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同情と思いやりの違いとは?
- 同情と思いやりは、相手の感情に寄り添う行為ですが、その違いは曖昧であり、日本語における独自の風俗様式と言われています。
- 同情は相手の自尊心を傷つけると言われますが、思いやりは相手を助けたり支えたりする意味合いがあります。
- 具体的な違いは難しいが、同情がなければ思いやりは成立しないと考えられます。相手の感情を理解し、共感することが大切です。
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敢えて連投です。 というのも すでに直接に《助け合い》のことを言っているはずなのに なぜおまえはその関係(かかわり)や交通(まじわり)の議論に必ずしもせずに 人間論ないし存在論になると言うのか。これについて弁明せよという声に勝手に答えます。 それには 世界の《感謝》の言葉・その表現の意味内容を捉えるとよいのではないか? お殿さんが 自分を思いやって手柄を立てた家来に でかした あっぱれ 褒美を取らすと言って礼を言う場合を放っておいて むろん日本語では ありがとうと表わします。つまり きわめて即物的に 起こりがたい稀な出来ごとなりと言っています。つまりこれでは おそらく人間関係論ではないでしょう!? そのあと お礼を申し上げますとか 感謝いたしますとか言っても では その《礼や感謝》とは どういう意味を表わそうとしているのか? 《礼(禮)》とは 《神に向かって儀礼を履行する意》だと言います。手本のような振る舞いが決まっているということを 儀礼と言うのでしょう。つまりもし《かかわり》と言うとしてももともとは 神と人(また人びと)とのそれから来ているようです。(貝塚茂樹ら編:角川漢和中辞典 1959) 《謝》に到っては 原義は《ことわる》だそうです。《拒絶することば。辞退のあいさつの意。ひいて お礼の意となった》。つまり元は《謝絶》の謝から転じたと言います。《謝辞・謝意》には《お礼の言葉(気持ち)》と《おわびの言葉(心持ち)》との両義があるようです。 お隣の国では 謝謝・感謝・多謝というふうに《ありがとう》の意味で現代語としても使われているようです。 ところで 他人(ひと)の好意(親切心)や厚意(思いやり)に対して 日本語ではありがとうのほかに すみませんという表現をも使います。わたしのうろ覚えでは 《そこまでのことをしていただいて わたしの心はまったく澄みません。そのようにしてくださったあなたさまのお心を思うと わたしは心苦しい限りです》と言っていましょうか? 何だか 中国人の表現形式と同じ列に並びかけているでしょうか? 《そこまでのご親切は わたしの心が澄みませんからどうぞおやめになってください》という初めの反応があるのでしょうか? 《礼》が神とのかかわりにおいておこなう振る舞いだとすれば 神とのかかわりにおいて何かその相手に言葉をかける振る舞い これが グラッツィエやグラシアスやメルシなのでしょうか? 《神からのめぐみ(グラシアス・グラッツィエ)が それほどまでにしてくださったあなたにはありますように》でしょうか。 でもこれなどは けっきょく日本語のありがとうと同じようにきわめて即物的であることに変わりないのではないでしょうか? あなたさまのお心遣いのコトが起こりました。はい たしかに。と言っているのとあまり変わりないのでは? 仏語のメルシは 報いがありますようにと言っていましょうか? (サイコロさん おぎないをよろしく)。 それなら まだポルトガルでは 負い目を負いました(オブリガード)と言っているとしたら ほほえましい。 韓国語の――カムサ(感謝)ハムニダ(します)は別として――固有語のコマヲヨ(コマプタ)=ありがとうは どういう語源であるか調べようと思いましたが 一夜漬けはやめました。どなたかご存じの方にお願いいたします。 グラシアスと同じような意味あいは ロシア語のスパスィーバでしょうか。かような起こるまじき振る舞いをなさるあなたさまには 神が(バ← Bog )すくい(スパスィー)を与えられますようにと。 