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権力の起源は?

古代社会の為政者達はどういう手段で覇権を手中に収め得たのでしょうか? 古代社会では必ずしも投票制度が機能していた、とは考えられ難いのですが、暴力は恨みを買うかも知れませんので、調和の為の別手段が採用されてきたのでしょうから、教えて下さいませ。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • phj
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回答No.3

どこの社会でも、最初に生まれるのは王権です。 たとえば、小さな集落であっても農村なら飢餓であっても来年の種籾を残し、狩猟ならリーダーシップと分け前の分配、放牧民族なら放牧地の分配など、権力を必要とすることはいくらでもあるからです。そして、となりの部族との諍いには軍事的な指揮も取ることになります。 このあたりまではサル山のボスと同じで実力勝負なのですが、集落が部族単位(数千人から万の単位)まで拡大してくると、リーダーが何らかの形(年齢による死亡や戦争での落命)でいなくなりそのたびに簿図争いをしていると、周辺の部族につけこまれて部族の存続自体が危うくなってしまいます。 そのため、ある一定の決まりを作ってスムーズな権力移譲をするようになったのが王権の始まりとなります。 ところが人間というのはなかなか納得しないもので「何でお前の言うことを聞かなきゃならんのだ!」という人が必ず出てきます。実力だけでは「俺のほうが実力が上」と思っている人たちまで言うことを聞かせることはできませんので、常に暴力で実力を見せることになりかねません。そうなると、王権で外部に向かっては備えが出来ても、内部抗争ばかり発生することになります。 これに対処するために権力のほかに「権威」が必要になってくるのです。 権威とは「なんらかの理由で、権力が与えられているとみんなが納得する理由」だともいえます。 この権威のつけかたは、古代の各国の物語に乗っていることが多く、大体「神と人間である母が交わって最初の王が生まれ、神の祝福を受けていたから周辺の部族をすべて平定して、この島全体が王とその祖先である神の祝福を受けることになった。今の王は初代王から数えて10代目である」というようなことになっています。 つまり権威を神という超自然的な力から借りているのです。 これは普通のことで、まだ王権が確定してない集落ぐらいの規模であっても、雨乞いの儀式とか洪水防止のいけにえの儀式とか、史実以前の太古から超自然の力を利用してきた痕跡をみることができます。 そのうえで、たとえばとなりの力の強い部族と戦争になったときに、指導者が「俺は実は神の子だ。昨日枕元に私の祖先と神が現れて、この戦争に勝てるとお告げを出した。私のいうとおりにすれば、この戦争は勝てる。相手に目に物見せてくれようぞ!!」とでも言って、兵士を鼓舞し、その上で実際に勝ってとなりの部族まで平定すれば、その指導者はとなりの部族まで含めたクニの王として「神の子だから、この王国は偉大だ」という宣伝ができるでしょうし、実際に指導者の下で戦った兵士たちは子供にも「うちの王様は神の子だから、このクニは平和なんだよ」と伝えるでしょうし、それはすなわち「このクニを平和で豊かな国として維持したいなら、王に忠誠をつくせ」という教えにも変化していくわけです。 こうして、権威と権力が一体化した上で、周囲が同じような規模の部族同士になると、あまり戦争をしたくなくなるわけです。 ではどうするかというと、王族同士の結婚が行われることになります。つまり神の子である王と、別の神である王の娘が結婚することで「二つの部族はともに二人の神様から祝福を受けられることになる」という考え方です。 こういう方式で近隣の部族は調和を保ったり、さらにその向こうに強大な部族(たとえば元のようにものすごい遠いところから侵略やってくるような連中)がいれば、先ほどの結婚後の息子が二つの部族を統一して、さらにとなりから娘をもらって三つの部族が合同して、侵略者に対抗し排除した後には、統一王国が出来上がるということもあったのです。 そうなると、その息子は「Aの神とBの神とCの神の力を借りて、侵略者を排除した偉大なる王」であり、それ以降の子孫である王は「神々に祝福された偉大な王(統一王)の子孫」というのが権威になって行きます。 もちろん、いままでの各王国の王族は貴族として残りますし、各国の占い師は整理はされるでしょうが、教会(教団)を作って、王の権威を高めることで生き残りを図ろうとするわけです。 そうなると、教会は普段から「この国は○○神の祝福を受けた偉大な国、みなさん神にお祈りしましょう」ということと「この国の王は○○神の子孫ですから、王の血統が続いていれば皆さんも平和に暮らせます」という宣伝が一緒にできることになり、不満分子を減らす役にもたちます。 そのうえで、王が交代したときに「先王も偉大だったが、新しい王にも変わらず祝福を授けることを我々の神は約束した」と教会の司祭が宣言して王冠を王にかぶせることをすれば、王は権威を分かりやすい形で民衆に知らせることが出来ますし(正統性の主張)、教会は王に権威を授けたという権威で生き残ることができますし、民衆は先王が亡くなってもこの国は大丈夫だ、と安心できるわけです。 これが大体どこでも通用する一般的な「権力」と「権威」の発生過程です。 さらに、民主的な投票による支配者層の形成には、最初のほうで書いた「指導者の死去による権力争い」が深く関わっています。特にオリエントからギリシャあたりの城壁国家(都市国家:ポリス)では、激しい権力争いをするところが多く、一部の都市では権力争いを投票という形に変えて速やかに体制を収拾するようになったのが民主主義の始まりです。 その代り「神から祝福された」という権威はなくなり「民衆の支持で選ばれた」というのが「権威」の源になるため、宗教的な儀式は廃れていくことが多くあります。 現在でも君主国をみると、この古代の権威付けの名残を見ることが出来ます。 日本であれば新天皇の即位後に行われる「大嘗祭」がそれにあたり、内容は一般的に公開されていませんが「沐浴斎戒して、神々と交わる」という儀式がおこなれます。これができるのは即位した天皇でしかも一回限りですから、この儀式をもって権威が付与されるということができます。 イギリス王室などはもっと分かりやすくて、イギリス国教会から「神と子と精霊」の祝福が授かった王冠をかぶる戴冠式がそれにあたりますが、実は王冠そのものが「神と子と精霊」の三位一体を表しており、これの意味するところは「王の頭上には常に神と子と精霊がおり、王を守っている」=だからこの王が君臨するイギリス国は神に祝福された土地、ということなのです。 これらの権威に浴することができれば、覇権も得やすいのですが、それに対立すると戦争などの実力行使で平定し、むりやり権威の服させるという状態になるのです。

