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旅順203高地の戦いで死体はどうしてました?
旅順203高地の戦いでは、機関銃に対して正面攻撃を繰り返したたため 死体の山が築かれました。 その数は半端ではなかったと思います。 この死体はどう処理していたのでしょうか? 日本軍は近づけませんから、ロシア軍が処理(埋葬)していたのでしょうか? よろしくお願いします。
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>旅順203高地の戦いでは、機関銃に対して正面攻撃を繰り返したたため 死体の山が築かれました。 日露軍ともに、多くの兵士の血が流れましたね。 突撃将軍として有名な乃木希輔の子息も、戦死しています。 ロシア側についた、大韓帝国高宗一族及び尊王攘夷派グループ。 王政廃止を目指して日本側についた、改革派(進歩党)グループ。 (改革派についた子孫は、未だに親日派として差別を受けています) 彼らも、多くが死傷しています。 >日本軍は近づけませんから、ロシア軍が処理(埋葬)していたのでしょうか? 交戦最中の1904年12月3日。一時休戦となっています。 この日は、日露軍双方が「遺体搬出・負傷者救出」を行なっています。 同時に、日露両兵士が野宴により交歓していますよ。 戦争といっても、互いに尊敬しあった戦いだったのです。 ポーツマスでも、双方代表が憎しみを超えて条約を結んでいます。 太平洋戦争時の軍部と異なり、紳士的だったのです。 戦後は、多くは凍った地面の下に遺体が埋まっていたようです。 ですから、掘り出せない遺体はそのまま・・・。 現地に「慰霊碑」を建てて供養したようですね。 残っていた多くの慰霊碑は、中国共産党政府の厳命で破棄(解体)となっています。 最近新たに地元政府が建立した「日本人満州移民碑」も、国策である反日に反するとして中国共産党政府の厳命で破棄(解体)処分となりました。 ロシア軍兵士の遺体も、同様です。 但し、1905年5月27・28日には日本政府の命令で「日本海沿岸自治体が、日本海及び沿岸に打ち上げられたロシア兵遺体の回収」作業・供養を行なっています。 明治期の軍部は、世界からも紳士的だと絶賛されたのです。 昭和の軍部とは、大きく異なりますね。
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- goo-par1732
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(1)長嶺秀雄著『戦場 学んだこと伝えたいこと』(並木書房)の、私の読書メモです。 http://www.namiki-shobo.co.jp/military/tachiyomi/m_yomu006.htm 旅順の攻防時、敵味方の死体を収容するため、両軍で協定を結び、一日戦闘をやめて、多数の死者を後送したこともあった。遺体はなるべく火葬にし、従軍の布教師を呼び、遺骨を積み重ねて追悼祭をした。人体は水分が多いので、太い薪を大量に燃やして一晩かかる。 なお、この続きに 「埋葬は、冬季の満州では、地下1m近く凍っているので、火葬より難しい」とあります。 著者は、レイテ作戦に参加した、第1師団歩兵第57連隊の第2大隊長で、終戦後は、防衛大学校講師、引き続き教授、そして退官されています。 したがって、日露戦争の従軍経験はないですが、この話は事実だと思います。 (2)日露戦争の従軍日記があります。 一兵士の日露戦争従軍日誌(同志社法學會) http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=BD00010728&elmid=Body&lfname=kj00000130341.pdf 明治38年12月2日 (前略)スノセ久吉、西岡幸二郎鶏冠山麓散兵壕ノ附近ニテ 彼我白紅旗ヲ樹テ死骸ノ収容ヲナス、流石ニ文明ノ戦争ナリ (28/65ページ) 12月3日 晴天 此日モ死骸ノ収容ヲナス (3)それから、何の本か新聞記事だったのか忘れてしまいましたが、同じ戦場での日本兵の話です。 死体を運ぶ途中、若いロシア兵にばったりと出会った。そのとき、その兵は胸で十字を切って見送ってくれた。こんなことがあったので、わが軍も、同じ状況ではロシア兵の死体に合掌することにした。
- kusirosi
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戦闘の直接邪魔になるには、ロシア兵が仮埋葬したでしょうが\(^^;)... 旅順攻略戦闘の最中も、正式の降伏受け入れ以前にクリスマス休戦や正月の休戦等、戦域司令官同士の合意によって双方の負傷者を収容したり遺体回収犠牲者を弔う為の時間を定めて休戦をどちらの陣営からともなく申し入れ、何度もあったと言う事は事実のようです。 大日本帝国側は「武士道」に基く精神から休戦を尊び、同様にロシア側も「騎士道」精神により休戦の趣旨を遵守したと言う事です。 休戦状況の様子として記録に残っている事柄で有名な逸話は、双方の兵士が互いに食料や医薬品更にお酒や食料を相互に融通し合ったり交換したりする事があったようです。 日本側の僧侶が埋葬の為の経を上げる際、ロシア側の犠牲者に対しても弔いを行なったり、ロシア正教のロシア側でも神父や司教クラスの人が帝国陸海軍側の犠牲者を悼み冥福を祈るシーンが見受けられたという事です。 十字架の墓標で眠る帝国軍人もいたでしょうし、日本的な弔いを受けたロシア軍人もいたと言う事です。
- PENPENMAKKY
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> 機関銃に対して正面攻撃を繰り返した どこの公刊史料の話でしょうか?まさか小説じゃないですよね 旅順要塞にあった機関銃は総数が40数挺です。それもマキシムという高さ150cmほどある持ち運び不可能な代物です。映画や某ドラマに出てきている機関銃は1910年型という小型改良された物です。 旅順における強襲攻撃は8月の1週間のみです。そもそも要塞への強襲攻撃はフランスで編み出された戦術の一つで大本営が決めた方針です。伊地知たち現場は坑道爆破戦術を提案していますし、10月以降はそちらにシフトしています。 戦死者は1万人ほど(4000名は8月の攻勢)で、5万人が負傷です。但し脚気で後送された人が戦死者になってますのでお気をつけあれ