ですから 《助け合い》論は それに感謝する人の繰り出す表現の上からは関係論ではないと考えられる余地があるのではないでしょうか? つまり初めから関係論として成り立っていないように映ります。人びとは心遣いを受けると そこに関係が成り立つものではないですよと言いたいのでしょうか? そう言えば ムスリムのアラブでは シュクランでしたか ありがとうと言っていても どうもイスラームの決まりで喜捨は義務であるから お礼は言わなくてよいのだとか。むしろ思いやったほうがもらってくれてありがとうと言うのかどうか どうなんでしょう? 英語のサンキューや独語のダンケは どうも英語の 思う( think )と同じ語根から出ているようで 言ってみればお礼を言うほうが 《思いやります》というふうに表わしていましょうか? ご恩を忘れませんという意味でしょうか? すまんなぁと言うところを 日本語で わるいなぁと言って礼を言う場合もありますね。かたじけないという表現は いったいなんですかね。 まだまだあるでしょうか。 《思いやり》は きわめて広く中立的である。とのみ。
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逆に思いやられることすら嫌がる人もいるのではないでしょうか。 泣いている時にハンカチを出されても『偽善者ぶるな』という困った人もいるかもしれませんね。 それ程性格が曲がった人はほとんどいないとは思いますが……。 よって『相手に嫌がられるのが同情で相手に好まれるのが思いやり』は成り立たないかと思います。 同情は『情けと同じ』と書くので、相手に対する侮蔑がごくわずかに含まれている気もします。 情けというのは自分よりも目下に感じるものです。 アリやバッタなど、明らかに自分より弱いものに対しての感情が同情です。 逆に自分より目上に同情する、とは普通は使いませんね? 思いやりは『思いをやる』とも言えるので、相手に対する侮蔑は含まれていないと感じます。 また、思いやりは自分よりも目上にも感じるものです。 だから『思いやり予算』というのではないでしょうか。 思いやりが目下相手限定なら、アメリカは日本より目下ということの公認になってしまいます。 『目下にしか使わないのが同情で目上にも使えるのが思いやり』 『侮蔑が含まれかねないのが同情で侮蔑が含まれないのが思いやり』 といったところでしょうか。
お礼
同情と思いやりの二つは本質的には変わらないが、施す側と施しを受ける側の関係について、含意する意味が違うというのですね。つまり同情は上下関係を前提としているが、思いやりはかなり幅広い関係に使えるというわけです。現在の用例では、確かにそういう差があるかもしれませんね。私としては二つの中身の差を考えたいのですが、参考にさせていただきます。どうもありがとうございます。
同情そのものには何の罪もありません。ただそういった第三者の気持ちがストレートに弱者の方へ向かうと、彼らは喜ぶよりもむしろ重荷になって嫌がりすらする現象はあります。 「同情など、してくれるな!」 というような場面ですね。 つまり、それ自体が非難されるべきものではなにせよ、実質彼らの得にならない形だけの共感は彼らには迷惑なのだということでしょうか。 思いやりというのは同情心が基底になくては発生しないものではありますが、現今のニューアンスでは単なる同情するだけではなく、何らかの同情にもとづく行動が含まれていて、それは明らかな押し付けがましさのない、見えない行動であるとか、そうでなくてもある意味洗練されたものであると考えられているようです。 たとえば、相手の気持ちを忖度してわざに(弱者)一人にさせておく、時期をずらしてさりげなく激励のメールを送るとか、結果的に当人を不快にはさせないものだといっていいでしょう。 ご参考になれば。
お礼
>実質彼らの得にならない形だけの共感は彼らには迷惑なのだということでしょうか。 おっしゃるように、行動で示すのは大切なことかもしれませんね。昔のドラマで「同情するより金をくれ」という言葉が流行りました。私はドラマをほとんど見ていないので、細かいニュアンスはわかりませんが、共感するより何かしてもらたいという気持ちを端的に表わしているとは言えます。そして「ありがた迷惑」という言葉もあるように、相手の過剰な負担になることは控えた方がいいのでしょう。ご回答、どうもありがとうございます。
