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大阪の地盤沈下とその影響について
- 大阪はかつて日本の中心として栄え、大都会の名にふさわしい存在感を放っていましたが、最近の地盤沈下によりその姿は変わってしまいました。
- 大阪のピークは1970年の大阪万博であり、当時の人口は310万人を超えていましたが、現在は260万人となり、50万人以上も減少しています。
- 大阪の地盤沈下の原因は東京一極集中だけではなく、他の要素も影響しています。これにより大阪は地方都市としての地位を確立しました。
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大阪湾が小さいから。 日米経済摩擦の主要産業の推移 WIKIPEDIAより抜き出し 1972年に日米繊維協定 1977年に鉄鋼・カラーテレビ 対米輸出自主規制 1980年代に入ると今度は自動車・半導体・農産物 1985年日本の投資・金融・サービス市場の閉鎖性 それぞれの問題が生じた・決着したということは、その数年前から日本のそれぞれの産業がアメリカの産業を脅かしたということになります。 1960年代 繊維産業 1970年代 鉄鋼・電気製品 1980年代 自動車 1980年代 後半はソフト産業 大阪府の全国に対する人口比率が国勢調査において最も高かったのが 1975年の7.40%なのでその前後が、大阪府の存在感が一番大きかったと推定される。 大阪湾においては、かつて新日鉄堺の高炉があったが、現在は撤退 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%82%89 現在は大阪湾にはありません。 大阪湾 明石から多奈川まで 約100Km 東京湾 浦賀から富津岬まで 約150Km 伊勢湾+三河湾 木曽川河口から豊川まで 約150Km 実際に Google MAPなどで見れば、 高炉は海外からの石炭・鉄鉱石の輸入を前提に作られ、海岸線の埋め立てによって用地が作られます。 自動車産業は、自動車用の専用港湾から輸出されます、その前提としてストックヤードが埋め立てで作られます。 これが繊維産業と違うところ。 よって1970年代に花形輸出品になる、鉄鋼や自動車にとって、大阪湾は東京や名古屋に比較して用地としてのポテンシャルが 2/3 になります。(海岸線の比率) 自動車産業が、ついに大阪湾地区に進出しなかったのは、これもあるかと推測します。 1985年以降が ソフト産業になりますが、これの移動手段は人間となります。 成田 1978年 1962年新東京国際空港調査開始 関空 1994年 1963年閣議決定 実はどちらも、1960年代初頭に、羽田と伊丹の限界と将来予測から、新空港の開設が予定されていたが、開校まで16年の差があった。 ソフト産業(人間の往来による産業)が日本の基幹産業になる前に開港できた成田と、開港できなかった関空。この差が効いてきている。 以上 産業立地論からの考察
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- sudacyu
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<参考> 江戸時代において、「元禄文化」・「化政文化」と呼ばれる文化の充実期がありました。 元禄期(1688年 ―1707年)を中心に栄えた元禄文化は、井原西鶴などのように、関西人中心でしたが、文化・文政期(1804年~1829年)を中心に栄えた「化政文化」は、十返舎一九、浮世絵など、江戸を中心とした地域が、日本の歴史で初めて文化の中心地となりました。 江戸時代、物資売買の中心地は大阪でしたが、消費の中心が江戸になりました。 実際に、物資消費に使われる金額が大きい地域が栄えるのは、必然でしょうね。
お礼
回答ありがとうございます。 政治的・経済的のみならず、文化的な停滞も大阪に於いては顕著ですよね。
