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人生について
アンポンタンな質問だったらごめんなさい。m(__)m 赤ちゃんの時は、悟っているという事なんですよね。きっと。 という事は、 赤ちゃんの時は至福の状態で、 成長するに従って、いろいろな刺激を経験する為に、 快感、不快感が出てきて、 依存や抵抗が生まれて、 それにより不幸を体験する。 って事なんですかね? それで、これを抜け出す為には、 思考を落として、赤ちゃんの状態に戻すって事になるんですかね? う~ん。この質問も理解がめちゃくちゃの様な気がするのですが。(ε|||) 暇な時に教えて頂けると、とても嬉しいです。m(__)m
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思考を落として赤ん坊に戻るとありますが、大人より赤ん坊の方が思考レベルが低い事は必ずしもあっている事ではないと思います。 赤ん坊は幸を感じ無いことで不幸を感じない…成長してしまった我々には感じない不幸や幸を感じている可能性も否定できません。 また、それぞれの感情(幸せや不幸に感じることなど)やその原因の相関性は証明不可能に近いと思いますし。 「不幸と感じること」を「幸福」と定義すれば、当たり前ですが、不幸を感じれば幸福になりますよね。
- tumaritou1
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赤ちゃんの時は至福の状態で、と云う事を聖書では天国に一番近い存在と形容しています、その理由は『心に矛盾が無いからです。』 思春期頃から脳の機能が完成に近くなる事によって、心が二つになって争いを始めるようになります。この脳内(心の)中の戦いを失楽園と表現していると思います。 心の中の戦いを今風に表現するなら、三通りになりますが、この説明をする前に、心や感情が湧き上がる背景を書いてみます。 普通に『心』と表現する場合では、湧き上がる感情を感じている心=自我意識の事を云っていると思います。ですが脳科学的な認識からするならば『心=意識』は二つ存在しますので、ウイキペデアからこの事に付いての記事を載せてみます。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。” この場合の左脳に存在する意識が自我意識=顕在意識です。自我意識の機能は言葉によって感情や考えを表現する機能という面がありますが、自我意識には本当は出来ない事が多く存在しています。自我意識には出来ない事を右脳に存在する意識が『交替制を確保する事によって、替わってやってくれています。』 右脳の意識は『無意識の時の自分』の身体も心も支配して『自我意識の替わりに』自分の身体も心も開放しています。 唐突な書き方をしていますので、もっと分り易くなる様にしてみます。 右脳の意識の機能は『命そのものを働かせている意識』です。この働きを説明する場合に機能的な事を言葉にする場合には『三つに分けると説明し易くなります』 全てが命そのものに関わっていますが、一つは『体の機能面における生命維持装置です。』消化機能やホルモン調節的な意味合いです。或いは自律神経や交感神経的な表現方法です。つまり生命体としての生命維持に関係していると言う意味です。 一つは人間が行なう『行動面的に働く生命維持装置です。』簡単な例を挙げるとするなら『眠る場合です。』眠る場合では、普通の人は『自我意識が眠っている』と勘違いしている事です。自我意識は眠ってはいません、只意識が無くなっているだけです。 意識がなくなっている間に『無意識の自分が深い眠りに入らせています、そうして必要な時間が来た時に、自我意識にバトンタッチしています。』この場合に心地良い目覚めと思っています。 眠れない場合です、自我意識が眠れると言う勘違いをしている例です。自我意識は意識がなくならないと眠れないのですが、『意識した状態で眠りに入るのを待ち構えています』意識を凝らす度合いが強いほど眠りからは遠ざかる事になります。 そうして何時しか意識が無くなっていって、眠っていますが、『自我意識は意識が無くなった事を憶えていないために』今夜は一睡もしなかったとこぼしています。人間はどうであれ『必要な睡眠は取れていますが、意識が無くなって、眠りに入った瞬間が意識出来ないために、眠れなかったと言う勘違いをしています。是が不眠症という現象です。 行動面的な交替制の確保によって人間の正常な毎日が成り立っている事を示す一例ですが、この交替は全ての行動時に起きている事です。ですが『自我意識は知らないでいます。』