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鳴呼 虚しからず
一切は空なりとも言えども行道は虚しからず 隠徳は楽し…… この場合隠徳とは、どのような行いがいいとおっしゃっているのでしょうか?
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- kurinal
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「「情け」は、(他)人のためならず」という言葉も、ありますよね。
- tumaritou1
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人間には『肯定する心=一切期待しない心』と何時も『否定する心=期待する心=計らい』とが同居しています。後者が大きく自分自身を占めた場合、その人の心の中には、その個性や素質によって様々な『病状や症例になって』或いはそこまでには至らない場合には、各種の葛藤や漠然とした不安として、様々な感情になって各自に襲い掛かってくると思います。 この意味は人間の脳内には二つの人格が存在している事を意味します。そうしてお互いが、お互いを『分り合えないでいる』事を意味します。 言葉を替えて言うなら、人間には自我意識という自分と自分自身の『実存』とも言うべき存在が一人の人間の心の中に存在しているという意味です。 分かり易い話で言うならメンタル面が弱いという場合です。メンタル面が弱い場合とは『期待と計らいで出来ている心=自我意識』が心を占めていて、おまけに身体の支配権も握っている場合です。 この意識が身体の機能を支配しようとする場合には、身体の機能は『自我意識』が思うようには働いていないという錯覚に陥ります。この場合に『心=自我意識』の思い違いによって本当に身体の機能が正常に働くなってしまうことも在ります。ですが検査をした場合には正常です。機能的には何処にも異常は在りません。『自律神経失調症や心身症』という場合です。 この意識が行動に影響を及ぼそうとする時(行動を自我意識が自由に出来ると錯覚する時)行動面が全てぎこちなくなってしまう場合が在ります。この場合を神経症における『各種の症状』が現れると云う事になります。手の震えから始まって身体全体が『自我意識の言う事が聞けなくなったという』感じに思える場合です。 感情面においても『自我意識』が感情の湧き上がる内容を『自分の好きに出来る、或いは自分の好きにしたい』と計らう自分の心が『心のウエートを占めた場合には』感情の湧き上がる内容自体が不自然な状態を醸し出す場合があります。 この場合を『心を病む』と普通は『自分で思っています』=『過度の内部観察によってです』 今書いた症状や症例には『完治』が在ります。それはその症状や症例を起こしている者をと仲直りする場合です。 簡単な原理です。『自我意識と実存』が折り合いを付ける場合です。心の矛盾を『神経質な性格や不安になりよい性格の人』が感じているからです。 実存とは『無意識の時の自分』です。或いは自分という『自我意識』が身体と心を支配していない時です。『一切は空なりとも言えども行道は虚しからず』という場合は『自我意識が関与していない時の事です』 実際の人間の行動は『意識している自分』が占めている割合は20パーセントを切っています。残りの80パーセント以上は『無意識の自分或いは半意識』の状態と言う報告が在ります。 意識と無意識は、心の奥底、もっとはっきりと具体的に書くならば『脳梁』を介して交流しています。そうしてお互いの機能が違う事を『本当は知っています』 実存とは、もっとはっきりと言うならば『命そのものの働き』という言い方が正解と思います。体の機能も心の働きも行動面においての自由さも『全て握っています』 意識が湧き上がる以前では『二つの意識』はどちらの意識の出番かを相談しながら毎日の生活が成り立っています。 メンタル面が強いと云う意味を書いたなら説明しやすくなります。優勝が掛かった一打を打つ場合やオリンピックなどのメダルが掛かった演技をする場合です。上がり症の人の心に掛かる圧迫と同じですが、『国民の期待や、優勝したいと言う計らいの心も在りますが』そういう計らう心を『無』として、或いは無いものとして『自我意識が出ないように出来た場合』に優勝が或いはメダルが近く成ると思います。 普段どおりの行動が出来た場合です。その行動とは『無意識の自分に任せた場合』です。無意識の自分は『期待や計らいが無い存在です。』従って『この場合隠徳とは』という答えは『思わずに出来た場合』です。 普段の生活、或いは日常の生活での行動面で言うならば、『一念』で生きた場合です。思わずに行動する場合です。心の湧きあがり方は誰でも共通している面が在ります。一念が湧きあがってその後に二念が湧きあがります。 『一念は肯定する心です。』