- TANUHACHI
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#6です。一つ言い忘れていたことがありました。 「なぜか大阪は“東京と同じモノを欲しがる”」事です。近代の始まりに焦点をあてるなら、大阪には誇ることの出来るモノが多数ある事を忘れているかのようです。緒方洪庵に始まる開明思想の発露は大坂です。その思想を見事に継いでいるのが大阪大学です。 近代ヨーロッパの医学を学ぶ目的で開かれたのが適塾であり、洪庵が学んだのは長崎でした。長崎同様に近代日本の黎明期を担ったのであれば、そうした点こそ誇りとすべきであり、「マス文化」の集積である東京よりも「より本質的なカルチュアの発信地」には僕は敬意を払います。 でも「大阪の笑い」には皮膚感覚としての苛立ちと違和感しか感じられません。新しいモノを目指しながら古いモノに固執してしまっているかのような吉本のお笑いや馴れ馴れしさ、ヘンテコな言葉遣い(ゴッツ、メチャなど)はどうにも肌に合いません。
お礼
再度の回答ありがとうございます。 >「マス文化」の集積である東京よりも「より本質的なカルチュアの発信地」には僕は敬意を払います。 まさしくそう思います、東京が真似出来ない大阪ならではの良さが有るはずなのですが・・。 結局東京が辿ったベクトルと同じ方向を志向し、その辺の地方都市レベルに埋没してしまったという事なのでしょう。 >でも「大阪の笑い」には皮膚感覚としての苛立ちと違和感しか感じられません >吉本のお笑いや馴れ馴れしさ、ヘンテコな言葉遣い(ゴッツ、メチャなど)はどうにも肌に合いません。 この点は全く同感です、常軌を逸したけばけばしさや、奇を衒ったとしか思えない言動は、日本国民が有する大阪のイメージに対するサービス精神の無駄な発露としか思えない。 客観的に見る現在の大阪は、毒々しいファッションやお笑いといった方面に於いてのみ、他地方との差別化を計る極言すれば完全なるピエロ、本来大阪が持つ感覚・エネルギーはもっと違った方向にあるべきです。
- tanuki4u
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以上産業立地論の観点から申せば、斜陽産業のみが大阪に残らざるを得なかった、しかも東京との比較に於いて、ソフト産業の命運に大きく寄与する国際空港開設のタイムラグが致命的、という理解で宜しいのでしょうか?、何れにしても説得力がある論旨であると思われます。 ↓ 繊維産業 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%8A%E7%B6%AD 主な繊維メーカーの半数が大阪本社です。 江戸時代後期から綿花から繊維産業が成長していました http://www.andrew.ac.jp/soken/pdf_3-1/sokenk145-2.pdf 明治以降は、中国から原綿輸入で成長します 十大商社 ニチメン < 日本実綿 <綿業 日商岩井 < 神戸 兼松 < 豪州の羊毛輸入から発展 神戸 伊藤忠 < 麻布(あさぬの)の「持下り」行商 大阪で創業 丸紅 < 麻布(あさぬの)の「持下り」行商(伊藤忠と発祥は一緒 トーメン < 東洋綿業 など 大阪×繊維は 大きなシェアを占めた 斜陽産業が残ったと言うよりは、発展の歴史が古く、敷地も狭いので、新規産業が立ち上がりにくいという側面があると思います。 軽量で、直接港湾が必要でないの電機系でも、シャープの液晶が「亀山ブランド」というように、大阪ではなく、三重県というのが印象的です。 近年では臨空産業という概念がありますが、関空には臨空産業を起こすトチがない http://gazone.morrie.biz/keizai/kkt/kanda_rinkuu_sangyoo_danti.html
お礼
再度の回答、ありがとうございます。 政治的機能の有無は別として、北京に対する上海・広州・香港になれるポテンシャルは、大阪には無いのでしょうか?
