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地球はみんなのもの(2)

お世話になります。 「地球はみんなのもの」と言う質問の、続きです。 http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=667229 地球はみんなのもの(Q1)で、いろいろなご意見を頂きました、私の結論は出ていませんが、 地球は誰のものでもない(A1)自信は有りませんが、否定的表現のほうが正確なのかもしれません。 (Q1)と(A1)は、結果的には同じ様な意味になりますが、「地球はみんなのもの-だから-大切にしよう」「地球は誰のものでもない-でも-大切にしよう」微妙な違いか有ります、難しいですね。 このあたりはひとまず、棚上げして、先に進みたいと思います。 わたしのものは、私の物(所有) あなたのものは、あなたの物(所有)(Q2) 現実として、上記の2行を否定しては人間の社会は成り立ちません。 (Q1)・(A1)と(Q2)を比較すると、矛盾又は転換があるような気がします。 この、「わたしのもの」は、どのあたりから始まるのでしょうか? あるいは、矛盾や転換などないのでしょうか?

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回答No.5

非常にややこしい問題ですので、私はまったく関係ない事を答えているのかもしれないのですが、お手柔らかにお願いいたします。 「わたしのもの」が始まるのは、人間が自意識を自分自身のものだと思った時からのような気がします。 自意識は人間が自分の力で獲得したものではないにも関わらず、人間は自意識内でしか考える事が出来ない為に、自意識をあたかも自分のものだと思い、その範囲内で獲得するものは「わたしのもの」になっていったのではないでしょうか。 デカルトが「我思う、故に我在り」というのはまさに自意識を獲得したというのが推し量れます。古代ギリシャの時代から続くヨーロッパ思想の伝統というのは、何かについて考える、という事のような気がします。神についても考える。人間の自意識を主体にして神を客観視する。そして神の創造者としての位置に人間が科学などを通じて徐々に上り詰めていったのではないでしょうか。 昔、自然、地球を畏怖していた人間は神の存在を作る事により、地球は神のものであると思っていたと思います。そのようななかで行われる物々交換は   わたしのものは、私の物(所有)   あなたのものは、あなたの物(所有) はもちろんですが、それを超えて、丸ごとひっくるめて、神の所有物だという思いがあったのではないでしょうか。日本の神道もこのような考えに通ずるものがありますね。 >「わたしのもの」は、どのあたりから始まるのでしょうか? の質問に対しての答えを自分なりに答えてみました。 >矛盾や転換などないのでしょうか? ということですが、創造主という概念、そしてそれはある時代では当たり前の思想であった、を取り入れるとなんでこのような矛盾が起こるのかが分かるような気がしますが、細かくはよくわかりません。ただ、いかなる物質、もちろん自意識も含めて、も自分が保持していない、第三者のものである(例えば創造主や神)とすると何も矛盾点など起きないですね。ということは物質、自意識などなどが人間の所有物だと信じ始めることこそが、もし矛盾や転換があるとするならば、それらを引き起こしている原因なのではないでしょうか。 まったく自信はないですし、質問者さんの欲しているような答えではなく、全く的外れな事を書いているような思いもあります。その場合はただ無視してください。質問者さんの疑問が晴れる日が来る事、そしてもしその日が来て、この回答が何らかの意味でそれを手助けをすることが出来たならば、非常に嬉しく思います。

noname#15238
質問者

お礼

powerandterrorさん、ご回答有難うございます。 >お手柔らかにおねがいします。 意外ですね、人畜無害、論争嫌いの平和ボケ、自分でそう思っていたのですが、そのように見られるとは、私自身、反省が不足ですね。 私は、大きな勘違いをここでもしていたのかもしれません、「地球はみんなのもの」から「わたしのものは私の物」へ変わったと、無前提に考えていましたが、逆だったのかもしれませんね、ただ、質問の不出来で誤解を与えてしまいましたが、どのあたりとは、時間の問題ではなく、ticyさんの言われる「領域」問題です。 わたしのものの集まりが、みんなのものになる こちらからも、考えてみる必要が有りますね、参考になりました。

その他の回答 (8)

