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仏壇や墓へ供えるお水

浄土真宗では仏様のいらっしゃるお浄土には八功徳水がふんだんに湛えられてあるので塩素たっぷりの水道水をわざわざ供える必要などないと説くそうです。そしてお茶も供える必要ないと説く。しかし御飯や果物、菓子に対しては否定しない。これはどういった理屈なのでしょうか? 阿弥陀さんのお浄土では思い描いただけで望んだ食べ物が幾らでも出てくるらしいので農薬や添加物たっぷりの穢土の食べ物など供える必要ないのではないのでしょうか? 水とお茶はNG。しかしお墓の水鉢には水を注ぐ。なぜでしょう?不思議な発想です。 そもそも亡くなった方や御本尊様に毎日飲めたり食べられたりする事への感謝の気持ちから水や御飯、供物等を捧げるというものではないのでしょうか? 浄土宗や真言宗等の他宗派ではお水は御閼伽といって重要視しており毎朝必ず取り替えて差し上げるように言いますがこれはどういった理屈なのでしょうか? 浄土真宗とそれ以外の仏教宗派で御閼伽に対する考え方が大きく異なるということでしょうか?

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  • mibuna
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回答No.3

浄土真宗の教義解釈はひねくれているのでそんなもんです。 本来の仏教ではないと言って他宗派や他宗教を批判しますが 線香折って寝かして火を付けるなんてどこが本来の仏教なんだかw 「清め塩は人種差別です」とか言って何年か前にはポスター作ってましたからね。 (神社神道に喧嘩売っている基地外教義) 神祇不拝(阿弥陀如来以外は拝むな)って言いながら 親鸞は六角堂での救世菩薩の夢を元に法然のもとに行っています。 理屈で考えても納得できません。それが現代の浄土真宗なんですわ。 それと浄土真宗の仏壇も開眼するけど全然神仏の有難い気配がないね。 遥拝施設としての仏壇の働きは無いんじゃねえかな・・・? (まあ真宗僧侶は袈裟着てコスプレしているだけで修行しないから力は無いしね) 実際、私自身の体験で言うと今は亡き爺様が仏壇に対して放置プレイだったんで 父親と年末に仏壇を掃除したら私の体に嬉しくなった御先祖さんが入ってしまい 翌月、とある天台宗の不動明王さんにお知らせもらって出て行って貰いましたが 少なくとも現代真宗教団の教義解釈である「全員死んだら即時、極楽往生」は嘘ですね。 (ちなみに我が家も父母両系門徒です。父方は霊感全くないが母方が 霊感体質なので霊感体質を遺伝している私に来た・・・。ちなみにご先祖さんは4人) 如来に対して「信」が無いといくら阿弥陀さんの本願と言えど極楽往生は無理です。 門徒物知らず(もんとものしらず)と言うけど門徒の殆どは如来に対する「信」が無いと 正定聚(不退転)にはなれないってそんな事知りませんわな。 (私も20代後半に御先祖さんや屋敷神さんに体に入られるまで何も知らんかったし 仏教の基礎知識を勉強する気もそれまでは無かったけどね・・・。)

Thor9234
質問者

お礼

大変勉強になりました。全く仰る通りです。 よく他宗派に対して批判的な某宗派は「他宗派はお釈迦様の仰る事を無視して勝手な事ばかりやっているのでもはや仏教とは呼べない」と言っておりますが彼らの言う「仏教」とは大変見方が狭くもはやお釈迦様が絶対神化しており宗祖が預言者の如き存在となっていますね。 「某お経こそお釈迦様が晩年に仰った言葉をまとめた物なので最優先されるべき。そこには全てのお経を捨て去れと書かれている!」と声高に宣言し「このお経以外のお経を信じるならば阿鼻地獄に落ちて決して救われない」などとどう斜め読みすればここまで曲がった解釈が出来るのかと言うくらいカルト的な布教をする宗派もありますね。 仏教を興したお釈迦様は無宗教の方で「神等に頼らず自分の頭で理論的に考えて行動しなさい。つまり他人にした事はいつか自分にも帰ってくるので思いやりを大事にしなさい。死んだ後の事を考えても分からないししょうも無いので今すべきことを精一杯やりなさい。」と教えたそうですね。 そして涅槃の時には「皆の者精進しなさい」と「これからは私ではなく貴方達も自分の頭で良く考えて行動するのですよ。」という意味の言葉を残して亡くなりましたね。 こういった事を考えると仏教とはお釈迦様一人の言葉である必要はないしお釈迦様を縁とする大勢の方の手によって作られているものであっていいと思うのです。ですから「こそこれが仏教だ!」と定義づけられるものなどないと思うのです。現に大乗仏教の伝播を見ても分かるようにヘレニズム文化の影響や景教の影響、ゾロアスター教、ヒンズー教、マニ教、道教、儒教、神道の風習など我が国に伝来するまでに非常に多くの宗教が入り混じった総合宗教でなっていたではないですか。 ですから某宗派のように「○○経に書かれていない内容は仏教ではない。」とか「貴方の考えなどどうでもいい。それは貴方教だ。」「あなたが不幸なのは功徳が足りないからだ。」などどいう解釈はお釈迦様の本意から程遠い安っぽい別の宗教だと思う次第であります。

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  • goold-man
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回答No.2

追加 >浄土宗や真言宗等の他宗派ではお水は御閼伽といって重要視しており毎朝必ず取り替えて差し上げるよう 浄土真宗でも、仏壇は欠かさず掃除し、「花瓶」の「水」は毎日取り替えます。(器の問題) 参考URL

参考URL:
http://www7.ocn.ne.jp/~kokubo/altar1.htm
Thor9234
質問者

お礼

花瓶の水は取り替えて当たり前ですよね。 不思議な解釈の仕方です。 なぜ御閼伽だけを否定するのでしょう? 追善供養の必要が無くても毎日水を飲めて有難い、そういう感謝の気持ちを込めて水を捧げてもいいではないですか。 あと金蓮華の常花も否定してますね。 これもおそらく「阿弥陀経にはお浄土にはきらきらと輝く花が咲き乱れているとあるから味気のない造花など無意味」という事なのでしょうね。 でもその解釈からいくと「御飯だって自身が思い望んだ食べ物が出てくる」と書いてあるので農薬だらけの御飯など無意味だと思うのですが。 分かりませんね、浄土真宗は← 親鸞さん御自身がこんな極端な事を仰ったのでしょうか? 教団化してから解釈が変わってきちゃったのではないですかね? 親鸞さんはあくまで生涯天台宗の僧侶だったのではないでしょうか。 そんな気がします。

  • goold-man
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回答No.1

華瓶を置き、水(または青木)を入れて供えます。(水はNGとはありませんが?) →「湯飲みやコップ」(の器)に水や茶を入れないだけ。 参考URL 線香は立てずに、二つ三つに折り、香炉にねかせて供えるのは他の宗派と違いますね。(立てる) 一般人につけられる「戒名」を「法名」というのも他の宗派と違いますね。(戒名は厳格な戒律を守って仏道修行する人々につけられる名前) 香志を「御仏前」「御香典」「御香料」「お供え」と表書きし、「御霊前」とは書かないのも他の宗派と違いますね。

参考URL:
http://www.myourenji.com/faq.html#s-001