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キリスト教的思想が広がれば平和な世界を築ける?
ローマ帝国を舞台にした小説を読みましたが、登場するキリスト教徒の生き方が非常に美しい、印象深いと思いつつも、 この生き方、考え方は自分にはまだ分からない、と思わざるを得ません。 暴君が刺客を差し向けて自分の命を狙うとき、面白半分で大切な人の命を奪うとき、猛獣に自分を食わせようとするとき、無抵抗で天上の神に祈りをささげながら、自分を陥れた人間を許しながら死んでいく人生にどういう価値があるのでしょうか? 仮に天上の世界があり、そこで神の説く真理が素晴らしいとしたら、それを積極的に広め、妨害する勢力には抵抗する「力」が必要なのではないでしょうか? その「力」を否定しているように見えるところがどうしても納得できません。いや、心のどこかで素晴らしい態度ではないか、と感じつつも、現実的ではないと思うのです。 今の世の中で積極的にキリスト教を広めようとしても、おそらく多くの人はこの教えどおりに行動できないのではないでしょうか?だからキリスト後の歴史でも争いが絶えないのでしょうが… 仮に今有能な政治家が目の前にいて、多くの政敵を乗り越えて、何千万もの人を救う政策を実現できる能力が彼にはあるとした時、その人にキリスト教を説いて、その人が闘う意志をなくしてしまったら、社会にとって大きな損失ではないでしょうか? そういう、この世に現実的に存在している「力」とバランスしていない、キリスト教に関心はありつつも、そこがどうしても疑問なのです。それでも信者の方にとってはこの教えでいずれは地上全体が良くなると、言えるのでしょうか?
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- 徳島 太郎(@oyajitokushima)
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ダメです。アラブとキリスト教世界とでは油と水です。互いに他を異教徒と見なし排除しようとします。 争いの元です。 宗教から世界の平和は生まれません。争いが増すばかりです。
- agripapa
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;働かなくても金をくれという自己中な意識が正当化される論理をキリスト教は内包しており、 ;弱者を救済するという、その宗教が主張したそのものの意義に反してしまうという内部矛盾をはらんでいる これは例えばアフリカ大陸の弱者救済という人道支援で現地人を食糧が配給されるのを、ただ待っているだけの状態にさせたままにしているような海外援助の理念として現れます ・
- agripapa
- ベストアンサー率0% (0/46)
冷戦は 資本主義社会と共産主義社会という対立軸で見ていく方がその構図がよく見えるのではないでしょうか 資本主義社会系は宗教があって共産主義社会系は唯物論だから宗教がないと解釈させるのは誤謬でしょう 資本主義が野生の生存競争を強調した社会体制だとすると 共産主義は資本主義によって生じる格差を修正する修正主義社会体制論と表現できます 資本主義が自由競争で自分が得た金、物は自分のものという考え方に対し、共産主義は競争に強いものが益々強くなってしまう資本主義の弊害を所謂唯物論によって修正しようとしたものといえます 言い方を変えればキリスト教が慈善、人道という言葉で弱者を救済していきましょうというのに対して、そんな気持に訴えるだけのような生ぬるいことで社会に生じている生きるか死ぬか状態にまでなってる切実な格差なんか決して修正されないということから、共産主義は強制的に格差を平坦化させようとする社会修正論ということができます そういう意味で唯物論は無神論などではなく、虐げられた弱者を救済しようとしたキリストの精神を強制的に社会に具現化しようとした論理体系で、だからそれを社会に投影しようとするとキリスト教の内包している自己矛盾が共産主義の持つ弊害と同じものとして現れます つまり突き詰めると働かなくても金をくれという自己中な意識が正当化される論理をキリスト教は内包しており、弱者を救済するという、その宗教が主張したそのものの意義に反してしまうという内部矛盾をはらんでいる 資本主義にも共産主義にも欠点があり、それぞれの社会形態にはその論理体系の欠点に由来する弊害が表れます 国際的な経済競争の中で共産主義が資本主義に敗北したというのは歴史的な事実ですが、それは資本主義が社会を構成するための正しい理論だからということではなく、ただ競争に強かったということに過ぎない キリスト教と抱き合わせた資本主義社会のアメリカという国家が日本国民が目指すべきような住みよい国家を構成できているかと言えば決してはそうとは言えないでしょう アメリカ寄りの行き過ぎた競争社会が日本社会のよいところを壊していったと言われるように、資本主義を突きつめていった社会が住みよい社会を構成できるわけでもない しかし、今も資本主義が世界を席巻している以上、あえて敗北した共産主義経済社会形態への移行を今、日本が選択するのは決して良策とはいえない 今ある社会を受け入れた上で、そこから今日本が抱える様々な問題を総合的に解決させうる可能性のある具体的なものへの移行を、思考の連続性を保ちながら、今ある社会から整合性を持たせて、そこに至るまでの道筋を描くということをしなくてはならないということになります ・
