- ベストアンサー
「源義経が生きていた」と言う説
東北方面に旅行するたびに、とても気になることがあるんです。 源義経は、兄である源頼朝に文治年間だかに平泉で殺害されたはずですよね。偉大なる兄弟喧嘩の末に。 平泉や遠野、八戸なんかの観光名所に行けば必ず「義経北方説」とか言う看板が立っていて、「源義経は平泉で戦死せずに蒙古に渡ってジンギスカンになった」というようなお話が書かれているんですが、あれは単なる伝説なんでしょうか? 伝説が残っている処を辿ると、確かに平泉から青森方面まで源義経の足跡が残っているらしく、その上、かの地の看板を見れば、義経が逃げる途中、各地に置いていった鎧や太刀や直筆の書状等の遺物が残っているとそうです(看板によると教育委員会のお墨付きみたいです)が、逃亡しえた可能性はありえたんでしょうか? 素人の私からすると、チンギス・ハンになったらしいと言うお話は飛躍が大きすぎる気がしますけど・・・。
- みんなの回答 (11)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
古来有名人というのはなかなか死ねないものです。 何とかして生かしておきたいという後人の願望が伝承や異説となってのこるものです。 後世はっきりした証拠が出て死亡が確認されるまではこのような伝承は生き続けるものです。 アレキサンダー大王しかりアーサー王伝説しかり洋の東西を問わずこのような事実は存在します。 しかし冷静に考察すれば義経伝説はあり得ぬ事とおもいます。 当時義経は藤原氏の頼人といえどちらかといえば望まれぬ存在でした。 既に頼朝の威令が確立し藤原氏もその埒外に居ることは許されない程の時勢でした。 この為藤原氏の延命を図る為義経暗殺を計画したのですから藤原氏側に準備の遺漏はありません。 十分な兵力を集め包囲し脱出を防いだと思われます。 義経に心酔していた弟国ひらも殺している位です。 このような状態で足弱な妻子をつれて逃げることは不可能と考えるのが普通です。 義経に忠実な郎党らも討ち死にしています。 東北地方は藤原氏の領地で命令は行き届いたでしょう。 義経関連の遺物というのは想像の産物に過ぎないでしょう。
その他の回答 (10)
- Shirozaru9
- ベストアンサー率36% (89/245)
私が大学生で教養部だったときに受講した地理学の教授は、北海道・樺太・千島の古地図を研究している人でした。 この先生が、義経伝説に言及したことが有ります。 先生の結論は、こうでした。 義経から100年ほど後の時代の人で、日蓮上人の直弟子の1人だった「日持上人」という人が居た。 この僧が、東北から北海道へ布教した。 さらに、樺太から大陸に渡り、現在の中国東北部まで行って、そこで亡くなったらしい。 義経伝説の場所と、日持上人の足跡の場所は、かなり一致する。 義経伝説の正体は、日持上人ではないだろうか。 「少なくとも、鎌倉・室町時代に、東北-蝦夷地-樺太-満州の交易ルートができていて、人の往来が有った」 後年、義経伝説が出るたびに、私はこの話を思い出します。 しかし、日持上人が樺太や満州まで行ったというのも、日蓮宗の中では伝説として信じられているものの、必ずしも検証されているものではないようです。 日持上人の墓が満州にあるというのも、日本の満州国建国の為の作り話であるとの反論が出ていますけど。 下記は、日蓮宗の道南布教所サイトにある、日持商人のページです。 先の先生の結論は、源義経や日持上人のような伝説的な人物だけが北へ渡ったのではなく、北方の交通ルートは現代の我々の想像以上に活発だった、ということです。 この話を聞いた頃、まだ樺太はソビエト連邦でした。中ソ対立が激しいし、満州から残留孤児が日本へ帰ってくるのは、もう少し先でした。 義経や日持上人の歩いたとされるルートは、失地回復を願う落武者か、大きな野望を持った英雄しか歩けないイメージだったのです。 でも実際は、少し冒険心のある商人なら何度も往復した道だったようです。
