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往生の主体

浄土真宗の駆け出し僧侶です。 人は命終わる時に阿弥陀仏の本願力に救われて浄土へ往生する。 その救われる主体というのは何なのでしょうか。 煩悩具足の凡夫である「私」のこの体を離れて、 私の中のなにが浄土へと生まれて仏と成るのでしょうか。

みんなの回答

回答No.22

 No.13です。  次の親鸞の文章が参照されるべきではないでしょうか?  ◆(親鸞:有念無念の事) ~~~~~~  1. 来迎は諸行往生にあり 自力の行者なるがゆゑに。  2. 臨終といふことは 諸行往生のひとにいふべし いまだ真実の信心を得ざるがゆゑなり。  3. また十悪五逆の罪人 はじめて善知識にあふて すすめらるるときにいふことなり。  4. 真実信心の行人は 摂取不捨のゆゑに 正定聚のくらゐに住す。  5. このゆゑに臨終まつことなし 来迎たのむことなし。  6. 信心のさだまるとき往生またさだまるなり。来迎の儀則をまたず。   (末燈抄・一 伊藤博之校註)  ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. 臨終のときに阿弥陀仏が極楽へと引き取るためにやってくるという来迎は 修行や善行を積むことによって往生する場合のことである。自力をたのむ行者であるゆえ。  2. 臨終に来迎を期待するということは 修行を積んで成仏する人に言うことである。いまだ阿弥陀仏からの他力なる真実の信心を得ていないゆえ。  3. あるいはまた重い罪を犯した人が 臨終の折りに導師に会って念仏をすすめられるときに言うことである。  4. 如来回向の信心にあずかる人は 如来の大慈悲にもれなく摂取されたゆえに まさしく往生することが定まっている人すなわち正定聚(しやうぢゃうじゅ)のくらいに住している。  5. このゆえに臨終正念というような往生のかたちを俟つ必要がない。来迎をたのむこともない。  6. 信心の定まるとき 往生が同じく定まるのだ。来迎の儀式を俟たない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 空海の即身成仏に応じているかとは思います。  永遠の現在 これが往生のすがたです。  

回答No.21

 hayata_ 、ここまで回答を得られて、納得される何かがありましたでしょうか?  私自身は一時納得できたようで、投稿を次々読めば読むほど結局納得できなくなり、一体ご回答者様は本当に何をどこまでお判りに為り、ご経験されてご回答されているのかどんどん判らなさがはっきりしてきました。  結局、阿弥陀様や浄土に本来いる存在と現象というか、この世というか、地上というかに意識して、きている存在とをどう呼称し、どう説明するのか。ということですが。  どちらも明確に説明ができないから、いえ経験していないから言葉ばかりがたくさんにならざるを得ないのか。    要するに自分は何なのだ、創造とは何なのだ。  認識とは何なのだ。  という説明でしょう。

  • otherwind
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回答No.20

> 私も実は6歳から8歳までは、非常に不思議になって、きょとんとして自分の四肢などを眺め回していました。  皮膚って、物凄く薄いものだなぁ~とか思ったりしますよね…。  皮膚で包まれた内側を私と定義して、これは私ではない、あれは私ではないと、自分の外部に、吐き出すわけですが、それは、「私」という言葉、母国語がなければ、あり得ないものですね。  実際、NHK(だったと思うのですが…)のドキュメンタリーで、脳の言語野を、脳腫瘍があったからだったと思うのですが、手術で切除してしまった人の話をやっていました。  手術後、お母さんが駆けつけたら、母親の直観というのか、別途に寝かされている娘(手術を受けた人)を一目見て、ああ、生まれたばっかりの赤ちゃんだ、ということがわかり、えと、娘さんは多分、物理的な年齢では30歳とかだったのだと思いますが、本質的に、言葉がしゃべれない新生児だと直感的に分かって、すぐにベッドに入って、添い寝してだっこしてあげたという話。  その後、奇跡的に、脳の切除されなかった他の部分が、言語野のはたらきをするようになって、この娘さんは、話せるようになったのですが、話せなかった間、「私はニルヴァーナにいました」と振り返って仰ってました。  分別心がなくなったので、自分では下の世話も何もできなくなっていたわけで、だっこされて、シャワーとか浴びさせられていたらしいのですが、シャワーのお湯が、自分の中に入ってくる、皮膚が、自分と自分以外のものの境目という概念、言葉がないので、そういう体験、感覚も、知覚もないので、シャワーのお湯が、自分と外界の区別なく、自分の中に流れ込んでくる感覚があるそうです。  仮に、悟りを開くことが、言語を失うこと、私を失うことであれば、世界を失うことであり、人格崩壊であり、おしっこやうんこを垂れ流して死んでいくことになりますね。  ですから、そういうことは、生きている間には、修行して到達できたとしても、目標にはなりえず、避けるべき事態、禁止すべき事態になると思います。

