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モリソン号で帰ろうとした漂流日本人は?
海嶺という映画を見て気になったのですが、 モリソン号で帰ろうとした漂流日本人は結局どうなったのでしょうか? マカオに戻り余生を過ごしたのでしょうか?それとも何らかの方法で日本に戻ったのでしょうか? ご存知の方、いらっしゃいましたらお教えください。
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原作の 三浦綾子先生の「海嶺」にも出てますが http://www.junglecity.com/feature/093/otokichi.htm ・「ハドソン・ベイ社は3人をロンドン経由でマカオに送ることにし、1日だけのロンドン観光を許可された音吉らはロンドンに初めて上陸した日本人となった。この時、ハドソン・ベイ社は音吉らにイギリスがいかにすばらしい国であるかを日本で宣伝させようと考えていたらしい。しかし、当時のイギリスは中国に向いており、日本との通商は考えていなかったため、ハドソン・ベイ社は自社負担で音吉たちを日本に返し、その見返りに通商関係を結ぼうと考えた。その後、マカオに到着した音吉らは宣教師ギュツラフのもとで1年間で世界初の日本語聖書を完成させ、1837年、マカオに届けられた薩摩の漂流民4人と一緒にイギリス船ローリー号で那覇へ、さらにモリソン号に乗り換えて日本へ向かう。このモリソン号はこれまで多数の宣教師をアジア各地に送るのに使われてきた船だった。しかし、当時の江戸幕府は外国船打払令をしいて、接近する外国船は問答無用で砲撃して追い払うようにと命じていたため、このモリソン号は三浦半島南方に接近したところで砲撃を受けてしまう。結局、ハドソン・ベイ社は音吉たちを日本に返すことも通商関係を結ぶこともできず、退散することになった。 翌年に米国を経て上海に渡った音吉はデント商会に就職。自分たちのように日本に帰れない漂流民を増やしてはいけないと、漂流民の帰国に尽力したと記録されている。また、1849年にイギリスの軍艦マリナー号で浦賀を訪れており、ジョン・マシュー・オトソンとして1854年にはイギリス極東艦隊の長崎での日英和親条約の交渉で通訳という大役も果たした。シンガポール人の女性と再婚し、1862年にシンガポールに移住して貿易業で成功を収めた音吉は、日本の開国後初めての遣欧使節団がシンガポールに寄港した際、団員の福沢諭吉らとも会っている。当時のシンガポールはヨーロッパ方面への交通手段だった船の寄港地だったため、このような出会いが可能になった。音吉は1867年に死亡するが、その息子、ジョン・ウィリアム・オトソンは「日本に帰りたがっていた父の願いを実現したい」と、神奈川県に帰化を申請し、1864年に日本国籍を取得。山本乙吉という日本名を名乗り、神戸市に移住して日本人女性の近藤りんと結婚、後に生まれた子供3人と共に台湾に移住し、1926年に死亡している。 14歳で漂流民となり、15歳で現在の米国の地を踏んだ音吉。その後の数奇な運命は多くの人々に影響を与えてきた。音吉の故郷の美浜町ではたくましく生きぬいた音吉を称えるため1992年からトライアスロンが開催されている他、その生涯はミュージカル 『にっぽん音吉物語』 となって1997年にシアトルでも上演されている。埋葬されたシンガポールで一時行方不明となっていた遺灰は無事発見され、2005年に美浜町にある良参寺に宝順丸の乗組員のために建てられた墓に埋葬され、漂流後173年ぶりに帰国が実現した。」 だそうです(^-^)/
お礼
回答ありがとうございます。 史実の映画で非常に興味覚えました。ありがとうございました。その後も良い人生を送り、功績を伝えようとする人がいたのですね。