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キリスト教的思想が広がれば平和な世界を築ける?

ローマ帝国を舞台にした小説を読みましたが、登場するキリスト教徒の生き方が非常に美しい、印象深いと思いつつも、 この生き方、考え方は自分にはまだ分からない、と思わざるを得ません。 暴君が刺客を差し向けて自分の命を狙うとき、面白半分で大切な人の命を奪うとき、猛獣に自分を食わせようとするとき、無抵抗で天上の神に祈りをささげながら、自分を陥れた人間を許しながら死んでいく人生にどういう価値があるのでしょうか? 仮に天上の世界があり、そこで神の説く真理が素晴らしいとしたら、それを積極的に広め、妨害する勢力には抵抗する「力」が必要なのではないでしょうか? その「力」を否定しているように見えるところがどうしても納得できません。いや、心のどこかで素晴らしい態度ではないか、と感じつつも、現実的ではないと思うのです。 今の世の中で積極的にキリスト教を広めようとしても、おそらく多くの人はこの教えどおりに行動できないのではないでしょうか?だからキリスト後の歴史でも争いが絶えないのでしょうが… 仮に今有能な政治家が目の前にいて、多くの政敵を乗り越えて、何千万もの人を救う政策を実現できる能力が彼にはあるとした時、その人にキリスト教を説いて、その人が闘う意志をなくしてしまったら、社会にとって大きな損失ではないでしょうか? そういう、この世に現実的に存在している「力」とバランスしていない、キリスト教に関心はありつつも、そこがどうしても疑問なのです。それでも信者の方にとってはこの教えでいずれは地上全体が良くなると、言えるのでしょうか?

みんなの回答

回答No.10

 こんにちは。  聖書の文句の読みにかぎって述べます。  じつは次のようにその趣旨としては同じような内容を質問しています。みなさんのそれぞれの見解を参考になさってください。  【Q:《左の頬をも向ける》とき 抵抗を排除していますか】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4094847.html    その中で おもしろいと思った回答者と質問者のやり取りを掲げてみます。ここでのこれまでの質疑応答に一面でからみあいつつ 一面で別の見方を提出しうるかと思うからです。  ◆ (上記質問の ANo.5 )~~~~   「抵抗」? うそだぁ。「攻撃」でしょ?  ☆☆ ご回答をありがとうございます。    ★ 「攻撃」でしょ?    ☆ たたかいだとは思っていますが?   でも それは 《何もしない闘い》ですよ。そのもとに 《抵抗》の意図あるいは それとしての感覚も じっさいその時に 覚えつつあるのも 事実ですけれど?   こういったところでしょうか。   あるいは 《〔右を打たれたなら 左をもというのは 無抵抗なのか? 必ずしもそうではなく 別の表現すなわち 一千歩を行けと言われたなら〕二千歩も 一緒に行ってやれ》という表現が わたしには いちばん ピンとくるのです。ですが そのとき実際には 挑戦する感覚もありますね。相手が 挑戦を仕掛けて来ていると感じたとき そのつてで そういう同じような感覚を こちらも覚えるというわけです。   で そのあとは いかがなんでしょう?  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ 迫害を受けていた人びとも 国教にまでなってからは 鼻高々になってしまった場合もあるのでしょうね。  あるいはまた 国家が宗教を決めるということ自体に問題があります。  あるいは 国教ではなく社会のナラワシとしてでも 檀家制度のごとく・また宗教ではないのだから国家が介在しても大丈夫だという理屈によるごとく 公然としてであれ隠然としてであれ 人びとの生活をすでに全体として束ねるようにそして或る意味で縛るようなかたちで 宗教が《わたし》の心の中に闖入してくるのは 人間性にさからうものと考えます。  一般に論じられている――それは いわゆるキリスト教にかんする実際の事実でしょうが――問題は このように簡単に捉えた出発点から派生することがらであって この出発点を認めているのなら いちいち批判してもあまりおもしろくありません。と考えます。

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noname#189899
noname#189899
回答No.9

宗教組織より危険なもの、それは他者を基準とし、 他の者がやっているから自分もそうしよう、という主体性のなさじゃ。 この主体性の欠如のもとでは、「こういう考えがはっやています」 との宣伝だけで、大多数がその考えに傾いてしまう。 どんな思想、考えでも、大多数が信じてしまえば、その画一性 から大きな社会的損害が生じる。 例えば、 キリスト教が大多数の場合:異端審問でその教えに背く者を迫害 反キリスト教が大多数の場合:踏み絵などをキリスト教徒を虐殺してもしかたがない どちらも、大多数になれば、危険きわまりない。 人間は、その自由を認めあえば、多様になるようにできている。 健全な多様性を阻害する、「他者を基準とし、他の者がやっているから自分もそうしよう、という主体性のなさ」こそ、最大の敵である。 中国、日本、朝鮮半島で、このような主体性のなさの傾向が顕著なように思えるのは、ワシの偏見かの。

