今晩は。ご無沙汰しています。
例えばスーパーや果物店の店先に並べられている様々な果物を見ると、時として「あと何日くらいしたら食べ頃です」との札を目にすることがあります。収穫時には熟しているとはいえ「美味しく食べるにはあとどれ位の時間が必要か」との目安でしょう。もちろんそのままでも美味しいことには変わりありませんが、それでも「より美味しく」との意識が反映されているとも理解できます。果物ならば、未熟・成熟・完熟・爛熟など幾つかの段階もあって、バナナも国内に輸入された時にはまだ青くそのままでは食用にはなりません。倉庫内でガスによって燻蒸されてから出荷され店頭に並びます。
「より良いものを求める」ことが進歩を示す一つの素因ならば、進歩を求め続けることは喜劇であると同時に悲劇でもあり脇目も振らずハツカネズミの様にゲージを回し続ける姿にも似ています。「ハーメルンの笛吹き男」は鼠を水辺に導くことで駆除したが村人は約束の報酬を払わず、すると男は再び笛の音で今度は村中の子供を洞窟へと導き、その後は子供共々姿を見せなくなった、との物語ですが、そこに秘められた比喩を考えた時、進歩の代名詞でもある「便利さ」や「豊かさ」が果たして本当に人類にとっての未来を支える指標となりうるのかとも考えたりします。
日本を考えても歴史の中では律令の受容やら南蛮文化そして幕末維新にみられる西洋文化の受容そして戦後のアメリカ化と何度かのカルチャーショックを経験していますが、この流れもある意味でハツカネズミの悲劇に似ているとも感じられてきました。「本当は何を求めて放浪しているのか」「何処へ行こうとしているのか」と問われた時、今の僕には思い当たる言葉が見あたりません。それでも一方では「もしかしたらもっと良いモノがあるかもしれない」とのとりとめのない期待を持っていたりもします。儒教に「修身斉家治国平天下」との言葉があります。この言葉を個人的には「律身斉個」とも解釈しています。自らを律し個人として隔てのない接し方のできる社会、そんなものは夢想家の戯れ言かもしれません。けれど相手の言い分に最後まで耳を傾ける、そしてベストではないけれどよりベターなスタイルを見つけることができれば、とも考えてしまいます。福沢諭吉ではありませんが和魂洋才と温故知新、こうした点を思い出せれば、ゆっくりではあるものの日本人はまだまだ歩みを留めることはないとも思われます。もう少し落ち着いたら、またお話しさせていただいてもよろしいでしょうか?。
お礼
こんばんは。 脳足りんのために体力消耗させてすみません。 こちらは喋る相手もいない長時間重労働の憂さ晴らしをしているだけなので、なにより御自身のお身体の大事をとってくださいね。 御回答に感謝します。ありがとう。 さて ハツカネズミの喩えですが、生物学では「赤の女王仮説」なるものがあったかと思います。鏡の国のアリスに登場する赤の女王のセリフ「止まり続けるためには走り続けなければならないのよ」に着想を得たものらしく、生物界に常に働く淘汰の力を表現したものです。 他の生物たちは、糧を得、あるいは天敵から逃れるために常に走り続けていなければなりません。そうした厳しい自然環境の中で生き残るために、私たちは社会を作り、文明を立ち上げてきました。 文明の庇護の下、人間はかつてよりのんびり暮らせるはずでした。けれども今度は、その文明が、人間を淘汰するようになってしまったのです。人類が作り上げた虚構の中で、人類自身が走り続けなければならなくなってしまったのです。 書いていて 今思いつきました。 こんな悲劇の中で、私たち人間がすがらざるをえない幻想が、「走り続ける先」つまり「人類の進歩」なのかもしれません。 まとまりませんが。