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子どもの病気を受け止める方法と親の接し方
- 子どもの病気を受け止める方法として、親は明るく振る舞いながらも心の中では息子を抱きしめる気持ちで接することが重要です。また、比較的軽度の症状である現時点であっても将来の麻痺の可能性を理解し、適切なサポートや治療を受けることも必要です。
- 子どもの病気を受け止めながら前向きに歩いていくためには、他の親や同じような経験をしている人々と情報を共有し、励まし合いながら支え合うことが大切です。また、宗教を持っていなくても、自身や子供にできる限りのサポートを探す意識をもつことも大切です。
- 子どもの病気について受け入れることは簡単ではありませんが、自分自身と向き合う時間を持ち、自分の感情を受け止めることが必要です。また、子供のつらさを理解し、彼らと一緒に歩み寄りながら、可能な限り援助をしてあげることも大切です。
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受け止められるとは限りませんし、受け止めなくとも良いと思います。 早い話、ありのままに見つめるしかないんですね。その事実に直面したときに感じるさまざまな感情に、親も子も向き合ってゆくしかないと思います。 そして、その上で、受け止められれば受け止めれば良いですし、どうしても受け止められなければ、それはそれで良しとするしかないと思います。 なぜなら、無理をしてどこかで繕おうとすれば、受け止める・受け止めないにかかわらず、精神的にもかえって不安定さを増していってしまい、生活の質もかえっていままでよりも悪くなることがあり得るからです。 ですから、ある意味で流れに任せるしかない、というのが正直なところでしょう。 アメリカの精神科医であるエリザベス・キューブラ・ロスという方が、死を目前にした患者がその事実を患者自身が見つめる過程をもとに、ステージ理論というものを提唱しています。 この理論によると、(1)否認と隔絶、(2)怒り、(3)取り引き、(4)抑うつ、(5)受容ないしは諦観、といった段階を踏むそうで、これらの段階は、むしろ健康的な反応なのだそうですよ。 また、中途障害者に見られる同様な過程についても、ナンシー・コーンという方が、非常に酷似した傾向が見られることを理論化しています。 痛ましい事実に直面して、そのショックを和らげるために、事実を否定しようとしたり事実から目をそむけようとすることは、心理的安定を図るための健康的な反応です。 ですから、無理をして受け止めなくとも良いのです。 怒りにしてもそうです。やるせない気持ちが昂じて、周りの方がことさら幸せに見えてしまって、恨み・つらみを言いたくなったりもするでしょう。 と同時に、それを認めたくないがために、必要以上に明るくふるまったりもしてしまいます。これが取り引きと言われるものだそうです。 しかし、それでも事実は変わりません。そのことに向き合わざるを得ないわけですね。それをあらためて知るしかないとき、当然のことですが、心も落ち込みます。これが抑うつだと言われています。 以上のような経過を経て、最終的には受容に至るそうです。 ただ、受容という言葉は適切ではないような気がします。諦観というか悟りというか、一種のあきらめですから。 となると、時計の針は決して過去に戻せるものではないですし、また、目に見えない神や宗教・信仰に頼ってみたところで、はっきり申しあげて自己満足にしかならないと思います。 また、親は、子が置かれている事実を替わってあげることもできませんよね。子自身にきちんと見つめてもらう(最初に書いているように、受け止めることとは違います。受け止めなくとも良いのです。)しかありません。 ある意味で子を突き放さなければならないこともあるでしょうし、また、親が子の人生をコントロールできるものでもないですし、子は子自身の責任で人生を築く義務・責任もあると思います。 極論すれば、親は親。子は子なのですね。 親は子に寄り添うことはできますけれども、だからといって、それで子の生活の質が良くなるわけでもありません。 厳しい言い方になってしまうのですが、子自身がきちんと自分の置かれている病気や現状を受け止められなければだめだと思うのです。それこそがまず先だと思いますよ。 その上で、子の生き方は子に任せること。親はどうすることもできないのです。親が手を出してあれこれと先導してしまうのではなく、さりげなく心理的に子をサポートする(寄り添う)ことで十分でしょう。 というより、繰り返しになりますが、それしかできようがないと思います。 そのサポートは、同時に、親自身が子の現状を見つめることともつながると思います。 乗り越える・受け止める、といった考え方を捨て、いま置かれている現状に対して素直に見つめる・生きるしかない。背を向けるにしろ、あるいは頑張るにしろ、あるいは怒ったりすることも、あらゆることが人それぞれですけれども、何かをやることは生きてゆくことなのですからね。 そのひとつひとつのどれかが善でその反対が悪、ということもなければ、ある事実を受け止める・受け止めないも自由だと思うのです。 精神論のような言い方をすれば、そういうふうになってしまうでしょうか。 けれども、そうするしかないことも、また現実ですよ。人はみな、そうやって生きてゆくのだと思います。
