増えていた、ということになるでしょう。奈良時代の正確な内容はよく知らないのですが、10名程度は割り当てはあったのではないでしょうか。
僧侶を目指す人たちが、どこでどういう研鑽をしていたかははっきりわかってはいないと思うのですが、お礼で触れられているように、お寺に出入りしながら度者に認められるよう受験勉強(?)や見習い修行をしていた人たちがいたと考えても、おかしくはないと思います。
私度僧は当時としては、社会不安の要因や税金逃れの手段と考えられており、当局もかなり警戒していたようです。それでも後の山岳仏教を形成する素地を作りましたし、表向きの関係でないにしろ、奈良の大寺や官僧との関わりもないわけではなかったと思います。ただ、実際のところはわからないです。
年分度者を目指す僧侶というのは何らかの後ろ盾や推薦者のある人で、当時の一般庶民ではないでしょうし、たいてい彼らは自身が喰いっぱぐれのない官僧になることを第一に考えるでしょうから、私度僧たちと関わりがあったとすれば、高位の僧侶たちが確信的に影響を及ぼしていたのか?とも思うのですが、これは個人的な想像です。
国家統制下ではあるものの、各宗兼学の仏教界や、私度僧という自由思想家(?)がいるというのは、今と様子がだいぶ違うな、と思います。
たびたびすみませんです。では。
お礼
ありがとうございます。 平均30歳で得度して60歳まで生きるとすれば、年分度者が活動するのは平均30年で、年間10人が得度するなら、一時の官僧の人数は300人くらいでしょうか。 官僧を主に受け入れる大寺が10寺くらいだとすれば、1寺あたりの人数は30名くらいで、官僧を役所でいうキャリア官僚や管理職みたいなものだと考えるなら、100~数百名規模の大寺に、30名程の官僧というのは結構妥当な人数かもしれませんね。 ただ、イメージとしてですが、現代より遥かに貧しくて、人口も少なかったこの時代に、何も生産しない(?)100名以上の集団が奈良だけで何箇所も存在を許されていたというのはどういうことだろう?という漠然とした疑問は感じます。 それと、回答でも触れて頂いてます部分で、社会不安や税金逃れを背景にした私度僧に対する、大寺の態度や交流の有無は興味深いですね。