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なぜ残る?平城京&難波宮
夜分に失礼します。 来週木曜日から教育実習に行く事になりました。対象は中学2年生、教える内容は歴史の奈良時代からです。 平城京についての説明をしようと思ったのですが、イメージを生徒にわかそうと思い・・・学校が大阪府寝屋川市にある私立高校なので、平城京近辺に住んでいるもしくは遠足その他で見た事がある生徒は多いと思います。そのため、「近鉄奈良線で西大寺を出た後に広がる公園みたいなのが平城京の跡だよ~、大きい朱色の門が電車からも見えるでしょ」と説明しようと考えています。 そこでふと自分自身疑問に思ったのですが、なぜ今もあのような広大な規模で残っているのでしょうか?難波宮も、あのような一等地に広い範囲であります。 今は保護を受けていて、公園のような常態にするよう義務付けられているのでしょうが・・・それまではどのようにして利用されていたのでしょうか?長年農地や住宅地に利用されていたのを、現代に入って発掘調査をし、それから保護されたのですかね~。お詳しい方や地域住民の方、ご回答よろしくお願いします。 ちなみに私は歴史学(正確には文化史学)を専攻としているので、専門的なご回答もある程度理解できるかと思います。
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ぜひ子どもたちに伝えていただきたいことがあります。 それは、「地名」の大切さです。 谷川健一著『地名の話』で読んだのですが、平城京が奈良のどの辺にあったのかを確定する手がかりが「大黒芝」という地名だったということです。 詳細は添付URL「奈良の昔話」をごらん下さい。 長岡京も地名が手がかりになりました。 http://kyoto-np.jp/kp/rensai/kyuto/ren07.html
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平城宮跡・難波宮跡が放棄されてから今にいたるまでの詳しい変遷はほとんど知りません。このことを正確にご存知の人は沢山おられると思いますが、一般的なこと?として…。 人為的に構築・維持された古代の首都がその場所を移転した後、その機能が放棄された土地はその時からさびれる一方であったと思います。 その後は、他の普通の土地と変わらず、多くの時間を「農地・宅地等」として千年以上にわたり私有され利用されてきたのではないでしょうか。 また、いつの時代でも過去を知りたい・歴史を明らかにしたいという欲求を人は持っていたでしょうから、伏線的にでも、個人的に過去の首都の場所や範囲を研究した人がいたと思います。 その土地の利用方法を、私的利用から公的利用へと大きく変換させたのは、近代以降ではないでしょうか? それは「国策」であったかもしれません。そこまで達していなくとも、公的利用の実施を支えた思想背景は「国家」としての「正当性」「継続性」などを世に知らしめるということがあったと思います。そして、国民にそれを意識させるということが重要な使命の一つではないかと思います。 中国が夏・殷などの古代文明都市の発掘調査を国の機関が実施していることは(共産圏なので国が実施するのは当たり前ですが・・・)、歴史学者の考えは別として、政治家的には、平城宮や難波宮の場合と似た現象ではないかと思います。 ご要望とは違う返事かもしれませんが、個人的に思うところでということで…。
- yuyuyunn
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こんにちは こちらが参考になりますか? http://www.pref.nara.jp/1300/index.html 発掘関係 http://www.rekishikaido.gr.jp/time-trip/tobira/tbnara.htm http://mytown.asahi.com/nara/news.php?k_id=30000140603120001 平城京を見ると個人的にわくわくします
- 6dou_rinne
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平城京については、町の位置が過去の平城京よりずれたためにあのあたりは農地になっていましたが、発掘した結果遺跡が出てきたので公園として整備したということです。 もちろん建物はあとで復元したもので、残っていたわけではありません。