- tribusonz
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実勢的な答えは回答者の皆さんも鋭いところを突いておられますが 宗教が説くところの教えは精神論(心をこう保てばいいよ的なもの)であり、信じて持戒する人が実勢的に有能であれば、能力が有無を左右するわけでして、信者の膨大さは、思想の万全とは比例する事がないです。 つまり力とそのバランスを想うのであれば、その精神面とは何か、自分がその力とバランスの界隈を悟れば、その哲学に如かずというのも多岐にあります。
- 来生 自然(@k_jinen)
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「悪」という概念を切り離そうとする以上、キリスト教に限らず、宗教は「外部」を作り、攻撃するものになります。ようするに「境界」を設定しているのです。 受け入れるのは(あらかじめ宗教内部に受け入れることのできる)「敵」であって、「悪」ではない。 すでに、質問内容の前提条件でも >>> 仮に天上の世界があり、そこで神の説く真理が素晴らしいとしたら、それを積極的に広め、妨害する勢力には抵抗する「力」が必要なのではないでしょうか? (中略) 今の世の中で積極的にキリスト教を広めようとしても、おそらく多くの人はこの教えどおりに行動できないのではないでしょうか?だからキリスト後の歴史でも争いが絶えないのでしょうが… <<< といった、「外部・悪」の概念が含まれています。 人が宗教を受け入れようとするとき、多くは、なにがしかの「外部・内部からの心への侵害」が生じているときでしょうし、その「外部・内部」を何とかしたいわけです。 切り離し可能な「外部」と思い込んだなら、「悪」として排除可能だと誤認するため、たとえば、中世での「魔女狩り」といった行為が発生しうるでしょう。 切り離し不可能な「内部」と思い込んだ場合には、(幻想的にでも)「消滅」させるか、「同化」させるまで、なんらかの手だてを講じようとするでしょう。 いずれにしても、宗教という概念には、それぞれの立場での「境界概念」が重要な位置を占めるように思います。
- michael-m
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某海外TV番組によれば、キリスト教はユダヤ教やイスラム教との覇権争いの為に、それまで自分の心だけに存在した悪魔と言う存在を異教徒に広めたとの事です。実際ヨーロッパ諸国の信仰対象であった黒猫、ヤギの頭や魔女などが悪魔の象徴になっています。 また中世にはキリスト教布教と植民地開拓が一蓮托生で行なわれ、多くの地域の文明が消滅しています。 現在でも名目は色々つけていますが、米国が攻撃する相手は多くがイスラム教国であり、イスラム殲滅である事は公然の秘密でもあります。 つまりキリスト教が自己犠牲てき思考の持ち主かと言えば、そんな事は絵空事だと考えた方がいいでしょうね。 それは仏教でも同じ。仏教ではもっと具体的に、釈迦が前世で空腹のトラに我が身を餌として与える善行を行なった「捨身飼虎」と言う話があります。でも一方で一向宗など兵僧を整えて敵に備えたと言う行動もあります。 それでもキリスト教に統一されれば平和になるか・・それは甚だ疑問です。 私達は十羽一絡げに「キリスト教」と呼びますが、カトリックやプロテスタント以外にも幾つものキリスト教が存在し、アメリカでは一牧師、一宗派といわれるほど多くの宗派があります。そしてアメリカ大統領になる為にはその中でも原理主義者の存在を無視する事は出来ません。 事実オバマ大統領はイスラムに対する攻撃の手を緩めた事が、人気急落の大きな原因の一つでもあるのです。宗教を知らない日本では殆ど流れませんが、どの宗派の支持を得たか、浮動層がその宗派に属しているかによってアメリカの政策の方向性が判ると言う研究者まで居ます。 現在では単に各州レベルでしか棲み分けされていないこれらの宗派が世界レベルで対立を始めれば、イスラム内部の覇権争いと同じようになる事は十分に考えられます。 では無宗教なら平和になるか・・・そんな事を言っている人は冷戦を知らないんでしょうね。 要するに、どんな状況でも、人は何かの理由で対立し続けるのが本性だと言う事です。 ちなみにわたしはカトリックです。
