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本を読んでいてわからないところがありました。
萩原朔太郎詩集を読んでいてわからないところがありました。引用します。「われを嘲りわらふ声は野山にみち苦しみの叫びは心臓を破裂せり。」(公園の椅子より引用) ここの「叫びは心臓を破裂せり」は現代的な言葉に直すと「叫びは心臓を破裂した」というほどの意味になると思うのですが、ふつう「心臓を破裂した」とはいわないですよね?例えば、「心臓を破裂させた」なら分からなくはないのですが・・・。ということは、「心臓を破裂せり」は文法上は間違いなのでしょうか? 説明が下手で大変申し訳ありませんが、回答して頂ければ嬉しいです。
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>ふつう「心臓を破裂した」とはいわないですよね? こういう表現を「破格」といい、文学表現にはよく用いられるものです。ふつうの表現だけでは詩作品にならない場合がありますので。 間違いとか合っているとかいう問題ではなく、作者はそう表現したかったということであり、あまり詩作品に文法や合理的な理屈などを持ち込んで解釈しない方がよかろうかと考えます。 特に萩原朔太郎の作品にはこうした「ふつうでない」表現や矛盾、つながらない展開がたくさんあり、その夢のような世界を味わうのも一興なのです。
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- Ishiwara
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文法上は何も問題ありません。詩人ですから大袈裟に表現したものでしょう。また、このようなスタイルが作者の好みであった、とも言えます。 「新しき樹木みな伐られたり」「汽車は烈風の中を突き行けり」etc. 公園は、前橋市の敷島公園。よく足を運んで瞑想にふけったようです。
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- ha dooo(@hadooo)
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現代ではたしかに「破裂する」を他動詞としては使わないようですが、 その詩集の時代では「破裂す」をたとえば「破壊す」のような他動詞としても使っていたのかもしれません。 「叫びは心臓を破壊した」ならば、おかしいところはないでしょう。 実際に訳すならば、「叫びは心臓を破り裂いた」とでもするとぴったりなのではないでしょうか。 「り」は完了の助動詞。
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- bakansky
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「せり」 は 「せる」 という動詞の完了形ととらえると、用法としては使役になります。 現代の用法でも 「お使いに行かせる」 などのように 「せる」 という語を用いますが、使役の用法ですから、「・・・させる」 という意味を持ち、「心臓を破裂せり」 の場合だと、「心臓を破裂させた」 という意味に取れます。 文法の知識が貧弱な者ですので、詳しく説明することが出来ませんが、私はその表現は間違いではないと思います。
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