- LeeMellon
- ベストアンサー率33% (1/3)
私はあなたのいいたいことが、うまく説明できないけれど、解ります。同情と思いやりの違いは、する人の気持ちの問題。そのことを、あなた自身よく分かっていると思います。少なくとも頭の中では。ただ、その違いをことばで表現しようとすると、困難を感じます。というのも、元来そのちがいは論理的なものではないからです。(そのちがいに人々のあいだで共通了解があると思いますか?)直感と言葉というのはそういう性質のものです。私自身うまく説明できません。 ことばというのは、詰まるところ、どう符号化するかという問題にすぎないのです。それは本来、恣意的なものですし、この場合、たいして重要な問題ではありません。(もっとも、あなたが辞書を作りたいのであれば問題かもしれません。) 「思いは見えないけれど、思いやりは誰にでも見える」というのは単なることばあそびにすぎない、程度に私は考えています。
お礼
>そのちがいに人々のあいだで共通了解があると思いますか? ご回答は「あるはずがない」という反語表現であり、だから言葉で考えることができないという論旨のようですが、私はそれを考えたいから、OKWaveという様々な人の意見を聞ける媒体で質問を設けたのですよ……。というのも、たとえばボランティアで、行動の指針を立てる時に参考になるでしょう。結論は出ないかもしれないが、考えること自体に意義があると思うのです。 >「思いは見えないけれど、思いやりは誰にでも見える」というのは単なることばあそびにすぎない、程度に私は考えています。 これはボランティアをするのに躊躇っている若者の背中を押すためのキャッチフレーズでしょう。「想い」では「思いやり」とは呼べないと看破しているわけです。三十を過ぎた方にとっては戯言なのでしょう。それだけ日本は成熟しているのだなと思いました。 しかし公共広告機構のキャッチフレーズにはヒントがあるかもしれませんね。ここには「想い=同情」という気持ちのレヴェルではなく、行動に移すのが「思いやり」であるという前提がありますから。それをNo1のpsytexさんのように、主観と客観の問題として考えることもできるかもしれないな、とちょっと思ったところです。
- 雪中庵(@psytex)
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これまでン十年生きてきて、同情が卑しい事だとは知りませんでした。 確かに「思いやり」は字義通りだと、相手の立場を“思いやる”もので、「同情」は同様の行為を、主体を中心に見たものに思えます。 ただ言語としては異なっても、行為として「これは同情じゃなくて思いやりだ!」と言わねばならぬほど別物ではないように思います。
お礼
>同情が卑しい事だとは知りませんでした。 ご回答ありがとうございます。字義的には、おっしゃる通りですね。他者の心を察するのが「思いやり」で、同調するのが「同情」です。ただ内実は極めて似ているわけで、それを具体的に行動に移すと、何かが違うのですが、どう違うのかが今一つわかりません。 しかし、この区分を設けている発想が日本的だと私には思えたのです。人の心は難しいなと思います。外国では同情的なボランティアが嫌われる国もあると聞きますが、何かご経験やご見聞がないですか。
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お礼
>仏語のメルシは 報いがありますようにと言っていましょうか? (サイコロさん おぎないをよろしく)。 えーと、ご存じなのじゃありませんか。元々は何かの労働の対価に「塩を送る」という意味の言葉がありましたが、塩を送るという行為がなくなっても言葉だけが残って、感謝を示す語になったのでした。これがmerciの語源だと言われています。Graciasなど神の恩寵を元とする語と比べると、Merciは契約を前提とした世俗的な感謝の語だと言えますね。東京外大の教授の説ですから、ブラジュロンヌさんの方がご存じでしょう。 