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デスノートの倫理的問題とは?
- 数年前に週間少年ジャンプで連載されていた「Death Note」という漫画は、顔を知っている人間の名前を書くとそのヒトを殺すことができるというノートを持った高校生である主人公が、世界中の犯罪者を裁くという物語です。
- 主人公が問いかける「害のある人間は殺せないのか」という台詞には、倫理的な問題が含まれています。その「害のある」人間を定義すること自体が困難ですが、もし可能であると仮定するならば、害のある人間を排除することは正しいのかという視点が問われます。
- 倫理的な問題については議論の分かれるところですが、逆に「害のある人間を生かしておくこと」が倫理的に問題ではないのかと考えることもできます。この問題は、人々の倫理観や道徳によって異なる解釈が生まれる可能性があります。
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補足の質問に対し あらてめて 説明いたします。 >俺様」個人の定義ではなく、それが仮に「全善人」の意志として定義することが >出来たならば、問題ないのではと私は考えたのですが・・・ 「回答者様によると、それはすでに『善』ではない」 とは 述べていません。 善とは、全体の生死を 解釈によって左右する もの の 私的(史的)主観で 決定されてしまうということ を言いたかったのです。 詳細は以下のようになります。 「全善人」というのは、複合語です。 (詳細はアリストテレス政治論・ニコマコス倫理学に記述があります。) 全には、全と個という思想が背景としてあります。 全とは個ではない。個とは全ではない。 個人の意思は、その具体的一つとして私の意思です。 では、全の意思は、誰の意思でしょうか。 ここで二つの意見に分かれます。 簡単に描くと、「私たちの意思である。」というのと、「精神である。」という意見です。 第一の問題は、そのどちらもが、ひとつの「具体的な意思」では ないということです。 救いとして 私たちの意思であるという人たちには、 法・契約という形式的意思の表明があります。 しかし、精神であるという人たちにとって、すべての意思とは、すべてを体現している私の精神であるという信仰があります。 で すべての精神と私の精神のつながりは、どうなっているのですか?とたずねると 「わからない」と答えてきます! つながりは、話にならないというわけです。 ここで 第二の問題は、Hyle(Materie)というものを 空間という背景を使って 物象化し 精神論・唯心論(絶対唯一神)を 「経済論」およびその必然論旨として 浸透・流布させようという態度が その理論の背景に 隠されている事実です。 つまり、私の意思は、精神であり、 私の意図して思うことは 全善人の精神の表れといえ、 私の行動は、全善人の行動に合致した正業である。と規定するのです。 (逆に合致していないのは病人であり、害である とされ 仕分される) で 不可王=主(汝に対するわれらの神)を 可能にする「非論理的」神が出てくることになります。 お気づきの通り 神は「い」ません。 ここで もうすでに意志とか善とかとは、関係のない話になっています。 俺はわからないが、神はわかっているというわけです。 もしいない奴がいたとしたら、世界は変わっていたというわけです。 もしスーパーマンが存在したとしたら、世界は救われているのです。 海外の常識ではあたりまえのことです。 外交的に考慮すれば、人間は人間をやめてはならず、漁師は漁師をやめてはならず、 首相は首相を辞めるべきではない。飛行機は予約していますから・・・宇宙のほうが放射線が高いので、問題になりません。 ようするに、論理を無視して いいたいほうだい、やりたい放題のことができる世の中になります。 かん無視の狂気的行動とそれを容認する態度が結論です。そして現実です。 もんだいは 死刑はだめだと言いながら、実行しているということです。 マニフェストハマモル といいながら 一つたりも実行していなうということです。 一つも実行していないから謝った。文句を言うな という態度です。
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補足として 倫理という観点から問題点を列挙しますと以下のようになります。 害の定義 殺す 殺せる・殺せないという範疇 の背景には 「テクノロジー」の倫理が横たわっています。 害虫のジェノサイド 害虫と害のある人間の違いは、なんでしょうか? 害虫は種族(生態)による差異で害虫を定義します。 蚊を考えてください。 おすとめす 血をすう種族とすわない種族 人間の中に害のある人間と害のない人間がいる。ということですが、 ナンセンスです。 害のある大人とその子供の間の関係。を考えてください。 人は罪があるかないかで判断を下すものです。
客観的に世界にとって害のある人間は、 主観的にみて勘違いをしています。 自分の存在は世界の為であると思い込んでいる。 客観的に役立たずである人の中では 自分の気持ちとして 「役に立つ自分」というのを 認めています。 つまり 役に立つ俺様に敵対する他人は、社会の害毒である。 つまり、俺以外の俺に敵対する人間は害のある人間である。 と定義するわけです。 つまり、害のある人間を排除する実行能力のアル「害悪の人間」だけが、他人を殺し 主観的害悪を排除していくことが出来ます。 害のある人間というのは、益のある俺様の敵である。 敵は殺せ ということになり、 戦争の原因となります。 実行能力という事に立ち返ると 殺人技術に長けた人間 良心および愛がない人間 社会に実害をもたらすことの出来る人間が生き残ることになり、 つまり「悪人こそが善!世の中全てが!他人を殺して生き残ることが善!」の社会の 主観的善のみが生き残る社会となります。 主観的前途は自爆全滅の善という解釈も出来るでしょう。 いずれにしても 質問様の考える当初の目標は達成されなくなります。
- devilsbear
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そもそも日本には、「罪を憎んで人を憎まず」という考え方があります。 現行法もそれに則っているようです。 害のある人間を排除する。基本的には大賛成です。 排除されないように気を付けます。
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補足
御回答ありがとうございます なるほど、結局最終的には目標が達成されない結果に至る、ということについては大変納得をさせていただいた次第であります >役に立つ俺様に敵対する他人は、社会の害毒である。 つまり、俺以外の俺に敵対する人間は害のある人間である。 と定義するわけです。 ただ、ひとつだけ、もしよかったらご意見をお聞かせ願います 回答者様は上のようにおっしゃっておりますが、 「俺様」個人の定義ではなく、それが仮に「全善人」の意志として定義することが出来たならば、問題ないのではと私は考えたのですが、 回答者様によると、それはすでに「善」ではない、ということでしょうか