この知らないでいる事が『健常者の条件です。 そうして一つは『精神的や心が感じている感情面的な面における健康についてです。』 この三つの面はお互いに絡み合っている事ですので、複雑に見えていますが、『実は簡単な現象です。』 思春期頃から『心が戦いを始める』と言う場合においての、大別した場合の具体例がこの、三つの面と云う事になります。それは心に矛盾を感じる、と言う言い方でも、心に違和感を感じると言う言い方でも、生き難い想いで生きる、と言う言い方でも、罪の意識に悩む、と言う言い方でも、人生そのものに疑問を抱く事や、自分に疑問を抱くと言う言い方であっても全てが同原因だからです。 この苦しみを聖書では失楽園、仏教では『一切皆苦』と表現しています。 つまり『意識した事全てが苦しみ』と言う意味は『意識地獄』と言う意味になります。宗教の根本は『心の矛盾の解消』を唱えていると言う意味です。 言い換えるなら『心の矛盾を』一切皆苦や地獄と感じていると言う意味になります。 この心の矛盾の解消を『魂の救い』と言っています。この魂の救いが成就して『心の矛盾が解消された姿』を幼子に例えていますので、その理由を書いてみます。 脳の機能分化によって、機能が違う『二つの心』に分かれた心が争ったり分裂したり矛盾を起していましたが、右脳の意識と左脳の意識は『意識の根底(脳梁の中)で出会う事になります。』この現象を仏教においては『見性』と表現しています。 キリスト教においては『神に会う』です。自我意識と『自分自身の命の働き』が出会うと言う意味ですので、心的な状態は同じ事を云っています。 この場合の右脳の意識は『永遠で出来ていますので』自我意識は、自分自身の肉体やこの世での地位や名誉やお金の価値には興味を失います。この体験が『生死の問題が解決する』と表現しています。 自我意識に感情を湧き上がらせる働きとして働いていた意識との出会いで、感情が湧き上がるシステムそのものが理解出来るようになります。 右脳と左脳の間にホットラインが通じる事によって、『心は二度と戦う必要が無くなっています。』 心が飽く迄も静寂を取り戻した状態を『涅槃』と表現しています。この状態は、先の三つの状態の完治を意味します。先に揚げた三つの状態は『心の矛盾』をその人の個性によって、それぞれ感じ方が違うだけだからです。 それぞれの生き難さの解消が『自分自身を知る事』によって完成しますが、それには、特別な力がうまれる事はありません、只当たり前の事が当たり前として判る様になるだけです。 もう一つ云える事は『健常者以上の健常者になると言う意味があります。』世の中の見方と頭の中の解釈の仕方が一致する事によって、二度と妄想が湧かなくなると言う意味でもあります。 真実の世界が見えると言う言い方も可能かも知れません。
お礼
tumaritou1さん、回答ありがとうございます。ヾ(≧▽≦)ノ かなり、仕組みは頭の中では理解できてきました。 あとは、実際の体験をしたい所なのですが、なかなか難しいかんじです。 諦めずに頑張ります。キリッ ( ̄Д ̄)ゞ
宗教については全くと言って良いほど疎く、求めていらっしゃる回答とも程遠く、理屈っぽく感じられるかもしれませんが、ご質問のタイトルが『人生について』なので、人生そのものに焦点を当てて語りたいと思います。 悟りとは、喜怒哀楽、全ての感情を経験したその先にあるものではないかと思うのです。 喜怒哀楽、それら全ての感情を心と体で会得して、初めて慈悲と慈愛を知ることができるものなのだと。 日本的に言えば、“もののあはれ”を知ると言っても良いと思います。 その過程がなければ人間としては不完全で、到底、悟りには辿り着けないと思うのです。 赤ん坊は無垢な存在だとは言うけれど、赤ん坊って生まれ落ちたときから感情表現が豊かなんですよね。 (これは子育てして直に感じたことです。 また、不思議に思われるかも知れませんが、生まれた直後から、上の子と下の子の性格の違いをハッキリ感じられました。 性差もあるのでしょうが、親を同じくする姉弟であっても、泣き方や仕草が全然違うんですよね。) 赤ん坊は、生まれ落ちて直ぐは、胎内から外界へと急な環境の変化に驚いて泣きます。 オムツが濡れれば不快感から、お腹がすけば餓えの苦痛から泣きます。 ときには弱々しく怯えるようでありながら、力強く泣き叫び苦痛を訴えるその姿は、生死を賭けて戦う命、まるで「怒り」そのものです。 赤ん坊は養育されること、愛を注がれることで苦痛を訴える相手を得ます。 そして、その苦痛を取り除いてくれる人が側にいないとき、悲しみを感じます。 悲しみは、孤独と苦悩、寂しさをもたらします。 こうして赤ん坊は、「悲しみ(哀)」を知ります。 