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noname#189899
noname#189899
回答No.8

自分のも含めて、キリスト教への批判がいておるな。 批判ばかりだと、面白くないので、自由主義の立場から支持にまわってみるとするぞ。 >>自分を陥れた人間を許しながら死んでいく人生にどういう価値があるのでしょうか? 価値観の違いじゃ。自分の行動にここまで、価値を見出すことができることに、誰も非難する権利はない。 >>いや、心のどこかで素晴らしい態度ではないか、と感じつつも、現実的ではないと思うのです。 何が現実であるかは、人それぞれが決めることじゃ。おぬしも、自分なりの現実を信じておるな。キリスト教徒もそうなのじゃ。 >>キリスト教を広めようとしても、、、その人にキリスト教を説いて、その人が闘う意志をなくしてしまったら、社会にとって大きな損失ではないでしょうか?この教えでいずれは地上全体が良くなると、言えるのでしょうか? キリスト教の正統派(保守派)だけに影響されるなら、有能な政治家ではない。合衆国憲法も、キリスト教の正統派によって作られたものではない。むしろ異端ともいえる、ユニテリアン(理神論の神)によって作られたものじゃ。 平和をもたらす秩序は、自由主義。この自由主義のもとでは、反社会的でない 宗教は、自由に信じ、布教しても、いっこうにかまわん。より幸せになるために、 価値観の近いものたちは、その者たち自身で協力しあう自由は保証されている。 他者のこの自由を侵害する者は、自ら幸福を求める根拠を失う。

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  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.7

では、宗教に現実の力を持たせた場合、どうなるのか。 その偉大な実験の結果が、現在であるのではないでしょうか。 キリスト教国に対するニヒリズムを排してもなお、あるいはキリスト教徒が "現在は偽者。本当のキリスト教は別"のようなよくある言い訳をしてみたところで、 それは厳然たる事実であるのです。 同時にこれは、キリスト教に限らず全ての宗教が組織化によって拡大する過程で 内包する構造的な欠陥とも言えます。 いわゆる新約聖書を読んでみると、ナザレのイエスによる宗教対立の側面、 すなわちファリサイ派と呼ばれるユダヤ教一派との宗教対立が記されています。 キリスト教側からの視点では、ファリサイは権威主義的で、融通が利かず、 律法(法典)を重視し新しい意見を受け入れない。そういった描き方をしています。 そして、新約聖書が想定するファリサイ人のような集団を我々は良く知っています。 そう、キリスト教徒です。 そして若々しいナザレのイエスによる遠慮のない攻撃が持つ、清廉で瑞々しい苛烈な 論理は既に失われ、神聖なる大工の息子を、死後に下賎な神の息子へと辱めてしまった。 それが布教の過程で起きたことであると強く感じるのです。 宗教の教義そのものが持つ思想・論理構成については、 おっしゃるとおり確かに美を感じられるものかもしれません。 ではなぜ、布教にあたって、魔法のような力や神の子であると強調する必要があったのでしょうか。 もし、その教義が正しいのであれば、そんなものより"美しい"論理を説いた方が有意義でしょう。 ですが初期の拡大の過程で、キリスト教徒は他者の説得の為に正当性を確保する必要がありました。 そこでローマ帝国という一種の正当性を持った集団に対抗するためには 同種の正当性~すなわち、血族・血統、あるいは社会制度の持つ治癒の作用と同等の力~を 主張する必要があったのではないでしょうか。 つまり現存する国家組織の代替案を求めていた層に、同じ能力があると宗教を提示したわけです。 かくしてキリスト教がローマ帝国の国教となった後、今度は"正戦"という概念が登場します。 一定の条件(相手の悪性が明らかであるとか)を満たせば、国家による力の行使に正当性を認める という論理で、質問者さんの疑問そのものに応える内容でもあると思います。 (詳しくは正戦論の理論的支柱・聖アウグスティヌスについて調べてみるといいかも) 既存の権益に批判的であった集団は、国家そのものとなり、 暴力を否定していた集団は、国家の振るう力の正当性を矛盾無く説明してのけました。 これらの諸概念は矛盾無く、しかし初期の思想とは大きく外れたものとなっていきます。 これは最初のファリサイすら、イエスのような若々しく清廉な集団であったかも しれないということです。もちろんキリスト教に限らず、 例えば日本仏教にも同質の問題は起きています。 正当性を追求していけば、自らが批判していたものになってしまう。 およそ宗教指導者が持ちえていたものは現体制を批判し未来を志向する若々しさであって やはり宗教指導者にかけていたものは、なぜ、誤った現体制が出来て しまったのかという論理そのものに対する認識なのです。 宗教という制度はその原因を"他者の不明"に求めてしまいます。 それは迷い人にとっては知れば救われるという希望なのかも知れませんが、 その副作用として同じ論理を展開し矛盾を排除するほどに、批判対象と同様の存在に 成り果ててもなお、"自己の不明"を認めることができなくなってしまうのです。

