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日本人は外面を重視しますが、なぜ?
社会学や人類学、文化論でもいいのですが、 そういったジャンルで「日本人は外面を非常に重視する」(人に見られて いると普段と違う行動をする、人にどう思われているか非常に気にする) ということをよく読むのですが、なぜかという説明が、いろいろな本を 読んでも十分に為されていないように思えます。 なぜ日本人は外面を非常に重視するのでしょうか? 特定の学説でも文献でも良いので教えていただけると嬉しいです。
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補足について。 ここでの回答は十分な準備(理論武装)をした上で行っているのではありませんからあまり突っ込まれると困りますが・・・ 旅の恥は掻き捨てという日本的な、普段の生活態度と矛盾した表現があります。 この言葉は日本人がいかに普段お互いの目を気にしながら暮らしているかを物語っています。体面を保つとは社会の監視の目に答える生き方ではないでしょうか。 昔の日本人は身分制度と家の制度の中で、庄屋に代表される市民の管理組織の中で連帯責任をもって暮らしていました。村にしても長屋にしても一種の団体生活です。構成員は個人主義で勝手に暮らすことは許されなかったのです。どんぐりの背比べはこのような同じ団体内のことです。どんぐりはどんぐり以外にはなれず、団体の名誉、責任のためにはどんぐり以下でもいけないわけです。どんぐりとしての責任、体面(所属する団体のそれでもある)を守ってこそ一人前であり、皆同じようなどんぐりだから適当でよいという理屈は成り立たないでしょう。 このような村社会人間の日本人は宗教心は薄くても悪い事はしない(出来ない)モラルの高い市民だと見なされます。これは16世紀に日本に滞在したカトリック神父が本国へ送った報告書にも述べられています。しかし、村社会人間は世界の中では田舎者となります。同じことが現代の国内でも起こり、東京や大阪には田舎者と呼ばれる地方出身者が生まれるのだと思います。(都会人は目くそ鼻くそに気がつかない幸せな人びとではないでしょうか)
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- mamuku-
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アメリカの文化人類学者のルース・ベネディクトによる『菊と刀』をお勧めします。欧米人との比較がしてあり、かなり質問者の方の答えを得ることが出来ると思います。以下のページを見つけたので、概説を読んでください。
お礼
ありがとうございます。 『菊と刀』は名著を超えて古典となっていますよね。 私も一度読んだのですが内容は忘れてしまっています(笑) もう一度読んでみます。
>日本人はなにかヘマをすると笑ってごまかしますよね。一方 アメリカ人はヘマをしても笑わないと聞いたことがあるのですが、 あれはなぜなんでしょう? 話を分かりやすくするために敢えて農耕民族と狩猟民族に単純化して考えて見ます。 農耕民族は定住してボスのもとで農作物を育てます。農作業には季節があるため、共同作業が生まれ、個より集団の利益が優先されます。特に水稲が栽培されるようになると、水の分配が死活問題になります。ますます勝手なことは許されない村社会が形成されて行きます。このような社会ではもたれあい、甘えの精神が発達すると思います。善意でやったこと、ちょんぼ等は許されます。酒の上の冗談や行動が許されるあの優しい社会(習慣)が生まれます。 ヘマをして笑うのはそのような社会で、誤まれば許してもらえることになれてしまい、ヘマをしたときには誤まりもせず笑って皆の許しを求めているのだと思います。狼はボスの意向に反した行いをしたと自覚した時は(或いは見つかった時は)尻尾を股にはさみ頭を下げてボスに近づき許しを請います。人間の場合はボスだけでなくその社会の構成員(仲間)に笑いで許しを請うているのでしょう。 一方、狩猟民族の場合は、例えグループで狩りをしても各自が持ち場(役割)をもって狩りをするので、一人の失敗はグループの失敗となり、厳しい追及、批判、場合によっては追放を意味するので、とてもへらへら笑ってごまかすことは出来ないでしょう。 海外の友人に日本人は意味もなく笑う(薄ら笑い)が何故だと聞かれたことがあります。どんなときでも理由があれば笑っていいわけですが、チョンボの笑いは誤解を招きますね。
お礼
ありがとうございます。 「集団の利益>個人の利益」であれば「許しを請う=笑う」になる とお考えなのですね。これも面白い角度ですね。 >海外の友人に日本人は意味もなく笑う(薄ら笑い)が何故だ これは日本人においては笑いが雰囲気を和らげる効果があるからでは ないでしょうか。逆に海外ではそういう効果は無いんでしょうね。 何度もありがとうございました。
近代自我が無い、と言う事ですか?河合隼雄氏(心理学)がよく書いてることですね。欧米人は”神に見られてる”と思って倫理的に生きてきたが、20世紀からは神を凌駕するほどの技術力を持ったので、その存在を感じないほどになり、科学で割り切れる自明の理のなかで、意識的に生きてゆけるようになった。これが近代自我。河合さんはこういった文化を「父性原理」と名づけました。しかし日本人は”神に見られてる”倫理観など持ってなくて”お隣さん”のほうがコワイ。特定の”神”じゃなく不特定の”みなみなさま”がその数だけコワイ。数がたくさんだから少なくとも一神教とは違い、多神教とつながりやすそう。そういえば私、神道の葬式に出た事がありまして、これにきていた神主が話のうまい面白い方でした。彼いわく、仏教は死んで地獄行くか極楽行くかわからんから不安だけれど、神道は死ねばみんな神様になれるからいい教えだよ。じゃあ死んだ分だけ神さんおられる、なんと恐ろしい事よ、生きてる神様候補の”みなみなさま”の他にもまだ死んだ”みなみなさま”がいるって、そりゃ、外面人間増えますよね。河合さんの言う「母性原理」とは一体感を重視する倫理観のことを言うみたいですが、”みなみなさま”がいるんじゃ一体的になってる方が、つまり、つるんでる方がいつも安心ということですね。そこからこぼれる事の恐ろしさなら、いつも我々経験してますから、いまさら言う事はありませんでしょう。