  • otherwind
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回答No.19

 先のパスカルからの引用は、『パンセ』の、いわゆる「パスカルの賭け」と言われる部分からの引用なのですが、そこでパスカルが更に言っていることは、仮に来世が存在しないとしても、あたかも来世があると本当に心から信じていまここで行動することには、一種の現世利益があるということです。  現世利益と言っても、商売繁盛とか家内安全ではないですが。  あなたの現世における来世は存在するという信仰に基づく行動は、実際のところ、あなたに安心立命を与えますから、安心して、落ち着いた満足のいく人生を実際におくれることになります。また、あなたに、品格をあたえることになります。パスカルはキリスト者について言っていますが、たとえば、念仏者として生活することは、念仏者に品格を与える、と言ったとしても、原理的に、おかしくはないと思います。  宗教で実際に問題となっているのは、隠された真実の宗教の目的は実は、このような一種の現世利益であって、あたかも本当に来世が存在しているかのように、信じているかのように行動することは手段に過ぎないのか…というと、そうではないですね。  日本語表現が非常に困難ですが、言い方が極めて難しいのですが、ある意味、本当に信仰していなかったら、つまり、本当に、あたかも来世が実在しているかのように自動的・機械的に、習慣的に行動しなかったら、つまり、物語にコミットしなかったら、現世で既に品格が与えられるという、副産物、おまけ、付録は与えられません。  考えようによっては、一生、安心して、満足のいく人生が送れるというのが、宗教の本当の目的ではないのか…と考えることもできるのですが、しかしながら、そういう、ある種の現世利益は、原理的に副産物としてしか形成されないのです。  キリスト教の本質的な特徴は、来世の実体としての実在について思考することの禁止にある、そこがキリスト教の特徴で、画期的な点である、キリスト教は実体としての来世の実在について語ることを禁止するという、そういう特殊な形態の宗教である、宗教ではないという特殊な形式であることによって宗教なのである、というようなことが良く言われますが、同時に、たとえばお葬式があったとして、司祭の方が「天国」という言葉を、あたかも実体として実在しているかのように口にするということは、有り得るのではないかと想像します。  そういう形式を取ることが必須だからだと思います。間違いや誤謬なのではなくて。  来世は実体としてはないということを知らないのではなく、そんなことは知っているが、従って、その意味では、無意味、非合理に、本当に本当に、あたかも来世が実体として実在しているかのように、一生、全身で行動する、という、文章にしてみると、実に不思議な形式を取るわけです。  行=信の行は、無意味、非合理、自動的・機械的、習慣です。行は、実は、行者にとっては非行であり、行者にとって善行ではないわけですが、それでも、いやだからこそ、行=信、という、不可思議な形式を、行=信は取るのであり、行=信の主体のポジションは、個体に内属していないわけです。  カトリックで「ミサに与る」と言いますね。あずかる、というのは、字義的な意味としては、おそらく受動でしょう。  (「受動」と言うと、すぐに頭に思い浮かぶのはマルティン・ルターですが、プロテスタントはカトリックとは違うと、あまり、違いを強調して考えることは、むしろ間違える気がします。浄土宗と真宗の違いとか、法然上人と親鸞聖人の違いとかも同様。むしろ、99.9999999%同じ、くらいに考えた方が、正しいと、私は思います。)  真宗ですと、「お勤めが勤まります」ですね。「みなさん、お勤めしましょう」ではないです。つまり、お勤めは自然発生的、無から有への生成。おのずから、です。春が来て花おのずから咲くように、秋が来て葉はおのずから散るように、夜が来て闇おのずからしみるように、朝が来て光りおのずから照らすように…。  では、行=信の主体のポジションは、個体に内属していないならば、何が相続されるのか???  伝統の系譜そのものが、それ自体が、それ自身を相続する、と考えられます。  七高僧の言葉、言語…とかですね。  従って、法然上人が、ある意味、ある種、考えようによっては、善導大師の生まれ変わりであるというのは、表現方法をどう言うかという、表現の仕方は色々あったとしても、おかしくないと考えられます。  法然上人という個体に内属していません。  内部の外部です。    法然上人の信心の外部の物的な支えは口称念仏です。信心は物質的です。  「お勤めが勤まります」なのは、お勤めが聞法だからです。自分が南无阿弥陀仏と発音すると、その声が自分の耳に聞こえます。   

