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現代詩の読み方(鑑賞方法)について
先日ふとしたきっかけで現代詩の詩集を手にしました。 杉本徹『十字公園』という詩集です。 http://po-m.com/inout/4_01ogasawara.htm#4 に一部の引用があります。 「失くした眺望、その手摺で光る「銀の鋏」よ、いつ、どんな理由で、おまえの継ぎ接ぎの航跡はあの気象台の壁へ、おお懐しい亀裂の巣へ、転写された?」 読んでみると、普通の散文や大方の近代詩のように、語意や文法に則って理解することができないことが分かりました。 そこで、綴られる語のイメージを点々と追っていく読み方をしたのですが、 これだと単に同じ単語を羅列したものでも同じ内容の詩になるような気がします。 このような詩を読むとき、皆様はどのような仕方で鑑賞されているでしょうか。 もとより詩の読み方に「正解」は無いはずですから、皆様それぞれの鑑賞方法を教えていただければと思います。
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詩は一編をまるごと読むのが最低条件ではないかと思います。 あるいは場合によっては詩集全体からある詩句を鑑賞する、それが本筋なのかもしれません。 ところが当方、作者も詩集も存じ上げません。 ですから以下、かなり無謀な試みです。 あくまで、こんなふうに読んでいく、という自己流の一例として。 まず、眺望を失くしたといっています。「眺望」とは何でしょう? 私にとっては「眺望」とは、はるか遠くにある好ましいものを望み、眺めることです。 それははっきりと見えているが手に届かないもの、けれどもそこまで行けば手に取ることができるかもしれないもの、現実であって理想のもの、そんなふうなものです。 いやいや「眺望」とはそうではなく、もっと別のことだろうという意見はもちろんあります。 ひとそれぞれのイメージがあるでしょう。それはそれでいい。 それならそれをとりあえず胸に置いてください。 先に書いたことは私にはそうである、ということに過ぎません。 しかも私の抱いたイメージ、あなたの抱いたイメージは、一瞬後、次の言葉によってひっくり返され、はぐらかされ、裏切られるかもしれないのです。 でもとりあえず何か確定しなければ先に進めませんから、ひとまずわれわれ各個のイメージを置きます。 その「眺望」を失くしたといっています。 失くするとは、以前にはあったということです。以前からなかったのなら、失くするとは言いません。 次に「その手摺」と出てきます。なるほど眺望するとは広く眺め渡すことでもありました。 作者は手摺に手を置いているのでしょうか。 「その」手摺とはすこしあいまいな言い方ですが、作者が手を置くその手摺ということでしょうか。 また、詩を書いている作者からすれば「眺望」という言葉を据えた関係から「手摺」が出てきたのかもしれません。 そこに光る、括弧つきの「銀の鋏」。金でも鉄でもセラミックでもない、「銀」というもののイメージ。 高価で冷ややかで静かな感じ。あるいは高貴なきらめき。 作者にとってキーポイントにしたい言葉のようです。 「鋏」によって「継ぎ接ぎ」が導き出されます。 「おまえ」は銀の鋏のことではなく、作者が作者自身を客観視して、あるいは作者の記憶、過去を「おまえ」と呼んでいると捉えた方がよさそうです。 なぜなら「航跡」とは空間的であると同時に、時間性を帯びた言葉だから。時間の経過とともに拡散してゆくもの。 「気象台」がまた多義的です。時々刻々変わるものを扱うところ。またはそのアナロジー。 私は、どういうわけか白亜の清潔な建物というイメージも抱いてしまいます。 その壁のヒビ、「亀裂の巣」ですから細かく亀裂がはいっているのでしょう。 それがまるで「失くした眺望」を引き写しているようだ、思い出させると言っています。 以上、あくまで私の読み方。 あとはそれらを総合して、いいと思うか、つまらないか。 惹きつけられるものがあるか、魅力がないか。 好ましいか、わからないか。 共感できるかできないか、などなどだと思います。 