門派の枠を超えて宗祖日蓮大聖人のお言葉を拝借するならば、
『木絵二像開眼之事』(『昭和定本日蓮聖人遺文』七九二頁)
「仏に三十二相有り、皆色法なり。最下の千輻輪より終り無見頂相に至るまでの三十一相は可見有対色なれば、書きつべし、作りつべし。梵音声の一相は不可見無対色なれば、書くべからず、作るべからず。
仏滅後は木画の二像あり。これ三十一相にして梵音声かけたり。ゆえに仏にあらず。また、心法かけたり。生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥なり。
(中略)木画の二像の仏の前に経を置けば、三十二相具足するなり。ただ心なければ三十二相を具すれども必ず仏にあらず。人天も三十二相あるがゆへに。
(中略)三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり云云。
(中略)法華経の文字は仏の梵音声の不可見無対色を、可見有対色のかたちとあらはしぬれば、顕形の二色となれるなり。滅せる梵音声かへて形をあらはして、文字と成て衆生を利益するなり。」
ということですので、No.1の方がおっしゃるように学会が「開眼などマヤカシで必要ない」と言うのであれば、それは本尊が本尊たる真の意義を捨てて体裁(形骸)だけの本尊にすがっているということです。続けてさらに…
「されば法華経をよませ給はむ人は、文字と思食す事なかれ。すなはち仏の御意なり。」
(中略)法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するにその身に鬼神入るがごとし。」
と記されていることを考えれば、要するに本当の意味での「開眼」とは、本尊は何たるやということを我々自身が心得べきこところを指したものであり、しかしながらそれをすべての在家に求めるのは無理があるので、求道者たる出家が開眼供養して然るべき意義を持たせ、これを信徒に授与される、ということなのだと思います。
その実態とは必ずしも超常的なものなどではなく、平たく言えば「題目(本尊)を信じれば皆が救われる、という信心(厳密には教義に裏付けされていますが、ややこしくなるので割愛)を自他共に心得させる」ことで、これこそが題目の本質であるのに、それを執拗に主張する当の本人が殊に本尊に関してはとんちんかんなことを申しているわけです。いわんやそのような輩が唱える題目の価値をや、というところでしょうか。
図画として顕しただけの本尊にそこまで固執すべきでない、という立場は共感できますが、何故に眼に見えるような形にしなければならなかったのかという点にまで頭がまわっていないのですね。
お礼
とても詳しく解説して頂き、ありがとうございます。 正直、難しくて理解しきれない事がありますが。 要するに本当の意味での「開眼」とは、本尊は何たるやということを我々自身が心得べきこところを指したものであり、しかしながらそれをすべての在家に求めるのは無理があるので、求道者たる出家が開眼供養して然るべき意義を持たせ、これを信徒に授与される、ということなのだと思います。 この部分は理解できました。 信徒が勝手に解釈してはいけないという意味だと思います。 本当にありがとうございました。 よってベストアンサーとさせて頂きます。