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往生の主体

浄土真宗の駆け出し僧侶です。 人は命終わる時に阿弥陀仏の本願力に救われて浄土へ往生する。 その救われる主体というのは何なのでしょうか。 煩悩具足の凡夫である「私」のこの体を離れて、 私の中のなにが浄土へと生まれて仏と成るのでしょうか。

みんなの回答

回答No.2

 過去の教え(表現スタイル)にこだわらない“勇気”“自由な心”が必要なのでは。  昔の仏教者の教えは、方便という手段で衆生を導こうとしました。車が通る危険な所で遊ぶ幼子を安全な場所に導こうと、飴玉で誘うような。  でも、現代人はそれを見抜くだけの知識を持っているので、納得する処まで行かず、こうした疑問を持つのではないでしょうか。  阿弥陀仏は我々に何をしたのでしょう。  阿弥陀仏は我々に「涙」したのではないでしょうか。  人、いや生命というものに、生きるために他者の命を糧として奪わなければならない「命」というものに、「涙」を流しているのだと思いませんか。  そんな「命」を煩悩具足な人間をそのままで、受け入れようとしているのが阿弥陀仏。  たとえて言えば、母のみ胸に抱かれる安らかな幼子、その幼子が煩悩具足の我々。阿弥陀仏に救われている我々の姿だと思えるのですが。  ☆求めているものと違うかもしれませんが、とりあえず、の回答?です。  

noname#221368
noname#221368
回答No.1

 自分は仏教に対して、浅薄な知識しか持っていません。なので逆に、質問させて下さい。   ・自分は仏教の修行とは、その主体を破棄するためのものだと思っていました.  実際に修行してみると、そうではないのですか?。