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- nakanosaka
- ベストアンサー率16% (48/285)
私には、余りにも難しいお話です。 昔通った高校の近くに『国立西多賀療養所』という病院があります。筋ジスのかたが多くいらっしゃると聞いております。また、『ありのまま舎』があります。 そちらにはご家族をサポートする為のシステムもあると聞いております。 これからの御奮闘お祈りいたします。 これしか申し上げられず、ごめんなさい。
お礼
早々に暖かい言葉をいただきまして、どうもありがとうございます。 お礼が遅くなり、申し訳ありませんでした。 子どもがいると書けないのです。 泣けてきてしまうのです。 でも、苦しい気持ちを気を遣わずに、 こうして誰かに聞いてもらったり、 我慢をせずに泣くことで、心が落ち着くことを知りました。 教えていただいた、国立西多賀療養所、ネットで調べました。 残念ながら、とても遠くて・・・。 ですが、「ありのまま舎」という言葉に惹かれました。 No.2の回答者様からも「ありのまま」という言葉をいただきました。 本当に、ありのままなんですね。 今日の現状、明日の現状、半年後の、1年後の、数年後の現状に ありのままに向き合う・・・・・。 これから、症状がどう進んでいくのか、予想もつきません。 正直、考えたくないのだと思います。 でも、ここで皆さまに教えていただいた「ありのまま」を 忘れないようにします。 「ごめんなさい」なんて言わないでください。 顔も名前もわからない息子と私のために、 祈ってくださるそのお気持ち、とても嬉しいです。 本当に、ありがたいです。 冷静に書こうと思ってもだめですね・・・ やっぱり涙が出てきてしまいます。 胸がいっぱいになってしまって・・・。 だけど今のこの涙は・・・悲しみのものではないです。 心から、感謝いたします。 どうもありがとうございました。
- eroero1919
- ベストアンサー率27% (3007/11113)
現代の科学は、宗教ではありません。だから、科学がいえることは「今の医療技術では、息子さんを治す方法はありません」という事実だけです。 >私の職場にも、生まれつきハンデを持っているお子さんがいて、 >でもそのお母さんはとても明るく、優しい方です。 >私は、そのお母さんのようになれるでしょうか? >どうしたら、受け入れて受け止めて、前向きに歩けるでしょうか? ふざけたことをいってはいけません。そのお母さんは「明るく振る舞っているだけ」です。なぜ彼女が明るく振る舞っているか、その気持ちが今は痛いほどわかるでしょう。その方は、誰も見ていないところで、人知れず、たくさん泣いたのです。それを誰にも見せていないだけです。どれだけそのお母さんがつらい思いをしたか、そしてその姿を出せなくてどれだけ苦しかったか、ようやく今、質問者さんはそれを知ることになったのです。どれだけ自分が何も知らなかったのか、そしてそれがどれだけ幸せだったのかようやく今気づかされたのです。 受け入れるなんてふざけてはいけません。受け入れられるものですか。もし今、どこかの神様が、いや悪魔がやってきてお前の魂を引き換えに息子を助けてやるといわれたら、躊躇することなく魂を差し出すでしょう。そういうものだと思います。神様でも仏様でも悪魔でもなんでもいい、どうか助けてくださいと祈ることしかできないのです。 質問者さんは無宗教ということですが、今、ようやく「なぜ世界中の人々が神様に祈るのか」を知ることになったということです。人間というのはあまりに非力な存在だということを思い知らされることになったということです。 今年の夏に映画になるブッダは、生きること、死ぬこと、老いること、病いを得ること、が「逃れられないことである」と知り(四つの門に連れて行かれた話です)、やがて「人は生かされているのだ」と達観します。 イエス・キリストは人々に「嘆き悲しんでいる者は幸いである。(中略)天国は、彼らのものだ」と語りかけました(山上の垂訓)。 人に受け入れられない哀しみ、答えの出ない宿題、に唯一救いを与えてくれるのが宗教です。神が私たちを必要としているのではなくて、私たちが神を必要としているのです。 日本でも人気のあの曲の歌詞を書いておきます。 Amazing grace how sweet the sound (アメイジング・グレイス。なんと素晴らしい響き) That saved a wretch like me. (私のような者でさえ救ってくださる) I once was lost but now am found, (かつてさ迷っていた私は見つけ出され) Was blind but now I see. (何も見えなかったが今は見ることができる)