- agripapa
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本の力っていうのはあっても 新約聖書にそんな力宿ってないでしょ どちらかっていうと狭い範囲に適用される キリスト教社会は生命の樹と共にある、そのおおもとの神を見失っているように見えるけれども 今の祈りにしても何に祈ってるつもりになってるんだか分かったもんじゃない。。 大きな器的に見ればキリスト教原理主義的にそれが起っているように見せかけていはるが制御不能に陥る ような。。。 ここまでが新約の役目 のような。。 終わりと始まりは似たようなカオス状態になってる それがωでありα 終わりであり 始まり キリスト教社会は旧約聖書が機能し始め時を遡上する ような。。 時の岐路 ・
- cincinnati
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プロテスタントのクリスチャンです。 >キリスト教的思想が広がれば平和な世界を築ける? ご質問をお読みしまして、実は難しいと率直に思いました。多くの物語が語られてきました、その物語の背景にはおそらく立派な思想や宗教があったのだと思うのですが、その本質が実践されることは多くはなかったのではないかと思えるからです。 仏教やイスラム教のことはわかりませんが、キリスト教に関して言えば、聖書は「その友のために命を捨てるほどの愛はない」と述べておりますが、そのような聖書を読んできたであろう多くの人々や国が他国に攻め行ったり、人身売買などを繰り返してきましたので、キリス教「思想」が広まった程度ではないよりはまし程度の結果しか残せなかったのではないかと思わされている次第です。 つまり人々がまたその集合体である国家がたまたまキリスト教の考え方を学んだからといって、結果としてあまり、その行動に変わりがないのは、キリスト教を実は理解もせず、私はキリスト教徒ですと公言する人や国家によってキリスト教及びキリストが貶められて来たということではないかと思うのです。キリスト者の仮面を付けた犯罪者および犯罪国家というのが過去のキリスト教国にはあったのではないでしょうか。 真のキリスト者というのはどうゆう人たちだろうかと考えますが、昔洞爺丸という船が遭難して多くの方がなくなりました。そのときに2名の宣教師が自分の救命胴衣を差し出してその人を助けたという実際の出来事が有りました。これは実際救命胴衣を受け取った方が後に現れてその事実が確認されておりますし、なくなった2名の宣教師はたしかに死体で発見されたのですが、救命胴衣を付けておりませんでした。もしこのような方が構成する国家では他の国に攻め込んだり、土地を奪ったりするような計画を立てるでしょうか。立てないとおもいます。 また塩狩峠という小説では長野さんという方のお話が載っておりますが、これは実話に基づいてお話しで、塩狩峠に差しかかったブレーキの壊れた客車の前に飛び込んで多くの乗客を助けたキリスト者のお話です。http://www.zusi.net/meisaku/siokari/miura.htmから抜粋して下に掲載しました。 塩狩峠(北海道和寒町)は天塩と石狩の国境にある険しく大きな峠である。明治四十二年二月二十八日の夜、急坂を登りつめた列車の最後尾の連結器が外れ、客車が後退をはじめた。偶然、乗り合わせていた鉄道職員・長野政雄がとっさの判断で、線路に身を投げ出し自分の体で客車をとめた。長野は殉職、乗客は救われた。 キリスト教の本質はどこにあるかは明らかです。聖書に人は生まれ変わらなければならないと書かれています。生まれ変わっていないものはクリスチャンではございません。洗礼を受けたり、教会に毎週日曜日何十年と通い続けようがそのことがクリスチャンであるという証明ではございません。 もし世界の人々が真のクリスチャンになるならば、たしかに世界に平和が来ると思います。現況をみますと、偽のクリスチャンが私はキリスト者であると公言して、犯罪を行なってきたということだと思わざるをえません。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
キリスト教に限らず、大概の宗教はその通りに 実践していれば、みな平和になると思います。 しかし、キリスト教ほど教えと実践が乖離している 宗教も珍しい。 キリスト教は殺戮の歴史です。 アフリカに侵略して土地を略奪し、4000万人を 奴隷として輸出して、現在の飢餓大陸アフリカを創 ったのはキリスト教の人間です。 中東のごたごたもしかりですね。 インデアンを900万虐殺し、土地を奪った のも、原爆を落としたのもそうです。 その結果、世界の富の過半を占有しました。 今でも戦争の多くはキリスト教文化圏の ひとが起こしています。 いくら教えが素晴らしくても、現実に実践できない ような宗教は悪い宗教ではないでしょうか。
