なぜ残る?平城京&難波宮
夜分に失礼します。
来週木曜日から教育実習に行く事になりました。対象は中学2年生、教える内容は歴史の奈良時代からです。
平城京についての説明をしようと思ったのですが、イメージを生徒にわかそうと思い・・・学校が大阪府寝屋川市にある私立高校なので、平城京近辺に住んでいるもしくは遠足その他で見た事がある生徒は多いと思います。そのため、「近鉄奈良線で西大寺を出た後に広がる公園みたいなのが平城京の跡だよ~、大きい朱色の門が電車からも見えるでしょ」と説明しようと考えています。
そこでふと自分自身疑問に思ったのですが、なぜ今もあのような広大な規模で残っているのでしょうか?難波宮も、あのような一等地に広い範囲であります。
今は保護を受けていて、公園のような常態にするよう義務付けられているのでしょうが・・・それまではどのようにして利用されていたのでしょうか?長年農地や住宅地に利用されていたのを、現代に入って発掘調査をし、それから保護されたのですかね~。お詳しい方や地域住民の方、ご回答よろしくお願いします。
ちなみに私は歴史学(正確には文化史学)を専攻としているので、専門的なご回答もある程度理解できるかと思います。
お礼
ありがとうございます。おかげで宿題が終わりました