英語教師です。
たいていは、幼少期、あるいは小学生時代の数年間を当該国で過ごした経験がある人たちです。「話す・聞く」には問題がないが「書く・読む」にはちょっと…という場合があります。あなたがおっしゃるように「赤ん坊が覚えるように」です。
しかし、思春期をすぎてからでも「文字は面倒だから」というわけで、日常のコミュニケーションをとることだけを目的にして外国語に取り組み始める人にも、同じことが言えます。西洋人で、日本語や中国語を勉強している人にはこういう人たちが結構います。(漢字は彼らにはモノスゴーイ難敵ですから。)
米国の海軍(だったかな?)が昔おこなった研究でも、「音」だけ(つまり《聞く・話すだけ》)を目的に日本語を学習させると、日本語の難易度は中レベル以下だが、《読む・書く》まで含めると日本語はもっとも難しい部類の言語になる、との調査結果がありました。
ぼくが教えてきた生徒の中にはときどき「小学校時代…」の子たちがいて、発音は完璧だし、センター試験やトウイックレベルのリスニングならまったく問題なく満点取っているものの、筆記問題の文法・語法になると平均レベル(偏差値的には50台)といった場合が珍しくありませんでした。大部分は「文法なんて」と高をくくっている子たちでしたが、成育歴を考えれば、非難はできませんよね。ぼくらだって、いまさら日本語文法を学ぶなんてバカバカしいですから。
わたしが敬愛するデーブ・スペクターさんは言っています。「文字から得る情報というのは、その国で生活するうえで《とても》大きな比重を占めているので、いやでも初期の段階から文字に取り組むべきだ」。ぼくも同感です。
「どういう仕掛けでそうなっているか」というのは、ぼくたちのように日本の学校教育で英語を学んできた人間には不思議に思えるかもしれませんが、理由は意外と簡単でしょう。つまり「音だけ」を頼りに、覚えて・使って・身に着けていくということです。ぼくも周囲ではそういう外国人を何人か知っています。ハナから「文字は難しいから」と、音だけをたよりに身に着けてきた人たちです。
わたしは中国語が読めませんが、「これはなんですか?」=チェー・シー・シェンマ、「これ、ひとつください」=ウォー・ヤオ・イーガ、「いくらですか?」=ドウ・サオ・チェンは言えます。「音」から覚えて、使って覚えたのです。ぼくの先輩の旅行代理店で務めている人も、ほとんど中国語はペラペラですが、文字はダメだそうです――会話ではかなり込み入ったことまでこなしていますが。
しかし、このパターンでの学習は中の上くらいまでにはレベル・アップすることはできても、学習途上のどこかの段階で、まったく太刀打ちできない壁を感じるのが普通です。デーブさんのことばのとおり、日常生活で占める《文字から受け取る》情報の大きな一部をまったくインプットすることができないからです。
普段の生活で「ねえねえ、昨日の新聞よんだ?」とか、「昨日週刊〇〇で読んだんだけど…」といった会話は多いですよね? これに入っていけないということです。当該国の人と密接な関係を築いていくには、これは大きなハンデとなります。
しかし、だからといって「音だけを頼りに学習している人」に「それは損だよ」と言ってもあまり意味がありません。その人がのぞんだアプローチなのですから。その国の深部にまで入り込まなくても、その国の人たちと楽しくコミュニケーションすることは可能ですし、それもまたひとつの外国語学習のありかただと思います。(ぼくは、アラブの人とコミュニケーションをはかりたいというかなり強い欲求がありますが、あのアラビア文字は誰に何と言われようと学習する気になれません。)
お礼
非常に示唆に富んだ、観察と意見をありがとうございました。 たいへん参考になりました。