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私の先祖は水戸家家臣だった。
1.ある爺様が「私の先祖は水戸家家臣だった」と言っていました。 2.その後、「私の先祖が士族だったとは一言も言っていない」と言いました。 質問です。 1と2に矛盾があるように思いますがいかがですか。 もちろん「家臣」と「士族」は言葉は違いますが、家臣=士族でしょう。 中間や小者は家臣とは言わないと思います。 よろしく教えてください。
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- Postizos
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ANo.8の者ですが。 その老人が小者であるとかの状況がわかっておりませんので、嗤うべきところかどうかは部外者としては判断しにくい状況でございます。 ご理解ください。 質問文に従いまして1と2に矛盾があるとまでは言えないと回答したのみで、嗤う事に同意できない・反対であるなどの意味ではございませんのでご容赦願います。 この応答がへ理屈っぽくてユーモラスであるかどうかと問われましたらそうかもしれないと思います。(そのニュアンスは回答8の冒頭に記述しております) ですがそのユーモラスな印象はじつはご老人の言っている事が論理的には矛盾とまでは言えない、論理の隙をついているというおかしさにあるという事も言えると思うのです。これが全くの妄想や勘違いだったら可笑しくはないと思うのですよね。古典落語などでよく見かける話の構造のように思います。 ですのでこれはやはりおもしろい話だなと。
- Postizos
- ベストアンサー率52% (1786/3423)
おもしろいこと言うなあと思って辞書を調べてみました。 か-しん【家臣】 家に仕える臣。家人けにん。家来けらい。 〈広辞苑〉 しん【臣】 (呉音はジン)君主に対していう自称。 〈広辞苑〉 しん 【臣】 1. (名) 主君に仕えている者。家来。臣下。 ⇔君 2.(代) 一人称。家来が主君に対して自らをへりくだっていう語。 〈大辞林〉 け-にん【家人】 1.律令制下の私賤身分の一つ。民有の奴婢ぬひだが、私奴婢しぬひよりも待遇がよく、相続の対象とはなっても売買されず、家族生活を営むことが許された。 2.(→)御家人ごけにんに同じ。 3.家来。奉公人。 〈広辞苑〉 け-らい【家来・家礼】 (中世以前では「家礼」「家頼」、近世は「家来」と書かれた。もと、子が父を敬い礼すること) 1.貴人に礼を致すこと。 2.朝廷の公事くじ・故実の作法を習うために摂家などに奉仕する者。 (主従の関係に転じて)武家に仕える者。家臣。転じて、従う者。部下。 3.家に召し使う者。従者ずさ。従臣。家人けにん。 〈広辞苑〉 や-つ-こ【臣・奴】 (「家つ子」の意。近世以後ヤッコ) 名 1.目下の者をののしり、または、親しんでいう語。家の子。 2.神または朝廷や君につかえる人。おみ。けらい。 3.転じて、ある物事に心身の自由を奪われた者。とりことなる者。とりこ。万葉集12「恋の—にわれは死ぬべし」 代 4.(一人称)へりくだっていうときに用いる。わたくし。やつがれ。垂仁紀「—が家に至る」 〈広辞苑〉 しん-みん【臣民】 明治憲法のもとで、日本の人民。天皇・皇公族以外の者。 〈広辞苑〉 今我々が思っているよりも「臣」「家臣」という語はへりくだった表現のようで、私も意外でした。 どうも辞書を見る限りでは「家臣」は封建制での身分を規定しないように見られます。
お礼
ありがとうございます。 ところが、実際は、 小者が「ワシは水戸家の家臣じゃ」 と言ったら笑うでしょう。 笑わなければ、日本語通ではないと思います(^○^)。
- boko10cho
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士族の家の出身でも分家をすると、その新しい家は士族ではなく平民でしたから、 そういう家の方なのではないでしょうか。 例えば、平民宰相といわれた原敬は元家老の次男でしたが、分家したので平民でした。 あるいは、元々士族ではない家が跡取りが無いなどで、かつて水戸家家臣だった家から 当主を迎えたのでしたら、そのようにおっしゃっても不思議ではありません。 他にもあるかもしれませんが、必ずしも矛盾しているとは言えないと思います。
お礼
爺様はおっしゃるようなことは言っていませんでした。
- hitoyana
- ベストアンサー率27% (18/66)
この質問の部分のみを読んだ場合は、矛盾があるとは言えないと思います。 「私の先祖が士族だったとは一言も言っていない」と言ってはいますが、「私の先祖は士族ではない」とは言っていません。この爺様は士族だと「言ったことを」否定しただけで、士族であったことを否定してはいませんから。 「私の先祖が士族だと言ったことは今までなかったが、私の先祖は以前言った通り水戸家の家臣であり、士族である」ことはあり得ると思います。 ただし、1および2の発言の内容からだけの判断で、新たに別の条件が加わった場合はこの判断には当たりません。あくまで、1および2からのみの判断です。