ここまでは、生後1~2ヶ月ほどの赤ん坊が得る感情だと思います。 そうして、更に1ヶ月、2ヶ月もすれば、もっと感情が豊かになります。 目の前を通り過ぎる人やおもちゃに関心を示したり、笑顔を見せるようになります。赤ん坊は「楽しむ」こと、「喜び」を知り、「愛情をも示す」ようになるのです。 ――成長の進度には個人差はありますが、赤ん坊が辿る感情の流れ(喜怒哀楽+愛)とは、そういったものだと思います。 赤ん坊はやがて幼児へと成長していきます。 ときとして幼い子であっても、姉は弟に、妹は兄に、子供は親にというように、まるで親が我が子にそうするかのように、慈悲や慈愛の感情をみせることがあります。 しかし、生まれ出でたその日から、慈悲や慈愛の片鱗をみせる赤ん坊はいません。 赤ん坊は注ぐ側ではなく、注がれる側にいます。 赤ん坊の存在そのものが慈悲であり慈愛だというのなら、その赤ん坊の養育者は親としての悟りを得たと言えると思います。 この場合、悟りを得たのは赤ん坊ではなく養育者であり、赤ん坊は触媒のごとき存在ということだと思います。 赤ん坊には迷いがないように見えますが、赤ん坊は生まれ落ちたその日から、生死を賭けた戦いを歩んでいます。 赤ん坊は常に、庇護を求めるサインを周囲に送っています。 そのサインを養育者が全く拾うことが出来ない場合、周囲との関わりを絶った場合、赤ん坊は死と隣り合わせです。 赤ん坊はお腹がすいてもおしめが濡れても、養育者が無関心であれば、苦悩と苦痛、悲哀は常に共にあり、この世でもっとも悩める存在になってしまいます。 赤ん坊自身は泣いて訴えることしかできませんから。 >赤ちゃんの時は至福の状態で、 悟りに程遠い養育者の元にいれば、地獄だと思います。 >思考を落として、赤ちゃんの状態に戻す いえ、赤ちゃんは立派に思考しています。 それは前述に書いたとおりです。 それぞれが目指す、本当の意味の慈悲と慈愛を知ることが悟りの入り口なのではないか? その先に様々な悟りがあるんじゃないか? その様に私は思います。
お礼
mist_greenさん、とても貴重なお話しを、ありがとうございます。 mist_greenさんの文章を読んで、頭の中のモヤモヤが、かなりスッキリしました。 何もお礼ができないんですが、本当にありがとうございます。(-人-)
- mas-george
- ベストアンサー率20% (61/302)
『悟る』ということは、仏教的にお応えするのがよいのでしょうか。 「赤ちゃんのように、無垢で邪心がない状態」が良い、ということなんではないでしょうか。 生まれて、育って、人間の様々なこころ、つまりは、嫉妬やねたみ、恨み、怒り、悲しみ、喜び、 などなど、オトナにならなければ経験しないようなことを全て経験したうえで、 それを克服して悟りの境地に至る、というのが『悟る』ということなんでは。 瀬戸内寂聴さんはそういった典型ではないでしょうか。 それらを学ぶために生まれてくる、というのが仏教の基本的考え方だとわたしは理解しています。
お礼
mas-georgeさん、回答ありがとうございます。ヾ(≧▽≦)ノ やっぱりそういう事なんですよね。きっと。 本当にありがとうございます。(-人-)
- kanakyu-
- ベストアンサー率30% (1916/6194)
戻すんじゃなく、進むのでよいと思います。 というか、「進んでも進まなくても良い」という領域にジャンプできるその日まで、気が済むまで進むしかないです。 たとえば、 「動物は何も未来の心配をしていません。動物のようになりましょう。」 という主張をする人がありますが、 それは人間には当てはまらないんですね。 1年生のカリキュラムをとっている人のまねを、 2年生のカリキュラムをとっている人がしても、それで2年の課題はとけないんです。 誰かを見習うなら、自分のやっている課題をときおわった人を見習うのがよいです。 三輪車の運転方法で、車を運転できないのと同じです。逆行はしません。 車の運転方法をマスターしたら、次は電車の運転、次は飛行機の運転にはいるのです。 だんだん早く、複雑になります。 その過程で、「どこかへ行く必要がなかった」ことを心から思い出したら、 安寧のなかで休息することができます。 しかしそこで人生は終わりませんから、休息の場を持ちながら、運転も続けることになります。
お礼
kanakyu-さん回答ありがとうございます。ヾ(≧▽≦)ノ 【「進んでも進まなくても良い」という領域にジャンプできるまで、気が済むまで進むしかない。】 【「どこかへ行く必要がなかった」ことを心から思い出したら、安寧のなかで休息することができます。】 やっぱり、そういう事になるんですね。 ありがとうございます。(-人-)