詩を読むとは、現代詩に限らず、自分の経験と知識を総動員し、感覚を全開にして望むもの、 言葉の一つ一つのイメージを増幅させ、(日本語の詩では助詞に代表される微妙な方向性を暗示されながら)、 イメージにイメージを突きあわせ、重ね、総合してゆく。 結局はそれは自分の心の襞をまさぐり見ることのような気がします。 詩を介して自分自身と向いあうというのでしょうか。 これは作者の方も事情は同じで、いや、そうであるからこそ、読者のほうも、そうするよう促されてしまうといったほうが適切かもしれません。 ほかの詩句も、3の『肩ごしに陽の差す坂道』も面白いですね。 「凹凸の刻み」とは路面に映る作者の影のことでしょうか。 「踵だけでも青ざめていよう」とは、洒落ていてモダニズムな表現です。 「梢の撓み」は直接頬に触れるわけではなく、その影でしょうが、 主観的であると同時に客観的なふしぎな言い方、しかもそれがある人の面影へ飛躍し、 「葉越しの縮れ毛」はエロティックで、禁断のリンゴを食べた後のイヴのよう。 作者は自分の詩的世界にふさわしい言葉を、 ちょうど蓑虫が好みの葉だけでみずからの巣を作ろうとするかのように選択し、 作者の心の中にすでにあるイメージと、言葉による連想を使って、タペストリーを織ってゆく人のようですね。 西欧風に瀟洒に、静的で澄んだ世界の構築者だと思いました。 以上すべて、あてずっぽうで恣意的な個人的解釈です。お含みおきくださいますように。
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- Ganymede
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> このような詩を読むとき、皆様はどのような仕方で > 鑑賞されているでしょうか。 > もとより詩の読み方に「正解」は無いはずですから、 > 皆様それぞれの鑑賞方法を教えていただければと > 思います。 意味の分かりっこない現代詩を、私は「あさっての方を向いた表現」と見なすことにしています。ただし、「見当違いの表現」と貶しているわけではありません。日常的な言語感覚や常識を「今日」、逆説的表現を「明日」と呼ぶならば、さらにその先を行っているという意味です。 寺山修司の言葉 http://okwave.jp/qa3210303.html たとえば、寺山の詩句「血は立ったまま眠っている」は、常識に反するのはもちろん、しばらく考えたのちに「なるほど、そういうことか。うまいこと言うわい」と納得することも困難でしょう。おそらく、杉本徹の詩もそうではないでしょうか。誰かに講釈してもらってスッキリするような、やわなシロモノではないと思います。それゆえ、私はご質問の詩の講釈を試みません。というか、正直申して私には手に負えません。 しかし、ご質問者のおっしゃるように「語意や文法に則って」考えるのは、無駄なことではありません。それにより、「今日」が分かるからです。次に、その逆(だが一面の真理)の「明日」を考えましょう。さらに、その「今日」と「明日」を、「あさって」たるテキスト(「失くした眺望、……」)と対比させてみてください。 私たちが「理解」できるのは「今日」、「明日」までであり、「あさって」は理解できないのが当然だと思います。「あさって」は理解するものではなく、「相手にしないか、相手にしてほとほと困惑するか、二つに一つ」のものでしょう。現代詩でも現代美術でもそういうもので、不安と混乱に陥るのが嫌なら、相手にしなければいいのです。
お礼
確かに、文学を含む芸術というものは、常に他者との出会いでもあります。 そこには当然自分には「理解」のできないことも生じるわけで、Ganymede様のおっしゃる「あさって」があるのも当たり前なのでしょう。 これからも変に気負わず、地道に現代詩と付き合っていこうと思います。 回答ありがとうございました。
お礼
とてもご丁寧にありがとうございました。参考になります。 zephyrus様のように詩を読んでいけたら、世界が大きく広がるのではと思いました。 やはり一番大切なのは想像力、イメージする力でしょうか。