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お願いします。

こんにちは!! ただいま哲学のレポートをやっているのですが、とても困ってます…。 題名が『宗教と哲学の違いは何か?』でどうまとめればいいか、わからないのでお願いしますm(__)m たくさんの回答待ってます☆

みんなの回答

回答No.7

 宗教は感情、哲学は理性、との観点からその違いを探ってみてはどうでしょうか。

noname#194996
noname#194996
回答No.6

共通点がたくさんありますから、ざっくりと分けることは不可能だと思います。 宗教哲学という言葉があります。 宗教の体系のなかで哲学をすることだと思います。いや 哲学として宗教を俎上に上げるということでもあります。 神は存在するか、どうか、というようなことがテーマになるのでしょう。また 宗教の教えの中に哲学的なモノを見つけるという方向もあります。 ひとことでいえば宗教はこれ以上の思考を停止する限界(神という個性がそれなのかもしれませんが自覚が無い場合が多いです)を持ち、それがなく一見自由なのが哲学だということです。 単なる個人の一見自由な思いつきです。

  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.5

言葉(単語)が違いますよ? ・・・・で終わるとモニター越しにぶん殴られそうですから ちょっとだけ付け加えます。 そもそも宗教家が哲学をやる例だってありますから(例えばスコラ哲学 なんてギリシャ哲学の丸パク・・・もといオマージュですし、 仏教哲学なんて言葉もあるように思索を重視する宗教もありますよね。) 少なからず、共通点があるかもしれません。 それでも違いを見出すとすれば。 そう、やはり言葉が違うのです。 言葉とは人間の概念を表したものであり、これらの言葉を 作った人間からすれば(仮にどちらが先であったとしても、 あるいは多少の共通点があったとしても)それは全く同じではなく、 多少なりとも違う意味を含んだ概念であるわけです。 つまりは必要だったから、 過去の誰かさんがわざわざ新たに言葉を作ったわけです。 では、何故、どういう局面で必要だったのでしょうか? 彼は何かの概念を他人に伝えたかったはずです。 というわけで本題。違いの発見とそのまとめ方です。 言葉が必要だから作られたのですから、これは実際の単語の使われ方 (活用法)を見ればチェックできるんです。 あくまで一例として・・・・ 『宗教団体』はあるが『哲学団体』はない。 これは決定的な違いであって、つまり『宗教』は『団体』を必要とします。 宗教は"現世"の利得を否定する傾向がありますが、一方でその思想は いかなる努力に対しても、現実に見返り(利得)を与えることができないのです。 (死んだ後にはもらえるらしいですが、チェックできない利得であり、 全ての人が伝聞のみを根拠としており、誰も見たことが無い。 一般社会でこれを端的に言うと"詐欺"といいます。) そこで必要になるのが、"階級""称号"あるいは"浄財"といった、 "利得の隠れ蓑"であるわけです。 彼らは教義で社会を否定しつつ、結局のところは別種の社会、別種の評価軸を 作っているのに過ぎないのです。 他方、哲学に団体が無いのは、そんな階級や称号を必要としていないからです。 何故かと言うと・・・・ ・・・と、こんな感じで『宗教~~』という言葉はいくらでもありますので。 入り口だけはムダに豊富ですよね。以上を3行でまとめると、 まずネタの入り口である『宗教』や『哲学』に関連する言葉を辞書でもめくって決める。 そしてその言葉の違いは、概念の違いであるとみなして 一般に想起される『宗教と哲学の違い』そのものとしてまとめるわけです。 このやり方であれば、言葉の選択はなんであっても、一文かけると思います。 その選択に関しては、質問者さんの感性で決めちゃっていいと思いますよー。 (つまり、わざわざ"団体"とか選んで、宗教家にケンカ売る必要は全く無いわけです。)

回答No.4

宗教とは信じることと見つけたり。 哲学とは疑うことと見つけたり。

回答No.3

 ● 神の意図  ☆ がもし分かったとなれば それは 神の意図でも心でも何でもありません。ただただ人間の思惟と想像の産物であるに過ぎません。  ことほどかように 〔その教義が 神についての内容にかんするかぎり無効の判断によっているにもかかわらず その教義やそれを説くことが既成の事実であるというただそれだけの理由で社会的に有力なものと見做されており そのことに疑義が挟まれなくなってしまっているところの宗教 この〕宗教の影響が 人間にかぶさっている。こう考えられます。  個人の信仰から見てという視点は措いておいても 哲学という観点から見ても 宗教〔が無効であるにもかかわらず社会力学上のチカラを得ているそのこと〕によって現代人ですら 精神が錯乱されているといった情況でしょう。  

回答No.2

中世以前は、宗教が科学であり、哲学であった時代があります。 全知全能の神に全ての意味を求め、世界を創り、全ての価値の 源泉とするならば、宗教が全ての知識のバックグラウンドであり 得るのです。 ところが、物体の原理を探求していくと、“神の意図”を直接感じ ない複雑な法則性が現われ、それだけで学として成り立つほど 膨大な体系になって、科学となりました。 社会性が発達し、また世界の知識が増えるにつれ、価値観や 世界観も、“神の意図”では済まされなくなり、哲学として独立 した訳です。 もちろん、哲学として神を扱ったものは多くありますが、あまり 全ての原因を神の全知全能に頼ると、それは哲学ではなく 宗教になってしまいます。