お礼
ありがとうございます。 河合隼雄の本は読んだことが無いので何とも言えないのですが、 「つるんでいる方がいつも安心」=「こぼれるのが怖い」というのは よくわかります。 101101さんのレスで浮かんだ疑問なのですが、 日本人はなにかヘマをすると笑ってごまかしますよね。一方 アメリカ人はヘマをしても笑わないと聞いたことがあるのですが、 あれはなぜなんでしょう? 規約違反でなければ101101さん以外の方にもコメントを頂けると嬉しいです。
欧米のように“神様から見た自分”を気にする発想が無い代わりに、“世間から見た自分”を気にするようになった、という話を聞いたことがあります。 何が正義か、とか、何がタテマエか、とかいったことが予めしっかりしていないと行動しにくい、というのは、何となく分かる気がします。 人間は本質的に臆病な生き物だと思うから。
お礼
ありがとうございます。 欧米の宗教心はいまいち理解できませんよね。 いつか詳しく聞いてみたいところです。
- cse_ri2
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No.4の補足です。 私の下手な説明だと十分に説明できないので、 『菜の花の沖』(著者:司馬遼太郎/文春文庫) の第一巻を買って読んでみることをオススメします。
- cse_ri2
- ベストアンサー率25% (830/3286)
司馬サンの代表作の一つである『菜の花の沖』を読んだ時 に気づいたのですが、農耕文化の影響も大きいように思い ます。 農民は、種まきや収穫の時は忙しいですが、それ以外の時期 は時間的な余裕があります。 その余裕のある時に何をしていたかというと、人付き合いに エネルギー(手間と時間)を割いていました。それで礼儀 作法にやたらうるさくなってしまったわけです。 確かに、私も生まれは農村でしたが、近所付き合い・親戚 付き合いにやたら手間がかかりました(笑)。 反面、漁村の場合は、礼儀よりも能力が重視される傾向が あったようです。これも個人的な体験ですが、農村地域と 漁村地域を比較すると、漁村地域は言葉使いも荒っぽいと いった風潮はあったような気がします。
お礼
ありがとうございます。 うーん。農村と漁村ではまた違う人間関係があるようですね。 #5の参考文献も読んでみます。
日本人は小さな島国で昔から農耕民として定住していました。つまり外の(他の)世界をほとんど知らない環境で、生産性の低い仕事(収入の低い)に従事しながらも集団として助け合いながら暮らしてきたわけです。どんぐりの背比べの世界では、どんぐり以下にならないよう常に体面、外面に気をつけ、足をすくわれないよう、しかもねたまれない程度に暮らす知恵が発達したのでしょう。恥じの文化はその集大成です。 しかし、体面を気にするのは日本人だけではありません。似たような環境にある民族は大なり小なり似た習慣を持っています。ブラジルのカーニバルに貧しい人々が大金を使うのもその現れでしょう。アルゼンチンの地方に住んでいたガウチョ(混血の牧童)は稼いだ金は馬具と自分の装飾品に使っていました。スペインのジプシー(ロマともいう)も貧しくとも服装に気を使います。アルゼンチンで実際に見た事ですがサービス業に携わる人や肉体労働者でも通勤時はホワイト・カラーと同じ服装をします。これらの体面に気を使う人びとの共通項は貧しいということと住む家はみすぼらしいという事です。日本でも住環境が良くなったのはここ20年以内ではないでしょうか。 社会が豊かになり居住地が広がれば(人口移動が激しくなれば)このような習慣もすこしづづ変ってくるでしょう。体面に気を使うことと地域住民、社会人として最低のルールを守る付き合いは別物ですよ。日本では人様のことに口を挟むなという習慣がありますが、アメリカなどでは市民としてルールを守っているか監視の目が光っているので、日本人は窮屈に思うこともあるようです。
お礼
予想以上に詳しい説明…ありがとうございます。博識ですね。 生産性の低い仕事を集団で行う ↓ どんぐりの背比べの世界 ↓(1) どんぐり以下にならないよう常に体面、外面に気をつける (1)の部分の説明を詳しくお願いできますか? どんぐりの背比べの世界であれば、 差はないことがわかっているのだから外面に気をつける ことはないのでは、という細かい疑問が浮かびました。
- tatahina
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わたしも#1さんの意見と同じだと思います。 いわゆる「目に見えるもの」には恥じらいを感じる。例えば、みすぼらしい服装は格好悪い・ボロい(古い)クルマに乗っていたら格好悪いなどかな。 見られて非難されるのが怖いから? 「目に見えないもの」には恥じらいを感じにくい人種かな? 例えば、マナー違反をしても誰にも見られていなければ別によいとか。 バレなければ何をしても構わないんだかな?
お礼
ありがとうございます。 なぜ格好悪いのが嫌なのか、不思議ですね。
- 100Gold
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一般的な根拠としては「恥」の文化だからということになるのではないでしょうか。 恥を書きたくないから外面を重視するのです。
お礼
ありがとうございます。 罪の文化と恥の文化とはよく言われますね。
お礼
再度ありがとうございます。 >体面を保つとは社会の監視の目に答える生き方 これはズバリですね。納得してしまいました。 相互管理と連帯責任が同質性と外面重視の行動を生み出している ということですね。 村社会は部族社会とよく言われるように思えますが、 日本人もまだまだそういう意味で近代化していない田舎者なんでしょうね。