  • mktoolll
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回答No.9

物理的な視点から考察すると、「私たちは地球のもの」という表現が適切な感じがします。 「地球は宇宙のもの」「宇宙はさらに大きな宇宙のもの」と言う感じでしょうか。 ただ、私たちの(少なくとも私自身の)想像力は宇宙の果てさえ陵駕して無限に膨らみます。 想像力が哲学の一端を担っているのだとすれば、「地球は私たちのもの」という言葉は哲学的な考察の上で矛盾しないと感じます。 少なくとも、それに思いを馳せている時の私自身においては地球は「私のもの」であるのです。 もちろん、それに思いを馳せているあなた自身においては地球は「あなたのもの」ではないでしょうか。 哲学的には、あなたの車や家は私のものでもあるし、私のパソコンや家はあなたのものでもあるのです。 だからといって窃盗は許されるかというとそうではありません。現実世界と空想世界は別物ですものね。 別物は、共有する価値観もあれば全く逆の価値観の場合もあります。理想と現実、表と裏、それを全く1つのものとして捉えようとすることにそもそも矛盾があるように感じるのですがいかがでしょうか。 地球は私たち人間のものであると同時に地球上に住む全ての生物のものであると同時に全ての物質のものである、しかし、地球は何ものにも所有されない崇高なものであって、限りなく無に等しい確率で生命を育むその姿は限りなく神に等しい。であれば、少なくとも私たち人間は地球に対しなんらかの畏敬の念を抱くべきではないだろうか。 と最後になんか立派ぽいことを書いてみました。 理想です。私の。 現実の私は、ポイ捨てするような駄目人間。

noname#15238
質問者

お礼

mktoolllさん、ご回答有難うございます。 >現実の私は、ポイ捨てするような駄目人間。 私も同様ですが、こうして自分を卑下して、何かしらの免罪符を手に入れていると考えると、問題ありと言ったところでしょうか(笑 >理想と現実、表と裏、 そういえば、「理想」と言う言葉は久しぶりに聞きます、ただ、この問題が表と裏の関係かどうかは難しいですね。 所有に関しては、プラトン等の時代からいろいろな考えが有りましたが、科学の発達に伴い、新しい「所有」の「あるべき論」が出てきてもいいような気がするのです。 物理学を初めとした科学の発達は、逆に地球に対する「畏敬」の念を忘れさせてしまったようですね。 有難うございました。

  • cse_ri2
  • ベストアンサー率25% (830/3286)
回答No.8

所有について、少し考えてみます。 新米の季節ですが、最初のお米の所有者は誰でしょうか。 もちろん、お百姓さんですね。 作りたての新車の所有者は誰でしょうか。 自動車会社のものです。 つまり「作った人」が最初に所有権を主張できると思います。 では地球はどうでしょうか。 地球を造った人がいるなら、その人のものでしょうが、 人間は地球を造れませんね。 もし創造主がいるとするなら、地球の所有権を主張できる のは創造主(=神)しかないと思います。 しかし人間の分際では、創造主がいるかどうかも分からない のが現実です。 少なくとも「人間の所有物ではない」ということは、言える かと思います。 強いて言うならば、人間は「地球を借りて生きている存在」 かもしれませんね。 あるいは「勝手に他人の土地を占拠している存在」でしょうか。

noname#15238
質問者

お礼

cse_ri2さん、お久しぶりですよね。 今回の質問は、「矛盾・転換」についてですが、本質は「所有」ですから具体的な例を上げて頂き、大変参考になります。 ちょっと、回答していただいた人の説明方法のパクリですが、 1)自動車は鉄鉱石がなければ作れませんし、お米も太陽や水、土壌を無視して作られる物ではありません。 2)労働の高度な分業によって、作った人も曖昧になっています。 このあたりが、「作った人の所有権」に対する疑問ですね。 借りていると言う考え方も理解できるのですが、なんとなく、人間にとって地球は、外的存在ではなく、人間が地球の部分そんな感じがするのですが、よく解らなくて、説明できません。 本当に有難うございました。