  • freulein
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回答No.18

面白いテーマですね。私も参加させて下さい。以下のように考えます。 私が死んで後に霊魂がお浄土に運ばれるわけではないだろう。私が往くことは既に昔に定まっている。つまり私の中のお浄土を映す部分があって、それがお浄土(元来のところ)から離れずに存在していたのだと死後に気付くのだろう。 私の中のお浄土を映す部分とは何か?意識の底の未那識(己を主語として語る判断基準)のさらに底の阿頼耶識(主語なく語る判断基準)、これが当該の「お浄土を映す部分」だと考えます。よく整理して考えてみると、ここでは主語の「私」はありません。確かに欲に捉われない判断をしております。普段はあらわには出てこないように見えます。この領域には「私」に属する要素が含まれていない、すなわち私ではなくて元来から仏のものであったのです。この意識部分(?)が気付けばお浄土に元からいたことになる、つまり「往生」なのでしょう。 私の中の「お浄土を映す部分」を生まれる前からあった私、すなわち「不生(かつ不滅)の仏心」としてお説きになったのが盤珪禅師なのだと考えることにしました。以下のサイトです。 http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/gendaijinnozen/fl-bankei/bankei02.htm

回答No.17

 私たちの、Self-Realization Fellowshipでの自己という現象、そして信仰と精進にも考え合わせられる、otherwind氏の語られる精髄的お話は、私たちの信仰のしかたであり、自己の現象性のお話です。  むろん、どちらにことも私の個人的理解と精進でのことですが、同じ事を言われていると理解しました。

