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創価学会の御本尊について教えてください。
- 平成5年からの新しい日寛上人の修正御本尊について疑問があります。
- 学会員の間での開眼の解釈の違いについて教えてください。
- 創価学会の御本尊の選択にはどのような権限や判断が関与しているのでしょうか?
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考えてもみなさい。なぜ創価学会の手で御本尊授与を始めたのかといえば、学会が宗門に対して、さんざん御供養の誠を尽くしたにもかかわらず、「祖道の恢復(そどうのかいふく)」と称して学会を破門し、御本尊の下付を停止したからではないですか。御本尊は日蓮仏法実践者にとって信仰の根幹です。その御本尊を拝せなくさせておいて、学会が自ら御本尊の授与を始めれば、「ニセ本尊」だの「在家の分際で、誰の許可を得ているんだ」だのと難癖をつけるのは、実に意地の悪い言い草だと思います。 「法主の許可がない」「開眼がない」「本山から下付されていない」。いずれも、日蓮大聖人の御書のどこにもない難癖にすぎません。学会の手で御本尊を授与しているから「ニセ本尊」というのでしょうけども、その基となっている御本尊は、日寛上人による正真正銘の御本尊です。それを「ニセ」というのであれば日寛上人が「ニセ法主」ということになり、中興の祖に対する最高の侮辱となりますね。どこかの誰かと一緒にしてはいけませんよ(笑)。 大聖人は、「今末法に入って、眼とは所謂未曾有の大曼荼羅なり、此の御本尊より外には眼目無きなり」(御講聞書〈おこうききがき〉、841ページ)とも仰せである。御本尊そのものが、大聖人の魂ぱくがとどめられた仏の眼目であり根本なのである。そして、「開とは信心の異名なり」(御義口伝、716ページ)、「信心を以て眼とせり」(御講聞書、818ページ)と仰せのように、「開」も「眼」も、要は「信心」に収まる。 「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(日女御前御返事、1244ページ)と示されている通りだ。 (創価新報2010年9月1日付) 創価学会の歴代会長により、また、歴代に心を合わせた個々の学会員によって、今日世界的に日蓮仏法は流布されたのです。これは否定しようともできない事実です。学会に信心の血脈が流れているのは歴然です。「此の世の中の男女僧尼は嫌うべからず法華経を持たせ給う人は一切衆生のしう(主)とこそ仏は御らん候らめ」(四条金吾殿女房御返事)であり、僧も在家もないのです。御本尊授与の資格があるのは、大聖人の仏法を正統に実践する和合僧団です。まさに創価学会のことです。その学会に、御本尊を授与する資格があるのは当然ではないですか。それに難癖をつけるのは、大聖人の仰せに何ら基づかない、「たかが信徒の分際で」との感情的反発にすぎないのです。
補足
日蓮正宗への思いは、その通りだと思います。正宗は学会に対して少々感情的になってしまっていました。事実です。でもだからと言って、貧しいからと言って各家庭で1万円札をじゃんじゃか印刷することはよくないですよ、やっぱり。これは御書に反するかどうかというよりは、個人的な良心です。現に以前は、学会でじゃんじゃか刷ってなかったわけです。戸田先生も、身延が勝手に印刷配布していることに対して、それじゃあ、力があるはずない、とはっきりとおっしゃっているんです。正宗の日寛聖人のお手の本尊は正宗に著作権的な一種帰属しているわけですよね。それが学会名誉会長になったら、「次はどういうご本尊にしようかな」といって無断で好きなご本尊を拝借しても、別に問題ないじゃないか、というのは日蓮大聖人がお聞きになったら残念に思われると思いますよ。事実、今、脱会する人があとをたたないそうです。そして口々に言うのが平成五年から明らかに、不幸になっていく人が増えていると言うそうです。今までの功徳の残りと言ったら変ですが、それが作用して、大事故起こして助かって良かった。でも一生半身不随だとか。結婚できて良かった。でも喧嘩が絶えないようになったとか。学校に受かって良かった。でも不登校、引きこもりになってしまったとか。はじめ良くてあとで結局悪いほうに行くというパターンがあきらかにここ数年増えてきたそうですね。 できの悪い父親でも父親だと思います。両者感情的になっている部分があると思います。とくに今売り言葉に買い言葉になってしまっています。これは両者にとってとても残念なことです。 さて、質問内容なんですが、(1)名誉会長になったら好きな本尊が選べる権能が持てるようになる根拠はなにか?(2)開眼について学会の統一的見解はなにか?です。 議論の場でも意見の場でもありませんので質問にお答えねがいます。