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回答No.6

キリスト教的価値観は、実は自己中心的な性格の持ち主 に対するカウンターバランスとして発生したのだ。 キリスト教圏の誰が「右頬を殴られたら左頬を出」しているか? 「西欧ではキリスト教によって奉仕活動が盛ん」だというが、 その社会は世界のどこよりも即物的で拝金主義的である。 独善的だから自己犠牲せよと教え、利己的だから奉仕せよ と導いているのだ。 即ち、キリスト教やイスラム教のような拘束性の強い教義を 持つ一神教が必要な社会は、不幸である。 そのような拘束衣がなくとも自然に助け合い、自発的に社会 行動をとる方が、理想なのだ。 生きる目的は、自己の精神的充足感の最大化であり、その 為には、自己の生存に関するあらゆる必然を、自らの意志と すべきであって、神であれ、王であれ、モラルであれ、法規 であれ、自己の外に価値や規範があるのは、不幸なのだ。

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回答No.5

>その「力」を否定しているように見えるところがどうしても納得できません。 お心配には及びません。 人類史上二度使われた核爆弾は二回ともキリスト教徒から異邦人に向けて使用されました。 現在でも、地上の核兵器の80%以上がキリスト教国によって武装されています。 小説とはことなり、20世紀の戦争はほとんどがキリスト教国が関与しているでしょ。

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noname#189899
noname#189899
回答No.4

>>この世に現実的に存在している「力」とバランスしていない、キリスト教 だから、キリスト信者は、自分たちは世に属さないと考えておる。 そして、この世が亡び、最後の審判に望みをつなげる。 キリスト教のこの「あの世的な」偏りと、現世的合理的な科学という別の偏りが、 同時進行してきたのが、西欧近代の歴史じゃな。 このふたつの極端なものは、日本の宗教では、とっくに乗り越えられておる。 現世で執着を絶ちながらも、大欲を抱いて楽しんで自他のために暮らす、 大乗仏教の在家が、それである。境地を重んじ、なにを信仰するかにとらわれない。 日本の宗教はあまりにもすぐれておることが、キリスト教が日本でひろまらない 理由じゃ。

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  • bara2001
  • ベストアンサー率30% (647/2111)
回答No.3

無抵抗と暴力は紙一重です。 無抵抗だった者が、ある日あるとき権力を手に入れたことを自覚すると、途端に暴力を振るい始めます。 宗教はそれを信じる者にとっては真理ですが、信じない者にとってはただのファンタジーです。 そして、他宗教間の争いも激しいですが、それよりも激しい争いは往々として同一宗教内の異なる宗派の間で行われます。 宗教関係に限って言えば、どの宗教もそうなのですが他宗派の信者にとってはただのファンタジーに過ぎない集団(教団)からは、政治的・軍事的な現世的権力を取り上げることが、もっとも平和に貢献するものと思います。

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回答No.2

変なことを言うようですが、世界史の中で、キリスト教徒が起こした戦争、虐殺等のいわゆる「人道に対する罪」は、数知れないほどあります。 お叱り、批判を覚悟の上で申し述べれば、ナチスドイツもキリスト教徒ではなかったかと思います。 十字軍がイスラム教徒をどう扱ったか、つい最近ではボスニア紛争で、宗派と民族が異なるというだけで凄惨な殺し合い、「民族浄化」が行われています。 キリスト生誕から2千年が過ぎていますが、世界の宗教の中で、最も凄惨な歴史を持っているのはキリスト教ではないかと思います。

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  • toshipee
  • ベストアンサー率10% (725/7148)
回答No.1

 キリスト教のお葬式にはじめて行ったが、信じる者だけ何かくれるのね。「いい人なら、誰でもだろ」と単純に思ったな。

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