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フランクフルト国民議会について(世界史)

フランクフルト国民議会(1848)は三月革命で起こったことですよね 後欽定憲法(1850)の発布も三月革命で起こったことと考えてよろしいですか? 2月革命と書いてるものや3月革命と書いているものがあって混乱しています

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  • takeko85
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回答No.1

1848年革命 1848年2月フランスで起こったのが二月革命 1848年3月の余波でオーストリアでウィーン三月革命、プロイセンでベルリン三月革命が起こった。 2月にフランスで勃発した2月革命は、翌月以降にはヨーロッパ各地に伝播し3月革命となった。1848年の春に起こったこの2つの革命を総称して「諸国民の春」(Printemps des peuples, Völkerfrühling, Primavera dei popoli)という。 1848年、フランスで起こった二月革命は第二共和政を導き、まもなく革命の潮流が全ヨーロッパにまで拡大した(1848年革命)。翌3月にはオーストリアでウィーン三月革命、プロイセンでベルリン三月革命が起こり、かつてウィーン体制を支えたメッテルニヒが亡命に追い込まれ(ウィーン体制崩壊を象徴する出来事である)、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は自由主義憲法の制定を約束させられるなど、各地で自由主義とナショナリズムが高まった。 >欽定憲法(1850)の発布も三月革命で起こったことと考えてよろしいですか? プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は自由主義憲法の制定を約束させられるたので制定しましたが、フランクフルト国民議会でプロイセン国王に帝位を捧げようとしたが、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は自由主義による下からの統一を嫌って戴冠を拒否した結果の欽定憲法制定ですので本当の自由主義憲法とはいえないでしょう。 フランクフルト国民議会 フランクフルト国民議会(フランクフルトこくみんぎかい、独:Frankfurter Nationalversammlung)は、1848年から1849年にかけてフランクフルト・アム・マインで開催された議会。憲法制定を通じた自由主義的なドイツ統一を図り、その統一方式などを討議したが、最終的にはオーストリア、プロイセンといった有力君主国の支持を得られず頓挫した。結局この後、国民議会は反革命勢力の弾圧によって解散させられてしまった。正式名称は「憲法制定ドイツ国民議会」。  1830年に即位したフリードリヒ・ヴィルヘルム4世は王権神授説を信奉する保守主義者だったが平和を愛し、自由主義者とは宥和的な態度をとった。王は3月前期(フォーアメルツ Vormärz)に続く1848年のベルリン3月革命では、市民軍と国王軍の衝突を避けるため軍をベルリンから退去させたのである。  しかし革命は右派と左派の対立によって自壊した。  1849年、自由主義的ドイツ愛国者たちはフランクフルト国民議会に集い、プロイセン国王に帝位を捧げようとしたが、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は自由主義による下からの統一を嫌って戴冠を拒否した。  1850年、国王は上からの恩恵として欽定憲法を発布する。この憲法によって制限選挙に基づく議会が設立され、国民には臣民としての人権が保障された。

kirofi
質問者

お礼

回答「ありがとうございます

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