noname#5270
noname#5270
回答No.7

ジャイアンは言います、「お前の物は俺の物、俺の物も俺の物」と。 これは笑えるマンガの話ですが、 現実でも とある合衆国の政治家は同じ事を言っている様に思えます。 私が前のご質問で一番納得したご回答が「地球さんの意思はどーなのよ」ってヤツです。 ありゃぁやられましたね。 体育の時間、先生の話を聞かずに土いじりをしていたときの話を思い出しましたね。  「こらっ!そこ~地球をくすぐるなっ !!」 「私の物」とかは所詮、強者の為の言葉ですね。 残ったお饅頭は一体、誰のものか――子どものケンカにも、それは顕著です。 最終的には、地球さんと仲良くしといたほうが得であると思います。 人口爆発が進み、人類が火星に行く日もひょっとしたらヒョットシタラです。 そのときも言うのでしょうか――「ココは俺のモンだ!50年前に買ったンだから!」  「何言ってんだバカっ!あれはジョークだ!俺こそココをあの会社から買ったんだぞっ !!」 ……なるようにしかなりませんよ。 物自体を直観する以前に、物自体の所有はありえませんね。 少なくとも思考の裡 のみ には。 マイホームが欲しいなら、働かなくてはなりません。

noname#15238
質問者

お礼

want-my-pcさん、毎度のご回答有難うございます。 いつも「明るい」回答を頂き、さすがと感服しています。 今回の質問、当初は、「苦労して手に入れた、あなたのマイホームはあなたのものですか」と問い掛ける予定でしたが、そこまで徹底できませんね。 こういった質問は、大金持ちになってからするべきでしょう、私には一生出来そうもないですね、間違って質問してしまったので、暫らくほっておくことにします。 余談ですが、上の文章と、先生の思い出について。 戦争放棄の平和憲法を世界に唯一と誇らしげに教えてくれた運動おんちの先生を思い出します。 最近、近くで煙が上がっただけで忘れてしまうような誇り(先生個人の意味ではなく)だったんでしょうか。 それと、いつもこんなことばかり考えているわけでは有りませんから、ご心配なく。 最後から3行目と2行目については、よく考えてみます。 また宜しく。

  • tauhon
  • ベストアンサー率24% (104/421)
回答No.6

tauhonです。 >地球はみんなのものでしょうか tauhonさんのご意見は、借りているものでしたね。 しかし、現実の世界は、私のものは私の物(所有) 全体が所有できないのに、部分が所有できる事は矛盾しているような気がします。 どこかで(歴史の問題ではなく、規模と言えばよいのでしょうか)、「所有できないもの」が、「所有できるもの」に転換しているのではないでしょうか? 意味が少しだけわかったような気がします。 それでも質問内容と回答が違っていたらすいません。 「所有できないもの」が「所有できるもの」に転換しているのではなく、本来「所有できないもの」にもかかわらず、「所有できる」と勘違いしているだけだと考えます。  私の考えでは地球を「借りている」のであって、借りなければ生きられない人類は地球を長い間借りることによって勘違いしたものと考えられます。人類の愚かさです。 その転換点については諸説あると考えます。ある一点を決めることに意味があるとは思えません。 答えになっていないようですが、これが私の回答です。

noname#15238
質問者

お礼

前回の質問のお礼が礼を失していたにも拘らず、このような非常識な質問に、再度の回答を頂き、感謝に耐えません。 結論としての、人間の愚かさには、自信の反省を含めて同感するところです。 有難うございました。

noname#15238
質問者

補足

お礼の、「自信」は「自身」の誤変換でした。失礼しました。

noname#6165
noname#6165
回答No.4

僕の前回答の中の、展開(5)の補足です。 地球は、分割不可能なモナド(これ以上、「部分」に分けられないという、ものの単位、全単位)です。 そうでしょう? 地球は分けられない。 という事は、みんなで地球を所有していると言うことは、ですね、地球を以って、なにかを建設するという、壮大なヴィジョンの存在が推測されるわけです。   前回答を読んだ上で、この補足を読み足してください。