- ks5518
- ベストアンサー率27% (469/1678)
人の幸不幸という事については、何をどう規準 付けるかに因りますので、一概に成長過程に原因 を求めることはできません。 また、赤ちゃんの状態が幸せかといえば、これも 一概には言えません。 科学的確証は有りませんが、人は胎児として母親 の体内で成長する段階では、まだ過去世の記憶が あるという説もあります。産道を通る時にその記憶 は消されるらしいのですが。 人は六識の外に、三つの記憶媒体が有り、これは 消える事なく三世を貫くとされています。この中に 蓄積された宿業が今世にその報いとして、一人一人 の生活の上に現れるとされています。これを仏法では 「依正不二」といい、人が幸不幸を感じる根本的な 原因と言われています。
お礼
ks5518さん、回答ありがとうございます。ヾ(≧▽≦)ノ 最近仏教の勉強も少し初めたんで【依正不二】もよく調べてみます。 ありがとうございます。(-人-)
思考(自我)を落として純粋知覚(意識)に立ち返る事を悟りと言うのですが、赤ん坊の頃の自我と同化していない知覚の初期状態が、悟りの状態に似ているというだけの話で、誰もが赤ん坊の頃は悟っていたという訳ではありません。赤ん坊の自我は未発達なのであって、自我を超越した悟りの状態に居る訳では無いんです。 また「本当は誰もが悟っている」と仰る覚者も居ますけど、これは飽くまでも仏眼(悟りの境地)からすればそう見えるという話であって、実際に誰もが悟りの状態に居る訳ではありません。 つーか、あなたは相変わらず悟りを頭で理解しようとしてますね。そんな事をしてもトンチンカンな妄想が膨らむだけで良い事は何も無いってのに。どれだけ理屈をこねようが、情報を頭の中に詰め込もうが、得た知識を組み合わせようが、思考が思考を超える事は出来ないんですよ。 まだ食べた事の無い物の味について、どれだけ情報を得ても味わった事にはならないのと同じ様に、あなたにとって未知の味わいである「悟り」を、直接体験する事なしに理解するのは不可能なんです。 そもそも、悟りとは何かを知らないあなたが悟ろうとしているのは何故ですか?「思考を落として、赤ちゃんの状態に戻し」て、何をするつもりなんですか?今回の質問を自分で読み返して、これが哲学的な質問だと思えますか?自分自身の言動におかしな所がいくつもあると「気づく」事そのものが修行になるとは考えられませんか? とりあえず、悟りなどという解りっこないものは、解らないままほっといて、自分自身に目を向けましょう。悟りを理解しようとするより、先にやらねばならない事は、山のよーにありまっせ。
お礼
ヾ(≧▽≦)ノ siryuanさん、回答ありがとうございます。 なんか、気分を悪くさせてしまったなら、ごめんなさい。 気をつけます。m(__)m
- hanniyagi
- ベストアンサー率15% (14/88)
なにも持たない若者たちの無欲無限の赤心が日本の明日を創るのだ。 松下村塾、長州心、今も生きてる萩の町。 、カラオケ、吉田松陰、にそんなのがありました。 歌謡曲なんて、心の歌、猿の詩。などと言いながら。 結構、酒とカラオケ、に浸った時代もありました。(嘘、酒場の女に惑わされたんでしょう。ですか ?・・・正解。) 赤心、赤子の心、は無欲、無限、である。と言っている訳で。 当たっている意味はあるでしょうし。育て方、を間違えると。ガキ(我鬼)になり。性に目覚めると 知恵の消滅となり。思い出しても、恥ずかしい、思い出したくもない。青、壮年期。となってゆく 意味もあるのでしょう。 知行合一(心、思惑、ではなく、知恵と行動を一致させよ) 良知(知識や人の評価などに拘らず、無欲、無心、もの語とで見るなら、何が正しいかは解る、そういう能力、良知、が人間には備わっている)正しいと確信したなら、行動、をせよ。 時は常に、今、しかない。 松陰の思想(陽明思想)はそんなもののようですが。 陽明思想を唱えた王陽明は、あらゆると言われるほどの、職業を体験遍歴した中に。 仏教修行の経験があるようで、陽明思想は、仏教の亜流、と見れると共に。 漢訳仏教の中には(禅宗系でしょうが`)。「丸、の悟り」とか「1(いっ)の悟り」という言葉があるようで。かなり強く「老子」の思想が取り込まれているようです・ 老子の説くところは。 無為自然 作為や思惑を捨て、有るものを有るがままに見、あるがままに、今、を生きよ。 であり。赤子の心で生きよ、赤子が一番自然であり、悟っている、でもあるでしょし。 「我に3宝あり、一に、仁、(生きし生けるものを公平に慈しむ心)二に倹(欲望を抑える術) 三に、あえて人の先ならず、余計な事をしない、自己主張をしない) でもあるのでしょう。 