- kitasensei
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政治と経済の二つで見ると、明治維新で首都が東京になった時から大阪の政治的な重さは決定的に失われていて、昨今言われている大阪の地盤沈下は経済的なことですね。 これは首都圏、就中、東京に経済が集中するようになった傾向の反射的効果として生じたものと言っていいでしょう。では、どうして東京に集中するようになったのか。首都東京が政治的な中心地としてだけでなく、政治と経済が密接に関連するようになったため東京が経済的にも圧倒的に日本の中心になり、さらにそうした首都東京に本社機能を置くことで企業活動を全国的に且つスピ-ディ-に展開する上でさまざまなメリットがあると考えられため関西圏の大企業が軒並み東京に本社機能を移しましたね。それが大阪の地盤沈下の始まりです。 大阪が駄目になったというよりは、東京に集中した為の反射的効果として大阪が地盤沈下したわけです。もし、首都機能が分散されて大阪に首都機能の一部でも移れば、それだけ大阪は浮上する機会を持てるでしょう。
お礼
>政治と経済の二つで見ると、明治維新で首都が東京になった時から大阪の政治的な重さは決定的に失われていて、昨今言われている大阪の地盤沈下は経済的なことですね。 明治維新の新首都は、半ば大阪に決まりかけていたという歴史的経緯が有ります。 結局大久保利通の鶴の一声で、江戸改め東京に遷都が為された訳ですが、それでも尚昭和40年代頃までは、西日本経済の中心地として、そして東京でオリンピックが開催されれば、一方の大阪では万国博覧会と、一定の政治的配慮も為されており、大阪の凋落はさほど顕著でもなかったかと。 大阪が地盤沈下に到る殆んどの原因が、東京一極集中に由来する事は、恐らく仰る通りなのですが、北京に対する上海・広州になれないものか、ここまで凋落した原因は既述以外に求められないのか、不思議に感じた次第です。 回答を賜りまして、誠にありがとうございました。
- graphaffine
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>何故大阪は、ぱっとしない地方都市に成り下がってしまったのか? 大阪とは、大阪市の意味ですよね。人により認識が異なりそうな話題なので具体的にどのような観点からそのように思われたのか、もう少し詳しく書かれたほうが良かったと思われます。 東京は世界一の大都会ですからそれとの比較はあまり意味がないと考えますので、日本で2番目の都市と多分思われている横浜市との比較を考えます。 確かに横浜は人口は大阪市より多いですが、面積が広いので密度は大阪市のほうが大きく、また横浜市はあくまで東京のベッドタウンですから、地域の中枢的な機能は大阪のほうが大きく、都市GDPも大阪市のほうが確か大きかったはずです。 従って、大阪は依然として日本の実質的には第二の都市ですから、ぱっとしない地方都市というのは、認識が違うだろうと思ってしまいます。
お礼
回答ありがとうございます。 >大阪とは、大阪市の意味ですよね。人により認識が異なりそうな話題なので具体的にどのような観点からそのように思われたのか、もう少し詳しく書かれたほうが良かったと思われます。 前後の文脈から御理解頂けると思ったのですが、大阪凋落の具体的事例を、人口の減少のみに留めたのが拙かったでしょうか? >大阪は依然として日本の実質的には第二の都市ですから、ぱっとしない地方都市というのは、認識が違うだろうと思ってしまいます。 確かにある意味依然第2の都市かも知れません、但し一定以上の年齢の方でしたら御分かり頂けると思いますが、かつての大阪と現在の大阪は、その存在感・輝きという点に於いて明らかに相違します。 漠然とした表現で、申し訳ありませんが・・。
- TANUHACHI
- ベストアンサー率31% (791/2549)