それでここから考えると、merciは契約である以上、相手の行為が最初から予想がついているわけです。実際、merci beaucoupという強め方は「やりすぎです」という皮肉の意味が入りますが、これはmerciが元々契約上の礼であるからだと説明もつけられるでしょう。 こうした契約に基づく発想は、「ありがたい=在り得ない」などという日本語の発想とは根本からして違います。日本語では予想もしないことをしてもらえると、嬉しいようですね。他に「かたじけない=(そこまでしていただくのが)恥ずかしい」も相手の行動を予測していないという前提があります。 >英語のサンキューや独語のダンケは どうも英語の 思う( think )と同じ語根から出ているようで 言ってみればお礼を言うほうが 《思いやります》というふうに表わしていましょうか? ご恩を忘れませんという意味でしょうか? 英語に関しては、それでいいと思いますよ。OEDには異説はあるものの、thinkと同じという説が紹介されており、言語分布からしても、merciとは別物だと考えてよいようです。 こういうのは、ワルツブルクあたりが権威なのですよね。ブラジュロンヌさんもお好きなのですか。ところで語源学による言語の分布の話はついて行けますが、何の話なのでしょう。つながりがあまり見えていないのですが。
補足
【ベストアンサー選出にあたって】 投稿も一区切りついたように思ったので、ここで設問を締めることにしました。皆さま、どうもありがとうございます。 この投稿をBAに選んだことについて、首をかしげる方もいらっしゃるかと思います。当初、この投稿の趣旨はよくわかりませんでした。しかし、おそらく投稿者の趣旨と外れる形でしょうが、再解釈する中で、自分なりにわかってきたこともあります。なぜ、日本語の「思いやり」は難しいのかという理由がです。 No12で別の回答者の方から指摘があったように「思いやり」という語は「思いあげる」という用例と比べることができます。「やる」にせよ「あげる」にせよ、贈与に関連する語であるといえそうです。しかしそうであるのなら、果たして、相手の期待値をどのように我々は考えているのでしょうか。 個別の話なので、一般化して議論することが難しい問題です。しかし私がお礼欄で書いたように、日本語の「ありがとう」は語源的に「ありえない」と同じであって(異説があることも承知はしています)、相手の好意を当初から期待していないのです。翻ってみれば、感謝に足る行為とは、予想を裏切る行為でなければならないのです。 これは大変なことです。というのも、好意に基づく行動が失敗すれば「ありがた迷惑」になるからです。これは予想可能な、場合によっては契約に基づくことを感謝とするフランス人の感覚とは、大きく異なるでしょう。こうした「ありがとう」の文化は、日本が島国であり、閉鎖的な村社会の中で、相手の期待値が十分に予測できるという背景をもったうえでのことであったと言えるかもしれません。 ともあれ「ありがとう」という言葉を持つ日本人にとって、相手のために何かするということは、常に拒否されるかも知れないという危険と隣り合わせなのです。ここから「思いやり」に与えられる意味がフランス語などに比べて、多義的で繊細である理由を理解することができないでしょうか。「思いやり」という微妙な言葉が存在するのは、他方で好意が容易にありがた迷惑やお節介になりやすいという背景を持っているからだと考えられるのです。 これはまだまだ議論の入り口の段階ではあります。「思いやり」の多義性を分類して深く考察するには及んでいません。実際、設問の「同情」と「思いやり」の差ですが、感情vs理性、思念vs行動という図式も出てきたものの、決定打に及ぶまでには考察が進められませんでした。ただ一つ言えるのは、「思いやり」の方が同情よりも幅広いニュアンスで使用できる便利な語であるということです。 しかし、これ以上の議論をどう進めたものか、私にはあまり見通しがつきませんでした。実際、設問欄の性質上、回答者がのってくれないと、議論も進めようがないのです。かくして目算がつかない時点で潔く、議論が半ばのうちに私が強引にまとめる形ではありますが、一度、設問を締めようと考えます。どうもありがとうございました。 末尾ながら、東北の復興を祈りつつ。