noname#6165
noname#6165
回答No.3

話が展開するところに、番号を振りました。(気が利いてますか?効き目はいまいちかもしれないですが。)   (1)私のものは、今やあなたのもの。  あなたのものは、もはや俺のもの。   このようなことも、現実の社会にはありませんか?   (2)これを地球にすると。   ・地球は、みんなのもの、のはずだった。 だけれども、今は、みんなが俺のものと言い出して、 引き裂かれてしまったのです。   ・地球は神様のもの。 だけれども、神様のいなくなった後は、みんなのものになりました。 ありゃ、いろいろ物語が作れますね。 「時間概念」をはさんだだけで。   (3)所有と言うものはいつかは、手放す事を前提で、常にあります。 なぜか? この世で死なない所有者はいないから。 そして、その所有者も、最初から所有者であったわけではなく、いつか、手に入れたのです。 だから、いつかには、手放すのです。 手に入れる前と、手放した後は、状態は同じです。 が、わらしべ長者のように、手放しては手に入れ、手放しては手に入れとしてたらば、どうなんでしょうね。   (4)わらしべ長者の例から推測するに、ようは、建設って事でしょうか。 所有は建設。建設的行為の出現が、「所有」の生まれた瞬間である。なぜならばその時、ある物は、ある位置を占めなければ、建設は適わないから。 その位置を定めるために、所有が生まれたのだ(仮説)  (5)だから、地球はみんなのもの(所有)ならば、みんなで建設しよう。建設こそが、所有の前提だからである。 ばらばらでは、建つものも建たない。 そして、地球は分割できない。 それぞれの才能(生き方)で、できることをすればいいのです。   (6)そして、、所有物も、いつかは消えさるのです。 この地球も、建設されたものも。 所有物の無いところに、所有者はいません。   青い地球は何処にある?   それは、今を大切にしなければ、見つからないんじゃ、ないかにゃ?    fishbowl66さん。

noname#15238
質問者

お礼

Dragon_Brainさん、ご回答有難うございます。ご配慮いただき、大変読みやすかったです。感激物ですね。 (1) 世界は、物質とエネルギーの変換で成り立っているようですから、当然の事でしょう、わからないのは、人間の精神の部分ですね。 (2) 希少性や不足がなければ、そうなるのでしょうが、これはこれで一つの別の大きな問題ですね。本当に神様がいてくれれば便利ですね。 (3) ところが、どっこい、死なない奴がいるのです。 法人 別名資本 こいつが、手に入れたものを絶対手放しませんし、満足とは無縁の存在、いったいどこへ行くのやら。 (4) ジョン・ロックでしたか、「市民政府論」で、無前提に人間の肉体を自分の所有物として、そこから、自分が自然から取り出したものを、自分の所有と定義していました。しかし、現在、自然の有限さ認識されるにつれ、この部分を疑う必要があるような気がするのですが。 (5) だから、建設も単に、物質とエネルギーの変換ですから、地球の代謝速度を上回ってしまうと、地球の環境破壊につながりませんか。 (6) 同感ですね、いままですれ違っていながら、最後に合意できるとは、面白いですね。 違いの分るDragon_Brainさん、楽しい回答有難うございます。上のお礼は省略しますね。

  • ticky
  • ベストアンサー率36% (123/337)
回答No.2

再び。こんにちは。 私は、~の~というのは、テリトリーに入っているということだと思います。(逆に、「所有」という言葉も全く同様に定義可能だと思う) 「僕の彼女」といえば、僕の"領域"(この場合は領域の中でも"特別な領域")に、その女性が位置づけられているということですし。 「君の彼女」も然り。 「彼女」から少し離れて、「この服はあなたのものよ」といわれたとき、それは「この服はあなたの領域にあるべきものよ」といわれたのと同じだと思います。 幼い頃に、ものの取り合いをした記憶が微かにあります。人の取り合いをした記憶もあります。 たぶん、人間は、身の回りのものが、自分のテリトリーに入っていることを確認して安心するのだと思います。(もしかしたら、これは逆で、目の前のものが自分のテリトリーの外のものであると明らかだと、不安なのかも知れません。) この"領域"というのは、個人だけでなく、集団にも当てはまると思います。集団の"領域"にはいるものは、ひいては個人の"領域"に入ると思います。 集団は個人で構成されますから、集団の領域にはいっているものは、「共有している」ということになります。 相手と、「同じものを共有している」と意識できない場合、自分のテリトリーに入っていて欲しいものが、逃げていってしまうかもしれない。だから「所有欲」があるのかもしれません。 逆に、「共有している」意識でき、それが安心できれば、「所有欲」は現れないと思います。 この「共有」の違いが、"転換"だと思うのですが、どうでしょう。 「みんなのもの」というのは、"すべての人で共有している"ということで、ひいては自分の領域のものであるということができ、「誰のものでもない」というのは、"すべての人の領域に入っていない"ということで、自分の領域に(他人に関係なく)入れられうるという点で、ある意味自分の領域に入っているということできるので、「大切にしよう」につながるのではないかと思います。 本題からはずれますが、先日回答したときには、バレバレだったようですが、私は「~のもの」という言葉の持つ不明確性をごまかしました。 これは、議論の中で、「~のもの」の意味が、分裂してきたわけですが、この分裂について議論するのは、私はあまり実のあるものではないと思うからです。 そもそも言葉というものは、意味の固定されたものではなく、複数の意味を持ちうる、"幅のあるもの"だと思います。この幅を持った言葉から、細かい「意味」を抽出しても、少なくとも私にとっては「あぁ、そうなんだ。」で終わってしまうような気がするのです。(こんなこといってしまっては、元も子もないんですけどね。私はばりばり理系の人間ですから。) 哲学のカテゴリを見ていると、このような考え方をしている人はほとんどいないようなので、たぶん「そうなんだ」だけではすまないのでしょうけど、どうなんでしょう。私個人で到達するにはまだまだ時間がかかります。 (徹夜明けで眠たい....)