中々興味深い御題ですね。これはあくまでも私個人の印象ですので、お気に召さなければ読み飛ばすなり削除を求めて下さい。 東京の人間から見た「大阪」の印象として (1)「東京への対抗意識」が大きすぎる………これは当事者としては「そんなこと気にしていない」とお思いかと存じますが、大阪の方々の話の端々からは実際に伺うことのできる現実です。「なぜそこまで?」と不思議に感じてしまいます。 (2)元々の「大坂」或いは「大阪」は難波津といわれ、大和川が瀬戸内海に開く河口ぐちでした。古代の都が飛鳥や斑鳩にあり、大阪湾はそのための入り口だったため「都市機能」自体は大阪にはなかった。これは江戸と横浜の関係にも該当します。 (3)歴史上の「政治都市」「文化都市」としての機能を考えるなら、やはり京都の後塵を拝せざるを得ない。都市としての意味合いを考えるなら、そこには統治機構を管轄する法治組織が求められる。「なぜそこに人が集まるのか」との問いに対する答の一つが「そこが“全国の中心(地理的という意味ではありません)”だから」ということになります。“中心”の意味は“シンボライズされた”との意識を指します。それは京都・鎌倉・江戸そして博多が条件を備えていたとのことになります。 「大坂」が歴史上で脚光を浴びたのは歴史のタイムスパンからみれば残念ながら極々僅かな時間としかいいようがありません。堺屋某がかつて盛んに「商業都市としての大坂」をマイナーな地域経済論から宣伝していましたが、都市は経済活動の場だけではないことも確かです。お客がいなければ商売など成り立ちませんから。 最後に「大阪都構想」をぶち上げている件の人物ですが、僕の目から見れば「歌舞伎に登場する田舎役者の扮装」と同じです。派手派手しい見かけや言葉でがなり立てるだけで中身が空疎としか言いようがありません。それに煽り立てられる人の意識も疑いたくなるような言葉が殆どで、政治感覚や意識には疑問符が付きます。
お礼
>これはあくまでも私個人の印象ですので、お気に召さなければ読み飛ばすなり削除を求めて下さい。 とんでもありません、詳細且つ簡潔、真摯な御回答を頂きまして、誠にありがとうございます。 実は私はさる地方大名の家臣の末裔でして、江戸中期に御先祖様が江戸勤番を命じられて以降、300年近くに渡り現在の東京に寄食しております。 依って故郷といえば東京以外に考えられない訳ですが、それにしてもかつての大阪を知る者として、その地盤沈下と、そこに由来するであろう西日本経済の沈滞に思いを馳せ、どうにかならないかと考えた次第です。 >(1)「東京への対抗意識」が大きすぎる かつての大阪はそうであった、つまり東京には比肩出来ないまでも、東京に唯一肉薄出来得る日本第二の大都会としての自負心・対抗意識が強烈であったかと思います。 但し私が見る最近の大阪人は、「栄光の大阪」への回帰を含め全てを諦めている、依って情熱のベクトルが変質し、自虐と奇を衒った言動のみで大阪の存在意義を日本国民にアピールしているとしか思えません、それはもう悲しいほどに。 >(2)「都市機能」自体は大阪にはなかった この点に就いては異論が有ります、飛鳥・斑鳩そして京都に致しましても大小の差こそあれ盆地に位置する狭隘な地域であり、フロンティアが東に拡大していった日本国の首都機能を備えるに当然ながら無理がありました。 そもそも大都市の成立過程に於いては、自然発生的なものと政治・意図的なものに大別すると考えますが、大阪はまさに前者の代表的なもの、琵琶湖とそこに繋がる広大なヒンターランド、淀川・各種街道が交差する交通の便1つを考えましても、まさに大都会に相応しい日本最高の地理的環境にあると私は考えますが。 >(3) シンボライズとはある意味歴史が築くものであり、湾に面した一寒村でしかなかった江戸も、徳川政権が事実上の首都機能を移行せねば、果たして世界に冠たる大都市「東京」の今日があったものかどうか、まあ江戸に居城を築いた地理的必然性は当然あったのでしょうが。 >「大坂」が歴史上で脚光を浴びたのは歴史のタイムスパンからみれば残念ながら極々僅かな時間としかいいようがありません。 この点が不思議なんですよね、これ程の地理的環境下にありながら、織田信長が着目する以前の大阪は片々たる寒村に過ぎない訳で、大都会としての勃興は16世紀後半以降迄待たねばならない。 但し豊臣政権下に於いて事実上の首都機能を有して以降、江戸時代に於きましても、大消費都市である江戸を凌ぐ経済の中心地として推移しており、昭和40年代まではそれなりの存在感があったものと個人的には考えますが。 >最後に「大阪都構想」をぶち上げている件の人物ですが 昨今の大阪を語る時、どうしても「件の人物」に行き着いてしまうのですが、No.5の回答者様への御礼にも記した通り、私自身は橋下氏の存在を肯定的に捉えております。 我々東京の人間は、派手なパフォーマンスとあくの強さを、田舎者のスタイルと否定的に評価しがちですが、日本のあらゆる歴史は地方の人が作ってきたと言っても過言ではないかと。 少なくとも橋下氏には強烈な発信力がある、依って大阪の現状を日本レベルにまで引き上げ着目させる事が出来た、しかも閉塞感に苛まれた現状は、一大阪に留まらず日本全体に拡大解釈しても宜しいかと。 ここ20年以上に渡る経済的停滞と社会的沈滞ムードに関し、常識的な政治手法を試みた歴代政権は打破出来なかった、とすればともかく大阪を実験の舞台として革命児に託してみるのも悪くない、果たして彼にその能力があるかどうかは未知数ですが。 以上、回答者様に対して大阪擁護論を展開した様で本意ではないのですが、色々と考えさせられる御意見を賜りました事、感謝致します。