お礼
早々のご回答、どうもありがとうございます。 私は、ふざけたことを申し上げたつもりはありません。 例のお母さんとは、今回の件より前から知っていますが、 いままでつらく苦しい思いをされたことは、 想像から出る域ではありませんでしたが、感じていました。 本当にご苦労された上での明るさ、優しさなのだと尊敬していました。 ですので、私も慟哭を繰り返して年数がたてば、 あのようになれるのだろうか、と一種の希望のように思えたのです。 しかし、今でも彼女は苦しい思いを抱えながら、 表ではそう振る舞っているのかも しれないですね・・・・。 それを今になってようやくわかってきたような気がします。 また、私が「無宗教」とわざわざ書いたのは、 このような事があると、 ネット上においても信仰に誘われることもあるかと思い、 それだけは意にそぐわない事だったからです。 神さま、あるいは仏様のような存在を信じていないわけではありません。 「どうかあの子を救ってください。」と祈る時も、たくさんあります。 祈ることで、事実が変わるわけではないでしょうが、 それで気持ちが落ち着くのも、また確かです。 回答をいただきながら、お言葉を返すようで申し訳ありません。 ただ私には、なぜご回答者様がケンカ腰なのか、 理解ができませんでした・・・・・。 言葉足らずの私の投稿にご不快な思いをされたのでしたら、謝ります。 申し訳ありませんでした。 回答に時間を割いていただきましたこと、感謝いたします。 どうもありがとうございました。
お礼
早々にアドバイスをいただきまして、どうもありがとうございます。 何度も何度も、読み返させていただきました。 仕事の最中は息子の病気のことを考えないように出来ますが、 一人で車に乗っているときや帰宅すると、急に胸が苦しくなってきます。 そんな中で、うまく返事が書けるかどうかわかりませんが、 どうがご容赦ください。 受け入れなくて、受け止めなくていいんですね。 ありのままに向き合う・・・・。 呪文のように心の中で唱えています。 私は、まだ症状が軽い段階なので 周りに対しての怒りはありません。 なぜあの子が・・・とは毎日思いますが、 他のしあわせに対して恨み、つらみをなぜか感じないのです。 でも、これから症状が進み、あの子の変化が見えてきたら どうしようもない事への怒りを覚えるかもしれません。 拒絶はありませした。 「筋ジストロフィーの可能性が非常に高いです。」と医師に言われた瞬間に、「嘘!だって家系に筋ジスはいません!!」と くってかかってしまいました・・・・。 目の前が真っ暗になったみたいでした。 息子自身が向き合うのが先決なんですね。 きっとあの子も、ネットで色々調べていますが、 実際の筋ジスの方を知っているわけではないので、 普段通りに振る舞うことができるのかもしれません。 自分のからだが具体的にどうなっていくのか、 たぶん想像ができないのだと思います。 今朝は、春休みに入学祝いで買った腕時計が、 買った際には手首にぴったり調整してもらっていたのに、 ゆるくなってしまった、萎縮が進んでいるのかなと言っていました。 「うーん、しょうがないよ、動かしてないから余計ね。」と答えました。 私はこの1ヶ月、何回「しょうがない」と繰り返してきたことか・・・・。 息子に対して、嘆く私の両親に対して、そして私自身に対して。 そうしながら、受け入れなければ、共に闘わなければと 言い聞かせてきました。 無理、しなくていいんですね。 今日の現状を、明日の現状を、半年後の、1年後の、数年後の・・・ そのときの「ありのまま」に、向き合っていればいいんですね。 親は親。子は子。 本当にそうだと思います。 どんなに代わってやりたくとも、私にはあの子の人生を代わってやることはできない。 私や主人がいなくなった後も、あの子は生きて行かなくてはいけない。 そのために、子ども自身が自立しなくてはいけないんですよね。 心に寄り添うことだけは、忘れないようにします。 これからの、課題だと思います。 「素直に見つめる、生きていくしかない。」 シンプルながら、とても力強い言葉をいただきました。 ごめんなさい、胸がいっぱいで書けなくなってきてしまいました。 色々と、本当にどうもありがとうございました。 心から、感謝いたします。