お礼
間違って補足欄にお礼を書き込んでしまいました。申し訳ありませんでした。
補足
Shirozaru9さんこんばんは。 私が子供の頃、満州から復員された方から、シベリアのナホトカに伝・源義経の墓があったと聞いています。またその方は、千島に聖徳太子が渡って異民族を征伐したと言う伝説も語られました。 奥州も砂金の産地であり、現在の北海道、そして黒竜江当たりも貴金属の漂砂鉱床が高い密度で点在する。そうすると、金売り吉次と言う架空人物も蝦夷地に渡航していた可能性もある・・・金の流れ=人の流れ。 以前私が深い絶望に有った時、北日本を車で旅行した事があります。都会の喧騒を離れ広大な原野の一本道を走った時、気が付けば心には悲嘆も不安も無く、だだひたすらに爽快でした。 古来北へ向かった日持上人も、そしてその他の未開の地へ向かった諸氏の心も、きっとこの爽快感を感じたのではないかと、今私は思いました。北には人を勇気付ける何かがあるのかもしれませんね。 Shirozaru9さんには、また別の質問でもでお話を聞ければ幸いです。 貴重なお話有難うございました。
- toro321
- ベストアンサー率29% (1222/4138)
高木 彬光氏著書の「ジンギスカンの秘密」をお読みください。 かなり突っ込んで書かれていますよ。しかも面白い。 角川文庫から出てます。
お礼
こんばんは。toro321さん、お久しぶりです。 久々にこのサイトにやってきました。 当方は相変わらず化石燃料の先物の高騰で、燃料費のコストに悩まされてる昨今です。 個人的には4月にガソリンが安くなったのを期に、思い切って連休を東北で過ごしてきました。 toro321さんも歴史関係に興味があられたんですね。平泉で日本刀の原点と言われる古い「舞草刀」と、そのタタラの跡地を見学してきました。タタラ跡の周囲に雨に洗われて古い時代の鉱屑が散在していたのですが、その中に磁鉄鉱(スカルン鉱床由来?)の鉱石のような物が混じっていたので、もしかすると砂鉄だけでなく鉄山からの鉱石を精錬していたんじゃないかと思いました。だとすれば、古代の東北では大和よりも高度な鉄の生産技術を持っていたのかもしれません。 >高木 彬光氏著書の「ジンギスカンの秘密」 是非購入してみます。古代の東北は大陸との交易が盛んだったようですが、もしかすると平泉には大和とは別系統の精錬技術が大陸から渡来していたのかもしれません。 以後も宜しくお願いします。アドバイス有難うございました。
- nene-k
- ベストアンサー率42% (118/279)
色々な見方ができるのも歴史の楽しさだと思っていますので、史実は史実として、ロマン溢れる大陸へのお話に花を咲かせる事も大好きです。 義経の平泉から後に関しては、チンギス・ハンの前に、ホンカンカムイの伝説というアイヌのお話もあるそうですよ↓ http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2006/12/post_c596.html
お礼
nene-kさんこんばんは。 面白いお話ですね。コルテスがケツァルコアトルに間違えられた話に似ていますね。 「キムタク」と言うと、「イケメン」とか「良い男」の代名詞であるかのように、「義経」が日本の理想の武士像の代名詞に見えてくるように思えてきます。もしかして、全国に出没した「義経」とは、悲運の落ち武者で、異邦人の総称?に見えてくるから不思議です。 義経が生存していても自害していてもどちらでも良くなってしまいますね。これが歴史のロマンと言うものなんですね♪有難うございました。
- konokonoko
- ベストアンサー率30% (29/94)