- nishikasai
- ベストアンサー率24% (1545/6342)
面白いテーマですね。 私は大阪育ちですので一応大阪人です。 大阪の持つイメージが大きく影響していると思います。 「大阪」と聞いて東京人が連想するものは、 1.お笑い。 2.派手で厚かましいおばちゃんたち。 3.がめつくてよく値切る。 4.たこ焼きが自慢の食べ物で、なんとなくB級のイメージがある。 5.東京でやくざの真似をすると大阪弁になる。大阪→やくざのイメージ。 6.通天閣ってなんかダサイ。現に通天閣の下はごちゃごちゃした遊興街になっている。 上記のうち、とくにお笑いで有名になったのは自分からメジャーになるのを捨てたようなもの。自分のほうから志願してB級になったみたいな感じ。ボス争いに参加できたのものを自分から降りてしまったような印象があります。 でも大阪は捨てたものではありません。その根拠。 1.大阪にとんでもない人物が出現したこと。大阪を救ってくれるかもしれません。 2.今日は富士山のおひざ元で地震がありました。富士山が噴火したらたいへんです。大阪がぐーんとクローズアップされてきました。大阪を第二の首都として災害のときのために首都機能をもつ都市に変貌させねばなりません。
お礼
回答ありがとうございます。 >「大阪」と聞いて東京人が連想するものは~ まさにそのイメージ、大阪の人はかつての「栄光の大阪」への回帰を諦め、自らを貶めて笑いを取る方向へデフォルメしている様に思えてなりません、まあ余計な御世話なんでしょうが。 日本経済の一大中心地であると共に、豊臣政権下事実上の首都機能を有した大阪、西日本経済再浮揚の為にも是非頑張って欲しい、切にそう願います。 >1.大阪にとんでもない人物が出現したこと。大阪を救ってくれるかもしれません。 橋下新大阪市長の事であると理解致します、巷間とやかく言われがちですが、私としても彼の情熱と方向性に就いては全面支持です。 ここまで落ちた大阪を本来有るべき姿に戻すには、強権の発動しかない、ヒトラー・フセイン・金正日の類でも宜しい、最早方法論ですら問題ではない、大阪再生への情熱と躊躇しない突破力こそが大切。 >2.今日は富士山のおひざ元で地震がありました。富士山が噴火したらたいへんです。大阪がぐーんとクローズアップされてきました。大阪を第二の首都として災害のときのために首都機能をもつ都市に変貌させねばなりません。 明治維新の首都は大阪でほぼ決まりかけておりました、結局大久保利通の鶴の一声で江戸改め東京に遷都された訳ですが、地震が多発する御国柄という事を考慮すれば、代替首都機能を持つ都市の選定も、止む無しでしょうかね。
- kuroneko3
- ベストアンサー率42% (250/589)
橋下市長の見解によれば,東京は都(広域行政区)の下に23の特別区(基礎行政区)が配置され,ちょうどよい大きさの地方自治体がそれぞれ独自性を発揮しながら概ね効率よく機能していたのに対し,大阪の基礎行政区である大阪市は人口約260万人とあまりにも大きいためきめ細かな行政ができず,広域行政府である大阪府とも権限等をめぐって対立し,行政の無駄があまりにも大きかった(なお,大阪市の下にある区は地方自治体ではなく,独自の権限はほとんどない)ということのようです。 確かに,戦前は東京も「東京府」と「東京市」が並立しており,弊害があまりにもひどいことから戦時中の昭和18年には内務省の主導で強引に東京都制を施行したという経緯があり,戦前は大阪の方が人口が多い時期もあったということですから,都制に移行した東京と府市制のままだった大阪との差がじわじわと現れ,東京一極集中現象が発生したという仮説も成り立つように思われます。 橋下市長のこのような主張は,確かに一理あるとは思いますが,このような地方自治体の構造は横浜市もほぼ同じであり,それなのに大阪市は衰退して横浜市はなおも成長を続けているのかという問題については,別途の考察が必要です。 この問題については私も結論を出せていませんが,実際横浜市に住んでいる人間の感想としては,大阪と異なり神奈川県と横浜市との間には深刻な権限争いがなく,例えば水道行政も神奈川県は横浜市と川崎市を除く県の西部を担当するといった具合に分担できていましたから,基本は行政を運営する人間の問題なのかなあという気もしています。