ニーチェの超人思想、(多分を付けずとも、東洋思想の猿まね、ですが)でも。 人間の精神が(重き荷を背負い、砂漠に向かう)ラクダになり ラクダが(牙を剥き、咆吼する)獅子になり 獅子が(有るものをあるがままに見、有るがままに生きる)子供になる。 と言っています。 赤子の心一番悟っている。赤子が一番、可能性としての、知恵、能力、を備えている。 でしょうね。 カラオケ吉田松陰の歌詞 口で言うより行うことが、志士の志士たる誇りなら、覚悟の罪の東海記、 下田港の弁天島の波も称える男意気。 最近か、前からか、口ばかり、多弁に智なし。が多い、知恵を求める者が逃げて行っている気がしますね。これが言いたかったのかな? (
お礼
hanniyagiさん、とても為になるお話しありがとうございます。ヾ(≧▽≦)ノ hanniyagiさんは、沢山知恵があって羨ましい限りです。 よく読んで理解します。 本当にありがとうございます。(-人-)
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
自動販売機が「ありがとうございます」と言ったところで、 本当に感謝しているとお思いでしょうか? 人間が喜びを感じるのは、脳内の神経線維網が発達し、 刺激に対する条件反射ではなく、その「網」で五感からの 刺激を相関させ、外的環境を再構成する事による、相対 する自我の目覚めによります。 人間の脳においては、脳幹などの基本的生理をつかさどる 部分を除く、意識にかかわる大脳皮質のネットワークは、 ほとんどが生後数ヶ月の刺激により発達する(この時期に 何らかの理由で感覚の入力が断たれると、後に回復しても 不可逆な障碍が残る)ことが知られており、「赤ん坊の時に 感じる幸福感」は、まだまだ希薄な意識の中でのものと 考えられます(「脳死は人の死」のアナロジーで)。 そもそも「赤ん坊は至福の時」とは、どなたのご指摘でしょう? 『至福』ならばあれほど泣きまくることなどないでしょうに。 人の幸福感は、本能による生理的衝動の短絡的充足では なく、「意識の発達」とそこに展開され「意志の強さ」、その 「達成の度合い」、「結果の感受性」の関数であり、3番目の 『達成の度合い』以外の要因は、脳の発達に依存します。 そこにおいて、生理的衝動をダイレクトに発露するのではなく、 その充足を人生を通算して最大限にすべく、発露をコントロ ールする事において得られる、短絡的快感ではない自律的 意志を伴う充足感を「幸福感」と呼ぶべきでしょう。
お礼
psytexさん、回答ありがとうございます。ヾ(≧▽≦)ノ 僕の理解力だと少々難しいのですが、 快楽よりも達成感の方が幸福感がデカイという事になるんですかね。 ありがとうございます。(-人-)
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
思考を落として、赤ちゃんの状態に戻すって事になるんですかね? ○ まあ赤ちゃんに戻るという表現はイマイチですけど、最初の状態を知っているという意味では悟りともいえますね。人生というテストですから、テストに向かう最初の気持ちが取り戻せれば個々の人生の意味もわかるということですね。 赤ちゃんじゃわかりにくいので、新人の舞台俳優が始めて舞台に上がる時の気持ちですね。さあやろうと気を引き締めて舞台に上がりますね。そこで舞台の一主人公になりきるわけですが、舞台も80年ほどの長さになると、劇中の役が自分自身だと思い込んでしまうんですね。実際は単なる役でしかないのにね。 舞台から降りる時は人生の終りの時ですが、さてあなたの役はどうでしたかと聞かれて、きょとんとしている人ばかりですからね。面白い役でした、こんな経験、あんな経験ができました、多少とも人の役に立てました。といえる人は人生が舞台というテストであったことがわかる人ですね。まあ赤ちゃんの時の気持ちを忘れずにいた人でしょうね。
お礼
ヾ(≧▽≦)ノ mmkyさん、回答ありがとうございます。 【テストに向かう最初の気持ちが取り戻せれば個々の人生の意味もわかる。】 【舞台に上がり、一主人公になるが、劇中の役が自分自身だと思い込んでしまう。】 【実際は単なる役でしかない。】 という事は、人生の意味は経験を楽しむ事になるんですかね? それとも、単なる役だったと気付く事ですかね? これを皆さん悟りって呼んでるんですかね?
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お礼
dadamikanさん、回答ありがとうございます。ヾ(≧▽≦)ノ 人生、なかなか難しいもんです。_| ̄|○