お礼
はい、質問者の意図を知っているのに、爺様がはぐらかした奇弁強弁すり替え弁卑怯弁の類ですね。
1.ある爺様が「私の先祖は水戸家家臣だった」 2.その後、「私の先祖が士族だったとは一言も言っていない」 1と2には文章的にはまったく矛盾はありません。 「私の先祖が水戸家家臣だとは言ったが、士族だったとは一言も言っていない」 ということです。 爺様は頓知の才があるのでしょう。 ごんごん追求されるのはその爺様がのっぴきならない知識人とか高貴な方とかでしょうか。 まだご存命なら真の意味するところを伺ってみたいものです。
お礼
>爺様は頓知の才があるのでしょう。 なるほど、頓知ですか。 そんな器用な人ではないので気が付きませんでした(^○^)
- key00001
- ベストアンサー率34% (2878/8340)
> 家臣=士族でしょう。 違う。 家人(けにん)や旗本は士族を指す言葉。 臣下,家来などは、言わば従業員を指す言葉。 「家の臣下」である家臣も同様。 必ずしも士族とは限定されない。
お礼
しん‐か【臣下】 君主に仕える者。家来。臣。 け‐にん【家人】 1 律令制での賤民の一。私有民であるが奴婢(ぬひ)よりは身分が上で、家族と生活することが許された。 2 平安時代、貴族や武士の棟梁(とうりょう)に隷属した侍。 3 「御家人(ごけにん)」に同じ。 4 家来。また、奉公人。〈日葡〉 辞書の上では家人より臣下の方が上のようですね。 昔、吉田茂が「臣茂」と書いたことがありました。 ご苦労様でした。
- kimosabe
- ベストアンサー率59% (137/230)
1と2に矛盾があるように思いますがいかがですか。 矛盾があったとしても、たいした問題じゃない。別に損害を受けるわけじゃあないし。
- pixis
- ベストアンサー率42% (419/988)
まぁ、一般的にいえば確かに矛盾します。家臣といえば士族にきまっとろーが! といいたくなりますが厳密に言えば矛盾はありません。 というのは、たとえばお抱えの医師や坊主、あるいは学者(士族分の人はいましたが) など士族ではありませんが家臣ではあります。 お城(屋敷)の中にいて、大名に食わせてもらっているこういった人たちは家臣といわれる分際 だったわけですから家臣=士族とはならないこともあります。 また、1、2を言った人が「ちょっとニュアンスが違うんだ」ということを言いたかったのかもしれません。 「家臣」はれっきとした〇〇家のお抱えの武士であり 士族というのは武家に生まれただけの話で、その後坊主になったり学者になったりで 刀をさしていなくても分際が士族というだけの話なんだ。 ということを言おうとしたんじゃないですかね? さもなきゃ、単純に「士族」という言葉そのものを使っていない。 ということを意固地になっていったんじゃないでしょうか? 「あの女の子」と言ったことはあるが「あの娘さん」と言った覚えはない! と同じようなもんなのかもしれません。 聞いてる方から見れば同じなんですけどね・・。 世の中わけわからん人は案外たくさんいますから。
お礼
>抱えの医師や坊主、あるいは学者 ・・・こういう人が「私は○○家の家臣です」というと変な感じがするんですが。 「臣」というと身分の高い家来のように思うのですが。 ありがとうございます。
補足
ご回答ありがとうございます。 水戸家家老の家来は水戸家の陪臣で家老の家臣ですが、そんなものでも水戸家家臣と言えますか。
- PENPENMAKKY
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明治時代、士族となれたのは中士以上の武家であった家系の場合です。 足軽や同心は卒族、郷士は平民とされました。 卒族はその後、平民になります。 私の先祖は水戸の家臣だが、士族とは言ってない。 つまり、 私の先祖は水戸の足軽だった と、言う意味になります。
お礼
「臣」というのは身分の高い家来の事をいうと思ったのですが。 足軽、中間、小者・・・家臣と言い難いように思います。 奉公人の方が似合うようなkがします。 ありがとうございました。
補足
ご回答ありがとうございます。 水戸家家老の家来は水戸家の陪臣で家老の家臣ですが、そんなものでも水戸家家臣と言えますか
お礼
>その老人が小者であるとかの 小者とは次のような人のことです。 日本語通ならご存知のはずですが。 【小者(こもの)】 [ 日本大百科全書(小学館) ] .奉公人の一種。小人(こびと)ともいう。武家などに雇われ、走り使いなど雑役に従事した。室町時代以降からみられ、年季を切って随時雇い入れるところが多い。武家では中間(ちゅうげん)の下位に置かれ、軍役の員数外とされた。江戸時代、幕府や諸藩の職制中では、中間とともにさまざまな名称で使役されている。このうち幕府では、五役の者と総称されるのが中心であった。