当然こういう話は否定論が山ほどあります。否定するのが現実的でオトナであるという風潮ですが、ただ、私、判官びいきとしては否定論もそれほど確定的にも思えないというのが正直なところです。 特に英語圏的な発音では「ゲンギ(源・義)ハン」と聞こえる発音ということもあります。 それにチンギスハンの墓も見つからないだとか、まだまだ想像をかきたてる部分は多い状況なのではないでしょうか。 単にオトナゲナイという寂しい否定論で忘れ去ると言うには惜しい素材だと思います。 私は肯定論者としてできる限り追求したいと思っています。
お礼
konokonokoさん、こんばんは。 なすよしおもふかな・・・成吉思汗・・・チンギスカン。 私が看板を見て率直に思ったのは、義経が逗留した地点を線で結ぶと、一つのラインになるようですが、あれって私のような初めて見た人間には鮮烈に見えるんです。史実と言われることと、全く逆の説が唱えられてるわけです。地域興しとしたとしても、藩政時代にここまで整備可能だったか、それを実行しえたとしても、そのメリットて何のためにあったのだろう・・・と疑問がわいて来るんです。 アドバイス有難うございました。
- kenkey
- ベストアンサー率19% (8/42)
お初です Wikiに記載が無いところを1点述べます。 義経北行伝説の跡を辿ると、実は奥浄瑠璃(奥州の浄瑠璃)の辿った跡とほぼ一致します。義経が北に逃れた話は奥浄瑠璃の語り部が語る全く違う話と混同されたものとも考えられます。 いずれにせよ義経北行伝説は室町期以前には無かった話です。 もっと言えばチンギス・ハン=義経は江戸期以降の話になります 伝説の足跡を検証してみると、義経一行を泊めた、とか、風呂に入れたとか休んだ場所・・・など現在では検証不可能な物が多く、単なる伝説と考えられています。 また、北海道に渡ったとする事に付いては北海道経営政策上都合の良い話だったとも言われています。
お礼
kenkeyさんお初です。宜しくお願いします☆ 久々にガソリンが安かったので、平泉だけの観光の予定が、義経伝説の看板を読んで心変わりして、遠野まで足を伸ばしてみました。 自動車を運転しながら考えたんですが、義経は奥州藤原氏に庇護されて、平泉で何年か過ごしたわけですよね?だったら義経が逃げた時ではなく、本当に生きていた時に立寄った処だったんじゃないかと思った時もありました。 >実は奥浄瑠璃(奥州の浄瑠璃)の辿った跡とほぼ一致します 奥浄瑠璃につては知識が無いのですが、琵琶法師の戯曲集みたですね。是非読んでみます。 歴史は不得意なので、義経を期にちょっと古代の歴史物を読んでみたくなりました。次に何かまた質問する事があると思いますが、その時は良かったらkenkeyさんのお力を貸してくださいね。有難うございました。
- yomyom36
- ベストアンサー率33% (1/3)
源義経については他の方が答えているので、ちょっと違うことを。 あなたの目が留ったように、源義経の伝説はやはり観光のネタになるので自治体や地域社会としては整備するでしょうね。 源義経が生き延びたことを歴史的事実として認定しているのでなく、伝説として紹介し、義経のものとして伝世していますよという紹介の看板だったのではないでしょうか? 個人的に設立した看板だと完全肯定してしまっているのもあるかもしれませんが、自治体設立の看板では考えにくい。 またその鎧や文献が法的な文化財の指定を受けているかどうか私はわかりませんが、もし指定や登録を受けていてもそれは義経のものだからではなく、義経伝説はともかくとして、工芸品や歴史資料として文化財保護する価値があるということでしょう。義経だから価値があるというようなことが直接の理由ではないだろうと思います。すみません、そのものを知らないので推測ですが。 まあ、義経に限らず実は生き延びてどっかの王になるといった伝説は結構あって、源為朝などは御伽草子など有名です。日本人は好きなんでしょうね、判官びいき。
お礼