『二念は否定する心=期待する心や計らいが混じった心』です。この心を言い表した言葉はたくさん残されています。 孔子の言葉なら『七十にして心の欲する所に従って、 矩を踰えず。』この意味は七十になると思うままにふるまって、 それで道をはずれないようになった。 道元の言葉なら、仏道を習うは自分を習う事。自分を習う事は自分を忘れる事(自我意識が出ない事)、、、と云う事です。 二つの意識が折り合いをつけて、自我意識が『自分自身の実存=命そのものの働き』の下になって働く場合に孔子や道元の言葉の元になっています。 もっとはっきりと言い表すならば『神と和解して、神の僕となって』生きる事が、『隠徳とは、どのような行いがいいとおっしゃっているのでしょうか』と云う事の答えになります。 従って自分の行動の優先順位が『自分自身を他の下』で働く時です。自分を主張しない事で帰って自分が持ち上げられてしまって働く事です。 現実的な事を言うならば、人が嫌がる仕事に黙々と精を出しているにも拘らず、人が羨むような役柄が回ってくる事になります。人の羨むような仕事は本当は辞退したい気持ちの方が強くとも、受けざるを得なくなってしまう場合です。 全ての計らいを捨てて生きた場合、世の中が自分自身の働く場を作ってくれると思います。全てを捨てて生きた場合全てが手に入ると言う意味になります。 先ほどの症状や症候群、大きな意味での人生における障害の完治は、求めなくなった時が完治です。求めなくなった時という意味は『自我意識には出来なかった事を認める事を意味します』 自我意識には機能的にそういう機能が備わっていなかった事を認める事です。それが『大死一番』です。その時に自分自身の命そのものの働きが前面に出てきて、全て解決してくれます。 それが悟りです、心身脱落です、自然法爾です。そのままで全てが整っていたと自覚する時です。何も足すものも引くものも無いこのままが、在るがままです。
#1です. 各国のスパイが潜入して,企業や国家の情報を漏洩している今の世の中,“普通の『陰徳』”とは,かなり“ハイレベルなスキル”でしょう. “自分が人の役に立つことをしている”という自覚が全く無く『陰徳』を積んでいらっしゃるお方は,スパイや忍者に唯一対抗出来得る存在です. 企業や国家は,率先して,抗スパイ&抗忍者・スキルをお持ちの方を積極的に採用すべきでしょう.しかし,自覚が無い故に,他薦しか出来ないことが悔しいところです. 違いますw 『見返りを求めず,無為のままで,例え人に見付かっても消えない程の徳』だろうと思います. 『人に見付かったら消える徳』なんて,それこそ不作為に等しいです. 『陰徳』が,もし,“人に見付かったら消える徳”と定義付けられているのでしたら,人に見付かった時点で,消えるのではなく,また,新たに『陰徳』を積めばいいのだと思います. ただし,『陰徳』が発覚してすぐに,次の『陰徳』の行為中に見付かったら,私だったら,『陰徳や~めた!』となりますw やはり,私は,『陰徳』を積む者から程遠いようです....(;_;) sarasuva さんの補足の文章に惹かれて,ついつい,またもや,謎のような文章を書いてしまいました....折角,神聖なご質問をされていらっしゃるのに...本当にごめんなさい.
『人に知られないように隠れて陰徳を積む』 ⇒『こっそりと,人の役に立つ良い行いをする』 以下,私なりの私見を述べます. 『陰徳』とは,そのままの意味で解すれば 『人に見付かったら無くなるような徳』を意味してしまいます. では,人に見付かったらいけないのかという問題があります. だったら,最初からしなければいいことですよね. ∴『隠徳』とは, 『自然体,即ち,無為のままで,他者にとって役に立つ行為』 であるのではないかと,私は考えます. 如何でしょうか. ---------------------------------------------------- かくいう私は,OKwareに登録してからというもの,『ひたすら一生懸命回答したのに,かなり時間が経過しているのに誰もお礼すら言われていない状況の質問の放置はあんまりだ!!』と心底思い,血涙を流しそうな程憂い悲しんでいるので,『陰徳』という言葉とは,かなり遠い存在です.
補足
回答ありがとうございます。 >人に見付かったら無くなるような徳 とお答えくださいましたが、例えばスパイが出来きて、しかも見つかりにくい忍術のような、秘密がたくさんある人のことを言うのでしょうか?失敗は許されず必ず成功して役に立つ、実力があるということですよね? だとしたら隠徳は相当レベルが高いということに繋がるのでしょうか?
補足
ご丁寧にありがとうございます。 五智如来願文にての一部を拾った文章です。 とても高貴な重い文面に解読されています。 願いの叶う時天地に感謝し、叶わざるによって来世を知る。 以下省略) 重い雨に打たれているような文面に感じました。