YaGhoogle
質問者

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有り難う御座います。 世襲の仕組みが良く分かりました。

その他の回答 (3)

  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.4

人々が強大な為政者を望み、為政者に力を託した。それが生き残る為の人々の知恵だった。そういう知恵を持たなかった集団は滅亡して歴史に残らなかった。為政者を持たなかった集団は、異集団に奴隷にされ、天変地異で壊滅し、蛮族の略奪・襲撃を逃れられず、文字も持たず、歴史を残すことができなかった。人類の歴史は自然との闘いの歴史である。害虫・害獣との戦い、蛮族との戦い、無法者との戦い、病気との戦い、自然災害との戦い、飢餓との戦い。単純に言えば、為政者を持たなかった集団は、食料にありつけず、餓死して子孫を残すことができなかった。必ずしも為政者が自分で能動的に覇権を手中に収めえたわけではない。お願いだから王様になってくれと人々に泣いて頼まれた。 現代人は余りにも無知で、怖いもの知らずだ。食べ物を心配することもないし、明日も何事もなく家族の無事も疑わない。コンビニに行けば何でも売っている。 古代に限ったことではない。近現代であっても私たちの周りは脅威だらけです。第一次世界大戦の1915年北海道の三毛別で三毛別羆事件が起きました。明治維新後、北海道の開拓は鋭意推進されていましたが、まだまだ未開の地は残っていたし、開拓時代は終わっていない。その最中の恐るべき出来事です。羆に民家が襲われて7名の死者と3名の重傷者を出したのです。私たちは中学校や高校で歴史を習っているがこうした事件まで教えられてるだろうか。ここでは詳しくは説明できないが、これが20世紀の出来事とは信じがたい悲惨な事件なのである。20世紀でもこうなのだから、古代ではこうした事件は日常茶飯事に起こっていたに違いないのである。古代は食糧生産性も小さく、人口密度は極めて小さい。至る所未開の大自然の中にばらばらと小集団が定住していたような社会です。優秀な指導者を持てなかった小集団は自然の脅威を克服できずに歴史の闇にうずもれて誰からも忘れられた。 古代ローマの創世記の伝承によれば、ロムルスの次の王は、ローマに住んでいなかったヌマ・ポンピリウスです。ロムルスとは何の血縁関係もない。本人は固辞したが、元老院の長老から何度も頼まれてついに王に就任することを受諾したとされている。王といってもローマはまだ人口数千人の都市国家で、実際は村長さんになってくれと賢者として有名だったヌマ・ポンピリウスが懇願されたといったことなのです。この村レベルの規模の古代ローマがやがて古代ローマ帝国に大発展していくのです。逆に言えば、優秀な指導者を持てなかった小集団は古代ローマ帝国に飲み込まれていったということなのです。

YaGhoogle
質問者

お礼

「象徴的な権威」の世襲の形式が出来上がっていく歴史的な切っ掛けの具体例は、明らかになっているのでしょうか?

YaGhoogle
質問者

補足

有り難う御座います。 共同体の保護管理の責務もが託されてきた為政者達が、古代にも存在していたのですね。

  • kusirosi
  • ベストアンサー率32% (2838/8859)
回答No.2

覇者とは、中国(春秋時代)の諸侯(君主)に与えられる名誉「覇」を得た者の尊称。 徳を以て天下を治める周王室の王道が衰えたとき、  策略と武力で、王と諸侯の信を得て天下にその名を知らしめた君主を「覇者」と呼んだ。 諸侯を集め盟主として会盟を行うことで覇を唱えるようになった。代表的な存在として斉の桓公、晋の文公などがいる。  覇者は、他の諸侯から貢物を受け取る代わりに、諸侯の間の争いを仲裁し、 内乱外敵には自分の兵を出して諸侯を、まとめて指揮を、とりました。  覇者と認められる、諸侯が会し同盟を結ぶときに、牛の左耳を切り取り、、盟主が最初にその血をすすって、 以下、盟主の決めた順ですすっていくのですが、それが変じて牛耳る(主導権を握る)と言われました。 牛耳を執る、すなわち諸侯の盟主となるにはその国の実力、兵力がものをいい、 また個人的なカリスマや知力策略も必要でした。

YaGhoogle
質問者

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有り難う御座います。 周囲から協力を得るべく、 環境作りの為に努力を重ねてきたのでしょうね。

  • Willyt
  • ベストアンサー率25% (2858/11131)
回答No.1

宗教です。古代から権力は宗教によって権威付けられて来ました。卑弥呼もそうでしたよね。大和朝廷は出雲朝廷と交渉の結果、宗教の部分を出雲が担当することで妥協が成立したという経緯があります。

YaGhoogle
質問者

補足

有り難う御座います。 現人神伝説とか王権神授説とかがいきなりに登場したのでしょうか?

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