こんばんは。私は元々理系で歴史が不得意なもので(汗) おっしゃられるように、あの義経北行説の看板は、やっぱり「伝説」としてのネタ、ロマンの範囲なんでしょう。伝義経持物という物(写真で見る範囲ですが)も、経年変化等を考慮すると疑問の余地のある物が多いと思いました。ただ、平泉周辺散策すると、義経が逃亡したと言うポイントが各々リンクして点が線になる・・・あまりに伝説にしては出来すぎた、まるで史実に見えてくる・・・「こう言う説もありかな?」と思えてくるから不思議に思い、私の歴史観の欠損部分を補う為に皆様のお力をお借りしようと思ったしだいです。やっぱり判官贔屓ですか・・・。
- blazin
- ベストアンサー率50% (20251/40149)
信じてみたいロマンがありますよね。 僕も興味があって、その伝説のある土地には結構訪れましたが 共通するのは凄く大切にされているという事ですよね。 死をどのような形で迎えたのであれ、後世の人たちが伝説を作りたくなるような、そんな人物として崇められているのはやはりそれだけの人だったんでしょうし。死後に限らず、彼にお供をしていた家臣たちに賜れた品々がめぐりめぐっていつの間にか遺物として、時には死後の痕跡として捉えられているケースもあるみたいですしね☆
お礼
blazinこんばんは。 私の視点が義経にばかりに行って、彼には忠臣が居たのを忘れていました。そういえば義経には元々家臣が居らず、行く先々で次第に有能な家臣が集まって来たんでしたっけ。自分の命を投げ出してまで尽くす価値の有る主君だった・・・つまりそれだけ周囲から慕われる人間だったと言うことですね。もし生きていたら、私も義経に会ってみたいですね。どんな人だったんでしょう・・・ああ、私も義経のような上司に恵まれたい!!(笑) 家臣の持ち物が伝わるうちに義経の持物と変性していった・・・ありえますね。別の視点からのご回答有難うございました。
- at9_am
- ベストアンサー率40% (1540/3760)
義経が死んだのは、有名な弁慶の仁王立ちなどの衣川の合戦の際です。 実際にこの戦で首を取られたかどうかは色々な説がありますが、生き延びていたとしてもその後の歴史の表舞台に一度も出てこないので死んだと扱ってもほとんど影響がないです。 生きていて帰農した、ということでも構わないですが、それだと奥州征伐の際に担がれてこなかったのはなぜだ、という質問に答えなければなりません。 生きていて一番簡単なのはどこか別のところに行った、という説明で、北海道(北海道の日本海側にも、結構「弁慶の**」という巨岩がある)を経てモンゴルに渡る、というのが多分合理的なのでしょう。ただし、当時は東北と大陸は日本海を通じて交易をしていましたから、直に渡ることも可能でしたから、北海道まで陸路で逃げることはないのですが。 いずれにせよその場合、現在の中露国境付近に上陸することになります。チンギスハンはモンゴルなので、大分内陸まで移動しなければなりませんね。 因みに。 一説には義経=チンギスハン説は明治初期の学者某が「元朝秘誌」の冒頭にチンギスハンが義経の孫である云々と書かれている、と言いだした(実際にはその記述はない)ことが流布するきっかけだそうです。それ以前からもありますが、トンデモに属する話だったようです。 江戸中期から末期にかけての義経の人気は非常に高く、たとえば狂言や歌舞伎や芝居の全く関係ない場面にも 「義経公、ここにあらわれたるも、ずずいーっと辺りを見渡して、特に用もなかりけば、また下がり給う」 というような形(これは狂言ですが)で、義経が舞台を「横切る」という場面を時々見かけますね。
お礼
こんばんは。「ヒーローがヒーロー足りえるには最期が悲劇的であらねばなあらない」と言うある哲学書のフレーズを思い出します。 at9_amさんがおっしゃられるように、義経は古典の教科書や戯曲物の必須アイテムですね・・・お寿司で言えば「大トロ」でしょうか・・・それともまさか「ガリ」・・・?!。平泉の義経伝説の看板からすれば、日本史上最大のトンでも物に思えます。ですが真面目に読むと、偉く壮大な「出来すぎた伝説」にも見えてきます。 >義経=チンギスハン説 奥の細道で松尾芭蕉は「兵どもが夢の跡」と言ったように、芭蕉の時代には既に「義経の夢は完結していた」わけですから、比較的新しい伝説であると帰結したほうが合理性がありそうな・・・。丁寧なご回答有難うございました。こう言うお話も楽しいですね。