お礼
極めて興味深い御説を展開頂きまして、感謝致します。 >都制に移行した東京と府市制のままだった大阪との差がじわじわと現れ,東京一極集中現象が発生したという仮説も成り立つように思われます。 >このような地方自治体の構造は横浜市もほぼ同じであり,それなのに大阪市は衰退して横浜市はなおも成長を続けているのかという問題については,別途の考察が必要です。 都制に移行した東京都の比較に於いて、橋下氏の大阪都構想もあながち的外れな事ではない、但しほぼ同様の市政区を有する横浜市の現状とのあり方とは整合性が取れない、依って違った側面・原因を有する可能性が有るとの事ですね。 >基本は行政を運営する人間の問題なのかなあという気もしています。 以前少し調べてみたのですが、大阪市の人口は約260万人強・GDP22兆円・累積赤字は約2600億円強・市職員数38,000人弱、一方の横浜市は人口370万人弱・GDP12兆7000億円・ほぼ健全財政堅持・市職員数約25,000人。 大阪と横浜との比較は誠に興味深いのですが、横浜市よりも人口が100万人以上少ない大阪市の市職員数は、何故か13,000人も多い1.5倍、人口1人当たりの職員数に到っては驚愕の2倍強、これでは市財政が破綻しない方がおかしいですよね。 しかも全国でも珍しく生活保護受給者は今尚増加の一途を辿り、数年の内には財政の破綻状態を示す「財政再生団体」に転落する事は殆んど確実と言われております。 つまり世論と市財政のバランス・シートを無視した放漫経営と、市庁舎B1に陣取る市労組が市政を壟断してきたつけが、現在に到り回ってきたという事でしょうか。
- kusirosi
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・栄光の大阪、その地盤沈下の原因に就いて 日本において地盤沈下が最初に取り上げられたのは、関東大震災後に行われた水準測量によってである。荒川放水路の周辺で広範囲にわたって沈下が確認された。当初は地殻変動によるものとされたが、次第に被害範囲が広がり、大阪市でも同じ現象が取り上げられたため、研究者たちが本格的な調査に乗り出した。 地盤が沈む原因には、自然由来のものや人工的なものがあるが、一般的には一度沈下が起きると二度と元の高さまで戻ることはない不可逆性を持つ。建築物や農業に被害を受ける。地盤沈下は、海抜ゼロメートル地帯を発生させる広域の沈下現象と、土木工事等による局所的な沈下現象とがあり、一般的には広域の沈下現象を、公害の1つとしている。 阪神地域 では第2室戸台風(1961年)時の被害者、死者194名、行方不明者8名、負傷者4,972名、という甚大な被害を出した。この被害は地盤沈下による堤防能力の低下が背景にあった。これを引き金として、工業用水法の強化と、建築物用地下水の採取の規制に関する法律(通称、ビル用水法)が制定された 大阪市のホームページには 下記のようにある ※地盤沈下は、地下水の過剰な汲み上げにより地下水位が低下し地層が収縮することや、軟弱層の自然沈下等により地表面が徐々に広範囲にわたって沈下していく現象です。 地盤はいったん沈下すると、ほとんど回復しないことから、未然防止の取組みが重要です。 .地下水位の観測 地下水の過剰なくみ上げにより地盤沈下が生じる場合には、地下水の圧力が低下するため地下水位も低下します。そのため、大阪市では市内11地点において15本の観測井により、地下水位の変動状況を観測しています。 平成20年の観測結果によると、前年と比較して地下水位が上昇した観測井は13本(0.05mから0.37m)、地下水位が下降した観測井は2本(0.01mから0.03m)でした。 <地下水位観測井の概要及び地下水位観測結果>(平成11年から平成20年) 注)1.観測開始時期欄の【 】は、観測所設置当初の開始時期であり、同欄下段の時期は、移設後の観測開始時期を示す。 (例:馬場町観測所は、昭和44年4月から観測を開始し、平成9年8月に移設を行い、馬場町(II)観測所へ観測を引き継いだ。) 2.観測開始当初欄中の「-」は、観測値不明であることを示す。 3.平成12年以降の☆印は、水準測量が隔年実施となったため、測定値がないことを示す。 4.地下水位は、年平均水位で示す。 5.平成16年の此花観測所における水位の大幅な変化は、阪神高速淀川左岸線の工事により、大量の地下水が湧水したためと考えられる。 .大阪市内の累積沈下等量線推定図 .地盤沈下対策 大阪市では昭和9年以来、地盤沈下の原因究明と観測体制の整備に努め、昭和26年には工業用水道の建設に着手しました。さらに昭和36年11月には、大阪府・大阪商工会議所とともに大阪地盤沈下総合対策協議会を結成し、国に立法措置を促す一方、防止対策の推進に努めてきました。 地下水については、「工業用水法」、「建築物用地下水の採取の規制に関する法律」及び「大阪府生活環境の保全等に関する条例」に基づき、工業用、建築物用等の地下水の採取を規制しています。 建築物用地下水の採取の規制に関する法律 工業用水法施行後も、建築物用水として地下水を多量に採取していた都市部では地盤沈下が進行したため、新たに建築物用地下水の採取を規制することとなり、昭和34年4月、全国にさきがけ大阪市地盤沈下防止条例を制定し、5区を指定して井戸新設の制限、水源転換の指導を行ってきました。 一方、大阪地盤沈下総合対策協議会の働きかけにより、昭和37年5月「建築物用地下水の採取の規制に関する法律」が公布され、大阪市全域が指定地域となり規制されることとなりました。規制の要点は、動力を用いて建築物用地下水を採取する場合、揚水機の吐出口の断面積(吐出口が2つ以上あるときは、その断面積の合計)が6cm2を超えるものが規制の対象となり、大阪市長の許可が必要です。 大阪市内の累積沈下量及び地下水位の経年変化 地盤沈下水準測量は平成11年度から隔年実施となり、直近では平成19年度に測量延長250Km、水準点213点について実施しました。 平成19年度に実施した地盤沈下水準測量の観測結果は資料1のとおりです。平成18年から19年における最大沈下量は1.34cmであり、1cm以上沈下した地点が2箇所でした。これは、前回調査(最大沈下量が2.76cm、2cm以上沈下した地点が7箇所)と比べ、沈下の程度が小さいことを示しています。 なお、大阪市各区主要地点の2年毎の変動量は資料2に示すとおりです。 また、大阪市内における地盤沈下と地下水位の経年変化は資料3に示すとおりです。 資料1 (地盤沈下水準測量観測結果) 平成19年度実施 注)変動量分布欄中の「変動なし」欄には、移設を行った全ての水準点を含む。 http://www.city.osaka.lg.jp/kankyo/page/0000064234.html
お礼
回答ありがとうございます。 長文での詳細な回答誠に恐れ入りますが、地盤沈下の意味合いが違いまして、恐らく私の質問の仕方が悪かったものと、失礼致しました。
国への納税がかなり多いのに、国から大阪に落ちてくるお金が最も低いから?
お礼
回答ありがとうございます。 >国への納税がかなり多いのに、国から大阪に落ちてくるお金が最も低いから? 果たしてそうでしょうか?
お礼
産業立地論ですか、私なんぞでは思いもよらない違った切り口からの回答、大変参考になります。 >大阪湾が小さいから。 >よって1970年代に花形輸出品になる、鉄鋼や自動車にとって、大阪湾は東京や名古屋に比較して用地としてのポテンシャルが 2/3 になります。(海岸線の比率) >自動車産業が、ついに大阪湾地区に進出しなかったのは、これもあるかと推測します。 >ソフト産業(人間の往来による産業)が日本の基幹産業になる前に開港できた成田と、開港できなかった関空。この差が効いてきている。 以上産業立地論の観点から申せば、斜陽産業のみが大阪に残らざるを得なかった、しかも東京との比較に於いて、ソフト産業の命運に大きく寄与する国際空港開設のタイムラグが致命的、という理解で宜しいのでしょうか?、何れにしても説得力がある論旨であると思われます。 国内輸送という観点から、かつては内海に面しプラスと思われた立地条件が、海外輸出への依存度が高まった為、外海への距離がマイナスに作用する時代に到ったという事も、影響があるのでしょうか? 色々と勉強になりました、ありがとうございます。