noname#15238
質問者

お礼

tickyさん、ご回答有難うございます。 この質問は、私から見ても、答え難い質問ですね。 おそらく、私が正直な気持ちを隠しているからでしょう。 私は、いわゆる共産主義者では有りませんから、この場を使って私有財産を否定する宣伝をしようとは、思っていません。むしろ、そのことを警戒して、言葉を選んでいるのです。 しかし、私の考えは、結局は、素朴な私有財産に対する疑問ですから、「転換」「矛盾」といった言葉を使用して、かえって質問を曖昧にしているのかもしれません。尤も、これもバレバレかも知れませんが.。 >これは逆で、目の前のものが自分のテリトリーの外のものであると明らかだと、不安なのかも知れません。 個人的には、不安の方に一票と言ったところでしょうか。 個人、家族、地域、会社、領域内の意識による「転換」は、この不出来な質問を、上手く理解していただけたと、感謝しています。 >この「共有」の違いが、"転換"だと思うのですが、どうでしょう。 賛成です、ただ、意識による「転換」は、なんども行ったり来たりすると考えられますから、「私のものは私の物」と言う確信には、まだ別の「転換」があるのかもしれません。 お忙しいところ、本当に有難うございました。

  • tauhon
  • ベストアンサー率24% (104/421)
回答No.1

 私の能力に問題があるのか質問の意味がよく分りません。そして、この質問に答えてどんなことを明らかにしたいのか、何がどう役に立つのかをもう少し説明願えませんか? 「私のもの」が始まるのは人の持つ独占欲から来るものと考えます。アダムとイブの世界では誰が地主かなんて考え自体がありませんでしたから。

noname#15238
質問者

補足

tauhonさん、前回に引き続きご投稿有難うございます。 前回のご回答に対するお礼の不出来を気にしていましたが、反省を伝える機会を頂き、二重に感謝しています。 質問の意味について、出来る限り説明してみます。 地球はみんなのものでしょうか tauhonさんのご意見は、借りているものでしたね。 しかし、現実の世界は、私のものは私の物(所有) 全体が所有できないのに、部分が所有できる事は矛盾しているような気がします。 どこかで(歴史の問題ではなく、規模と言えばよいのでしょうか)、「所有できないもの」が、「所有できるもの」に転換しているのではないでしょうか? それとも、上記の疑問は、私のバカさ加減を現しているだけなのかどうか。 この質問は、「所有」を明らかにする為の質問の一部です。 >何がどう役に立つのかをもう少し説明願えませんか? 私が助かります(笑 根本的に、人間が何のために存在するかわからないのに、何が役に立つとかわかるのでしょうか。私はただ単に知りたいのです。 真面目な話を少し、人間は一人で生きられない。デカルト的な私の「第一原理」 そこで、交換が発生しますが、交換の前提として「所有」が問題になるのです。存在そのものが行為であれば、私の存在が私の「所有」かどうか、そこまで確かめたいと考えています。おそらく、普遍的なものは、シンプルで美しいと信じています、だから、私は真面目に馬鹿なんです。 私にとって哲学は、科学的に証明されないことを、素朴に考えることです。

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