  • otherwind
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回答No.16

 パスカルが次のように言っていますね  君は信仰に達したいと思いながら、その道を知らない。君は不信仰から癒されたいと望んで、その薬を求めている。  以前には、君と同じように縛られていたのが、今では持ち物すべてを賭けている人たちから学びたまえ。彼らは、君がたどりたいと思っている道を知っており、君が癒されたいと思う病から癒されたのである。彼らが、まずやり始めた仕方にならうといい。  それは、すでに信じているかのようにすべてを行なうことなのだ。聖水を受け、ミサを唱えてもらうなどのことをするのだ。そうすれば、君はおのずから信じるようにされるし、愚かにされるだろう。 つまり、   「合理的な議論はやめて、何も考えずに儀式に従い、意味のない身振りを繰り返すことによって、頭をからっぽにしなさい。要するに、すでに信仰をもっているかのように行動しなさい。そうすれば、信仰は自然にやってくる。」  「ある習慣に従うことによって、主体はそれと知らずに信仰をもっている。そのため、最終的な改宗は形式的な行為にすぎない。その行為によって、すでに信じてきたことを認識するのだ。」  ということになり、外部にある宗教儀礼という無意味な自動機械と、内部にある無意味な自動機械である信仰が短絡されています。  なお、ここで、もちろん、パスカルという人は、回心して、歓喜、歓喜、歓喜という人なので、「愚かにされる」というのをなにかネガティブな意味で言っているのではなくて、ポジティブな意味で言っています。  たとえば十字架につけられ給ひしままなるイエス像(永遠の今。もっともみじめな死を死ぬ本当の人間としてのイエス。神に見捨てられ、神に呪われた死をいまここで死ぬイエス)、木像様を、ある意味では、本気で実体として拝んでいるわけではないとも言えますが、実体としてあるわけではないというそんなことは当然知っていて、それでもなおかつ、だからこそ、あたかも実体としてあるかのように礼拝すると、「自ずから」信仰がやってくる。つまり、信仰を賜るということを「愚かにされる」と言っています。  外部にある宗教儀礼という無意味で非合理的な自動機械は、自分の内部の信仰という無意味で非合理的な自動機械の物質的な基盤であると言っています。  行=信の直結。一気、一足飛び。ジャンプがあります。  ということは、すでに信仰をもっているかのように行動する→信仰が自然にやってくる、なのですが、実は、その後、振り返ってみると、遡及的には、事後的には、元々信仰は与えられていたことになります。  自分には信仰は与えられていたのだが、自分に信仰が与えられていたことを「知らなかった」ということが、後から分かるわけです。  「主体」というのは、そういう、不思議なものです。  主体には、単なる自動機械でもあるという側面もあり、また主体には、事後的に、遡及的には、元から自分に信仰を与えられていたことを自分では知らなかったという形で、知らなかったという特殊な形で知っている主体という側面もあるわけです。  いつでもつねにすでに、絶対的他者から、呼び掛けられていたという気づきが、後から分かる。  そういう、どこでにもない場所、立脚地として、主体はあるわけです。  そうすると、絶対的他者が主体とは別個にまずあって、しかるのちに、主体が形成されるのかというと、それも、考えてみると、そうとは、考えようによっては言いきれないことも分かります。そうも言えますが、そう言い切ることもできませんね。  あたかも主体が実体としてあるかのように想定するから絶対的他者があるかのように見える、と同時に、絶対的他者があたかも実体としてあると想定するから主体があたかもあるかのように見える……  となります。  論理的時間の問題。  「主体」とは、そのように、極めて不思議なものですね。  結局、主体性は、個体には内属しない、ということが分かります。  

  • otherwind
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回答No.15

清沢満之が  吾人の世に在るや、必ず一つの完全なる立脚地なかるべからず。もしこれなくして、世に処し、事をなさんとするは、あたかも浮雲の上に立ちて技芸を演ぜんとするものの如く、その転覆を免るること能はざること言を待たざるなり。しからば吾人はいかにして処世の完全なる立脚地を獲得すべきや。蓋し絶対無限者によるの外ある能はざるべし と言っています。  「世に在るや」「世に処し」というのは、日常生活です。いわば虚偽意識の世界。真理の領域ではない。真理に生きよとは言っていない。虚偽意識を生きよと言っている。  日常生活においては、人間は、自己というものがあたかも実体として外在しているかのようにふるまっている。  自己というものがあたかも実体として外在しているかのようにふるまえなかったら生きられない。生命発動としての生活が有り得ない。  虚偽ではあろうが、自己というものがあたかも実体として外在しているかのようにふるまおう、と言っている。  自己というものが空虚に過ぎないという真理に対する根本的な無知があってこそ、そういう根本的な無知によってのみ、自己というものがあたかも実体として外在しているかのようにふるまえる、生活できる、生きることができる。    真理に対する無知こそが、日常生活を生きられる条件である。  自己は自己の前提条件を誤認しているという基盤の上にのみ「ある」。  よって、清沢が言いたいのは、自己はそれ自体の条件を反省、理解できないことではない。  清沢が言いたいのは、自己が、自己により節制できない煩悩によって翻弄されているということではない。  清沢が言いたいのは、自己がそれ自体の条件を反省・理解してしまったとしたら、自己があることそのものを失ってしまう、ということである。  自己は、きわめて脆い土台の上に立っている。土台について、思考すると、人は自己の土台を崩壊させてしまう。自己は真理を得ると、自己の存在を失う。真理を知ることは致命的である。  本当の自己が、(どこでもない場所に)、実体として、外在しているという虚偽意識、幻想を崩壊させてはいけない。 真理に到達してしまうことは死である。真理に近づくことは幸福を失うことである。  愚かさによる幸福は、無知という基盤の上でのみ可能である。  結局、このパラグラフで言っていることは、絶対無限者を信じないで、信託せよと言っている。  信託するのに、信じる必要はない。  信じなくてもお任せすることはできる。  そうふるまえば、救われる※。  自分は信心が不足なんじゃないのかと、一生、自分の信心を疑って鬱々過ごしている暇があったら、お勤めが勤まります、とかでしょうか(^0^;)。   ※ じゃあどうしたら、そうふるまえるのかというと、本当に本当に信じているようにふるまう以外の方法はないわけですが(^0^;)。論理的に。ご本山の報恩講にお参りさせていただいたら、お隣にお座りになられた方が、赤本を畳に直置きされてましたが、それは、まずいです。阿弥陀如来像、木像様をおつくりさせて頂いて…というようなことは、必須条件です。別に偶像崇拝に退行しているわけではないです。逆です。阿弥陀如来は実体としては外在しないということを知らないでやっているわけではないため。実体としては外在しないからこそやっているため。  なお「必ず一つの完全なる立脚地なかるべからず」は、なんだか、「必ず一つの完全な立脚地がなければならない」のように、一般には訳されているというか解釈されているような気がしますが、違うと思います。  「なければならない」ですと、「ありえる」ことになってしまいます。  でも「絶対無限者」は、「ある」わけではないのだと思います。  「絶対無限者」は、「ある」と言っているわけではない、と言うか、「ない」と言っているのだと思います。  それが言い過ぎなら、  あるかないかを言うことはできないが、それでも、「なしではすませられないものである」のだと思います。  ないのだが、なくては生きていけない  浄土仏教という物語にコミットせよ、ということでしょう。

