正史としての六国史の最初に名前がある『日本書紀』には「ヤマトフミ」の読み仮名が振られていますが『書紀』に続く『続日本紀』には読み仮名はありません。『書紀』の記述が神武から持統に至る時期を扱っているのに対し『続紀』では文武から桓武の時代を対象としています。ということは文武の時代には「日本」を「ヤマト」とは呼んでいなかった、或いは政治的概念としての「ヤマト」は既に存在していなかった可能性が考えられます。
『書紀』の呼び方は坂本太郎の古典的な省察として次の典拠があります。
江戸時代の国学者、伴信友に依れば『日本書紀』は元々『日本紀』であった。その根拠としては平安期の 弘仁年間に学者が「書」の文字を書き加えた。『続紀』の養老四年の条に「日本紀」との記載が見られるこ とや『書紀』の後を記した正史が『続紀』であることに鑑みて一定の妥当性はある。しかし同時に『令 集解』に引用されている「古記」や『万葉集』の「左注」には『日本書紀』の散見されることから『書紀』 が「日本紀」であったとは確定できない、
という曖昧な言説に終始しています。にもかかわらず、坂本が「書紀=日本紀」のスタンスを崩さないのはその編纂スタイルに立脚した論理です。「書紀」は紀伝体で記されている。紀伝体は史記に見られる「王の伝記(本紀)」に端を発し「王」は天命を受けた正当な支配者である。従って「紀」は正当な支配の歴史を意味する。つまり「王家の歴史」は「国家の歴史」であることに等しい。
しかしながらこの“古代史の大家”の言説は現代の学界レベルでは最早“化石に等しい存在”と呼ばれても過言ではありません。高校レベルでも通用しない論理です。
仮に『書紀』が王家の歴史だとしても、この史書ともう一方政治システムとしての統治機構の原理となった根拠を求めるならば「律令」の存在があります。現実に機能したのは律令であり王家の歴史を記すことと「国家の履歴」を記すことの間には隔たり以上の矛盾がある、このことはもうお分かりでしょう。
『書紀』が編纂された時期にあって『続紀』が編纂された時期には既に無かったモノ、或いは『書紀』の時期にあったモノが『続紀』の時代には質的な意味で既に別のモノへと変化していた可能性を検出するならば、それはシステムとしての政治機構の存在であり、それを支える「法システム」以外には存在しまい。
「ヤマト朝廷」があるではないか、という向きには「ヤマト朝廷は国家ではなく、ヤマト地方を収めた豪族の集合体であって1つの王権にすぎず、そこに政治システムを構築する原理すらない。従って国家組織と呼ぶことはできない」ことを説明させていたきます(実際に学術用語としての「大和朝廷もしくはヤマト朝廷」との表記を使用する研究者はおりません)。
政治システムとしての国家が存在していなかった時の歴史を記す以上は、そこに「国号」を定めた記載がないことは論理としての必然的結論であることは明白です。
但し1つ難点があるとすれば、それは『書記』の記述が律令国家を築いた天武及び持統で終わっている点です。本来ならば『書紀』の記述は天智で終わり、『続紀』の冒頭に天武の記述があって然るべきできあるのですが。
お礼
あっ、そういうことですか。 私も、いろいろ想像したのですが、そのような理由によるものとは、 まったく思いもよりませんでした。 ご教示ありがとうございました。