>今の世の中で積極的にキリスト教を広めようとしても、おそらく多くの人はこの教えどおりに行動できないのではないでしょうか?だからキリスト後の歴史でも争いが絶えないのでしょうが… 答えはズバリYESです。 実際に行動できないジレンマを感じても、キリスト教の隣人愛の在り方に自分の価値を見出して努力をしようとする者が、キリスト教徒であると思います。しかし人間である以上完全には遠いという現実はあると思います。 >そういう、この世に現実的に存在している「力」とバランスしていない、キリスト教に関心はありつつも、そこがどうしても疑問なのです。 「力」が何を指しているのか不明確ですが、おそらく「権力」といった私利私欲、仏教で言う我欲でしょうか。 そうであれば、中世から現代までその現状は描きつくされており様々な文芸・映像を通じて人間の残虐性や生き様は語られています。宗教がすべてを解決すると誤解していませんか?逆に政治がすべてを解決するわけでもないです。文学が最高位ということでもない.... >仮に今有能な政治家が目の前にいて、多くの政敵を乗り越えて、何千万もの人を救う政策を実現できる能力が彼にはあるとした時、その人にキリスト教を説いて、その人が闘う意志をなくしてしまったら、社会にとって大きな損失ではないでしょうか バラクオバマを例に挙げれば、彼は著書の中で自分の政治姿勢、価値観、信仰についてそれぞれ別々の観点から書いています。上述した書き方だと政治家としての任務とキリスト教徒としての価値を混同している感じになりますし、アフガニスタンやイラクで戦務に就いているキリスト教徒も非常におかしいということになります。 宗教は社会変革のためにあると勘違いしていませんか? 宗教は私は個人の心の平穏のためにあると思います。 隣人という場合も、全く知らない他人より親・家族・地域の人間に適応されるケースが多いと思います。宗教に関しては詳細は省きますが、非常に難しい概念だと思います。 自分で宗教の知識を得、得た知識に基づいて行動し、様々な批判に宗教的観点から反論し、且つ宗派の中での諸派の解釈をすべて吟味し、その上で自分の独りよがりを排して神に頼り.....やっていくと本当に一生かかっても終わりませんから、自分の人生をかけてキリスト教と取り組んでいても歴史的事件(戦争・暴力)の前に無力なのではないでしょうか。また、自分の力を過信して世を救えると豪語したらかえって神の教えに反するものですから、無力で当然とも考えられます。 「力とは何か?」との問いに対する答えも一つではありません。キリスト教徒であれば、神の力=力と考えていると思いますが。力って果たして何だとお考えになりますか?仏教でも自殺は我欲であると説いているようですが、自分の死期を自分で決められないことは、無力でしょうか?キリスト教でも仏教でも、死期を自分で決められないことは本来のあるべき姿なのです。お考えになっている「力」は人間にありがちな間違った判断による誤解ではないでしょうか。 キリスト教徒と一括りにしていますが、歴史上のキリスト教徒の分裂に関してお調べになるのも良いかもしれません。日本で言えば、世界大戦や軍部独走に関してのキリスト教団体の立場の違い等....ヨーロッパ、アメリカと調べていけば信者が一枚岩ではなかったことがわかるでしょう。 繰り返しますが、宗教は社会変革というよりむしろ個人の平穏のためにあります。 社会変革に結びつくような宗教は、怖いと思うのですけれども。
補足
確かに個人の信仰がスタート点だと思いますが、「布教活動」ということが盛んに行われていたことから、逆にキリスト教が社会に広まらなくていい、と思われてたわけではないですよね?真剣な信者の方はおそらくキリスト教の広まりによって社会も良くなると思っていたと思います。
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補足
確かに歴史上キリスト教圏で戦争が絶えなかったことは私も大雑把には知ってるんですが、核保有はキリスト教国など、似たようなご意見が多くみられますけど、個人的には単なる「混同」だと思います。その国、地域でキリスト教が広く普及されてきた歴史があるからキリスト教圏という看板が付いているだけで、おそらく多くの政治家は民衆の共感を得るためにキリスト教の名前を利用してるだけでしょう。その国の看板がキリスト教であっても、武力行動のきっかけを作った人、実際武力を働いた人は、それこそキリスト、ペテロ、パウロ等とはかけ離れた精神の持ち主だっただろう、と思います。