回答No.1

 試験の答案やレポートに不向きな内容と一見すると見られる回答を用意しました。すでに投稿したことのあるものですが ヒントなりが得られればさいわいに思います。  (1) アブラハムという人は その生きる歩みの中で この世界とそれを超える領域とを峻別しました。  この世の自然環界や人びとのいとなみとしての社会からまなぶということのほかに それを超えた場を想定し 究極においては自分はこの経験世界からまなぶことはあっても その中に提出され保持されている命題からはおのれの人生を左右されることはないと考えました。    言いかえると 自分もむろんこの経験世界の住人であって その人間という存在から まなぶことはあっても その持ちうる見解や社会力学上の要請によって左右されることはないと決めたということは 早い話としては おのれのしたがうべきは 神のみである。という話です。  ところが このこの世を超えた神にのみしたがうという原則なり信念なりは ほかの人からみればけっきょく 人間としてのおのれの考えにしたがうに過ぎないということにもなる。ただの自己満足ではないかと。  この自己閉塞を突き抜けるには どうしたらよいか?    アブラム(アブラハムの元の名)よ 父祖の地を去って 行きなさい。  という神の声を聞いたというかたちで それまでの自分の人生のいっさいのシガラミから自由になる道をえらびました。  ここまでは ここまでなら いかに信仰がからまっていると言っても 経験合理性によって判断しうる広い意味での《科学ないし哲学》の話です。  (2) 信仰の信仰たるゆえんは この経験世界を超えたところに神を想定するからには 経験思考ないし科学(ないし哲学)をも超えることです。  アブラハムは わざわざこの・一方での《神とわれとの関係としての信仰》のことと 他方で《人間どうしとしてのわれとわれの関係としての社会情況》とを区別したその心の境地をさらに練り上げて行こうとします。人びとに説明しうるかたちを模索します。  神の要請であるなら おまえの――長年待ちに待ってさづかった――長子を神にささげることができるか? とみづからに問います。  けっきょく錯乱の寸前にまで行って 神は独り息子にせよ誰れにせよ 人間のいのちを召し取ることはするはずはないとさとるに到ります。(神ののぞむのは いけにえではない)。また 人は人をころすことはないとさとります。神の声を聞くとするならば と。  ということは 神ないし信仰の世界を 経験世界に合わせて説明するすべは 見つからなかった。観想もしくはヒラメキのようなものとしてその答えを得たのみであった。  (3) 《たとえ誰れであろうと 人間が人間に対して 人間のいのちを断てということはありえない》というさとりは その根拠は 《科学ないし哲学》としては見つからない。  言いかえると 無根拠によって 人は人を殺さないのだというただただ信仰の動態があるのみだと知る。  ところが この・非思考の庭の成ったわが心のさとりの中身を じんるいは いづれ 《哲学》として表現するに到った。《汝 ころすなかれ》あるいは《不殺生戒》などなどとして。  つまり 道徳ないし倫理規範も 或る種の仕方で《科学であり哲学》なのです。ふつうに言って 世間の知恵でもあります。  この倫理規範を規範として持ったところで アブラハムの信仰は 集団としての教義になり組織としての宗教が発生するというかたちに変わって行きます。  言いかえると その倫理規範たる教義はまだ《哲学》です。その哲学としての命題を 後生大事に絶対的に=つまりは 盲目的に絶対命令であると思い込んで その思惟および行為の形式にみづからを縛るということ これは 宗教です。非人道的で反哲学的なおこないです。(自分ひとりだけの話なら まだゆるされると言えましょうか。どうでしょうか?)  (4) おそらく 信仰という行為も――神は非経験ですが 神と関係する人間は 経験存在ですから―― 全体として 経験行為であるとなるのではないか。  非経験のナゾを包み込んだ人間の現実であるとなるはずです。  言いかえると 信仰という現実が 経験世界にかんして合理性によって判断するところの認識である科学(ないし哲学)をもつつむ。  宗教は 信仰からはすでに離れ 科学や哲学に対しても――盲目的に――反対を繰り広げるあほばか状態であり得ると考えられます。  科学ないし哲学は 信仰に対して 言わばその是非を判断することが出来ないと心得ており その限りでその批評・批判については禁欲するようです。    科学ないし哲学は 宗教に対しては みづからが得た成果――科学としての事実認識〔としての真実〕――の扱い方を まちがえることなかれという警告を発して とうぜんであると考えられます。少なくとも その扱いについて柔軟であれと。  信仰は 宗教に対して 教義を絶対命令とするようなかたちで 固まってしまうことなかれと言うでしょう。  宗教はその実際の組織としては 科学や哲学に対しても信仰に対しても おれたちのこの経験世界における社会力学上のチカラの前に屈せよと言い続けているようです。《善良なる信徒が こんなにたくさんいるではないか》と。まちがったり古くなったりしたら 衣替えして出直せばよいだけだと――これはひそかに―― 言っているのではないでしょうか。しぶとい。    (5) 哲学と宗教は もともと 分かれています。信仰も 宗教とは別物です。  というよりは 宗教が 信仰からの――なぜなら個人の信仰を哲学規範に取って代え勝手に集団のものへと衣替えさせたことにおいて――鬼っ子であり  そしてまた科学ないし哲学からの――なぜなら哲学命題や科学真実の取り扱い方において一方では教義とすることで絶対視し 他方ではその教義に反する命題は軽視するという勝手さゆえ――鬼っ子である。  こう考えられます。

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