このテーマで過去の質問を検索すれば、山ほど出てきますよ。
・歴史、特に戦争の中で行われたことを、その事件だけを取り出して、議論してもその本質は見えてきません。昭和大恐慌以後の日本の社会や当時の世界情勢の中で捉えないと、何故そのような状況になったかということが掴めません。
<この問題理解におけるポイント>
・南京入城前後の数日間、南京城内に限定されたものではありません。
・中国側歴史学者の公式な発言は、「30万人」という数字自体には、こだわっていません。
・事実としては、100人切りはあり得ないと思われますが、新聞記事の「英雄談」ニュースとして、日本国内で受けたという世相が背景にあり、当時「虐殺」として否定する空気は少なかったことは、否定できません。
・中国は、長い清朝滅亡への過程とその後の弱体政権の期間を通じて、内乱・軍閥割拠のを続けており、失業者や飢饉で食えなくなった農民が兵士になったり、軍閥同士の戦闘で負けた方の兵士が軍服を脱いで民間人に戻ってしまうというのは、ごく普通でした。
・当時の中国において、日本軍並みの訓練・装備を持っていた蒋介石(=日本で軍事訓練を受け、日本軍の将校として在籍経験があります。)の精鋭部隊も、その数は多いとは言えず、民間人を短期訓練して、兵数を水増していました。
・日本軍よりも精鋭部隊の兵数が少ない蒋介石は、大陸国家の負けない戦略(精鋭部隊の消耗を避け、交戦しながら、どんどん後退していく)を取りました。
・中国軍の精鋭部隊は、戦闘により日本軍に軍需物資の大量消費をさせながら、機敏に撤退していきますが、短期訓練の部隊は機敏な撤退などが出来ず、日本軍の支配下に取り残され、どんどん日本軍の捕虜になったり、軍服を脱いで民間人(=便衣兵と区別できません。)に戻ったりしました。
これら、大量の捕虜は、日本軍の想定外(日本人はほとんど捕虜にならない)で、軍需物資の不足から食糧を現地調達していた日本軍の重荷になりました。捕虜を養うだけの食糧が確保できず、捕虜を餓死させた部隊も多く、捕虜を解放した部隊さえ存在します。
日本軍の現地指揮官の手記(陸軍士官学校では、後に上級指揮官に提出するための戦闘報告書などの基本資料にするために、毎日詳細な手記を付けることを教育・徹底していました。)を読めば、部隊指揮官が、日本兵の食糧さえも不足する中、捕虜を長期間食べさせた後に病死・餓死などした時の食糧損耗をどう考えるかなど、淡々とした記載の中に、苦慮がにじみでています。
<参考>
蒋介石は、このような戦い方で、長期戦に持ち込み、日本の敗戦を迎えたわけですが、日本軍の占領地の人々からは、本気で戦わなかったと見なされ、日本軍の占領地で少人数で輸送部隊にゲリラ戦を行っていた共産党軍への支持が強まり、後に中華人民共和国が誕生する理由の一つを作ってしまいました。
お礼
大変勉強になりました。ありがとうございました、