- juko7
- ベストアンサー率38% (296/772)
チンギス・ハンまでは信じられませんが、あなたの可能性に賛同です。 私は単なるサラリーマンで、歴史にも詳しくありませんが、大坂城が陥落した後、真田幸村が豊臣秀頼と淀殿を連れて逃げたという奇説を聞いた事がありますし、本能寺の変も、豊臣秀吉と徳川家康が仕組んだという奇説も聞いた事があります。明智光秀も豊臣秀吉が他人の首を明智光秀である旨宣言し、実際は逃がしたという奇説も聞いた事があります。 残念ながら織田信長生存説は聞いた事がありません。 武田信玄の死亡も病気の説もあれば夜に特定の場所で笛を聞いていて狙撃されたという説もあるらしいですし、武田家軍師の山本勘助でさえ、架空の人物という疑いもあったらしいです。 先日何でも鑑定団で(再放送かもしれません)山本勘助の存在は間違いないという放送をしていましたが、山本勘助直筆と思われる戦の参加要請の様な書物は、江戸時代に書かれたモノと断定されました。 何が何やら全く信用できない部分もありますが、これぞ歴史のロマンなのかと思います。 そもそも警察の捜査や科学技術、メディアが発達した現代でも、未解決事件や冤罪・失踪が多々あるのです。 それを考えると歴史には信憑性が欠けますよね。影武者も居ましたし、ちょとの噂が命取りの時代ですよ。 例えばどこかに埋もれていた貴重な資料が、太平洋戦争の空襲で焼失したのであれば、非常に残念ですが、まだ、なんらかの資料が埋もれている可能性もあると思います。 新たな発見がある事を願っております。
お礼
こんばんは。 義経が置いていった鎧って、今俄かにしらべたら結構あっちこっちに残っていて、全部本物かな?って正直思いました。あと弁慶直筆の書状が残っていると言う地方もあるようですが、弁慶も架空の人物らしいと言われるくらいですよね。 宇宙の真の姿を知っている科学者が誰もいないように、誰も歴史の真実を知らない。ただ、そのアヤフヤなところがまたロマンとして楽しみを生むわけで・・・ある日、歴史の教科書が書き換えられるような資料が何処かに眠っていないだろうか・・・どこかに義経の消息が解る資料が出てきたらと思うと夢が膨らみます。早朝からご回答有難うございました。
- HD28V
- ベストアンサー率55% (25/45)
参考URLをご覧ください。下のほうにある結論の項目だけでいいかも。 また、チンギス・ハン自身が幼くして父を亡くし、部族から見捨てら れ、殺されそうになったり殺したりしながら苦労を重ねて大侵略者にな っていった事が有名です。そんな生きていくなかで異母兄弟を射殺した こともあるお方なのでご参考まで。
補足
こんばんは。 さすがにチンギス・ハンは年代がずれているので、いかがなものかと思いますが。 ただ、一個人を生かす為に、日本の北半分の地域がの人間が嘘をついて大騒ぎすることになりえるんでしょうか? このwikiも私の専門カテあたりは突っ込みどころ満載なんで・・・一つの意見かもしれませんね。 補足欄ではありますが、お礼を入れておきますね。ありがとうございました。
お礼
こんばんは、komesさん。アレクサンドロスもそうでしたか・・・。 子供の頃、祖母の話では西郷隆盛がシベリアに逃げたと言う噂があたったそうです。 さて、私も俄かにざっと義経生存説について調べてみました。 komesさんのお話の通り、義経が自害したと言う状況証拠は沢山存在し、合理性もかなり高い。義経が逃亡したと言う状況証拠と言うと質にかなりのばらつきが有り、しかも口伝で年号等は不詳。 確かに源義経が立寄った事を示す信頼度の高い文書もあるようですが、これは「逃亡する前に書かれたものではなく」、高舘で自害する前に立寄ったと言う記録のだそうです。 ただ、源義経に対する土着民の思いと言うものは相当なものだと思いました。 詳細なご回答有難うございました。