  • otherwind
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回答No.14

> ご質問は、自分って誰なんだっていう問題にも関連しますよね。 > 生まれるってどういうことだ、っていうことにも。 まったく仰る通りですね。私も全く同じことを思いました。 言い換えたら、 還相廻向の主体とは何ですか? というご質問と同じですよね。 「命終その期ちかづきて 本師源空のたまはく 往生みたびになりぬるに このたびことにとげやすし」 とあるけれども、そこで、 極楽浄土と娑婆とを、往ったり還ってきたりしている主体は何なんでしょうか? というご質問と同じですよね。

回答No.13

 こんにちは。  ★ ~~~~~  人は命終わる時に阿弥陀仏の本願力に救われて浄土へ往生する。  その救われる主体というのは何なのでしょうか。  ~~~~~~~  ☆ 《命終わる時》かどうかは分かりませんが 《救われる主体》とは いまここでこうして問いを繰り出しているあなたご自身です。一般的に《わたし》であり 一般的に《いま・ここなる〈わたし〉》がすくわれます。  ★ ~~~~~  煩悩具足の凡夫である「私」のこの体を離れて、  私の中のなにが浄土へと生まれて仏と成るのでしょうか。  ~~~~~~~  ☆ ですから《この体を離れ》ることはありません。体も込みです。  《わたしの中の何》というのではなく 《わたし》の全体が成道します。  煩悩もいくらかの慈悲や愛もみないっしょに人格の全体としてすくわれます。  すでに初めからブッダの状態にありうる存在であったから その時その一瞬に成道するのですが もし何なら その一瞬をはさんで ふるきわたしと あたらしいわたしとに分けて捉えれば 《仏と成る》という実感が湧くかも知れません。  誰もがその《わたし》に 前史と後史とがあるわけです。  後史に入っても――つまりは成道したとしても―― 完成しているというわけでもありません。それは ほかの人びととの兼ね合いで 実際には部分的なブッダであるという状態になることになります。  縁起共生と言いますから 独立した個人としての存在であると同時にわたしたちは 人びととの関係として存在しているという側面をも持ちます。同時にです。その兼ね合いでは ひとりが先行するとしても 完成したすがたでそうするものではありません。  でも《わたし》の全体が すでにブッダなのです。すでに全体としてブッダであるのに 社会に生きる縁起共生にあっては そのブッダとなること・ブッダであること自体が 空観のもとに見られることになります。またそれでこそ ブッダであるというものです。  つまりすでに全体としてわたしはブッダであるが なお人との関係性においては 部分的な完成でしかない。それは 無住処涅槃と言って むしろわざと完成しないのです。完成させないすがたで この世界にとどまるということになっています。  たぶんそのほうが たのしいでしょう。そのはずです。よろしく。

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