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往生の主体

浄土真宗の駆け出し僧侶です。 人は命終わる時に阿弥陀仏の本願力に救われて浄土へ往生する。 その救われる主体というのは何なのでしょうか。 煩悩具足の凡夫である「私」のこの体を離れて、 私の中のなにが浄土へと生まれて仏と成るのでしょうか。

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  • otherwind
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回答No.12

 2000字制限で話が途中になりました。    五重塔を寄進したら極楽浄土にお参りできますというのと、人を傷つけるような発言を控えるように精進したらお浄土にお参りさせて頂けることができますというのは、構造的には同じことですね。  道徳です。  それまで、庶民は道徳を教えられてきたわけです。  しかしながら、道徳というのは裏切り、嘘ですよね。考えようによっては。もちろん、わざわざ悪いことをしようとは言いませんが。  (罪人が罪人のまま救われるというマルティン・ルターまで時代を下らなくても、そもそも、人間の側の意志は非常に無力なので救われるのは神の恩寵だという聖アウグスティヌスで、すでに、わざわざ悪いことをしようとはならないだろうという議論があったはずです。キリスト教教学論争、異端への反駁という文脈なので、本当にわざわざ悪いことをしようと言っていた人たちがいたのかどうかは分かりません。言っていないのだが、あなたがたの言っていることをそのまま延長すると、わざと悪を成そうとなってしまうではないか…と言っているだけ、意図的に誤解しているだけの可能性はあります。)  まだ死にたくない!とか、泣き叫びながら死んで行ってもOKとなって初めて、庶民は、絶対に裏切られることのない教えにであったわけです。どんなに、みじめな死に様でも全くかまわないという教えだけが本当の真実の教えですね。  これは論理的にそうなる、そうでしかない、ということもそうなんですが、庶民は、直感的に、体で分かったというか、心の底から肯いたというか、そういうことがあったのだと思います。  いきなり車に跳ねられて、念仏する暇もなかったとか、大いに有り得ますからね。  というか、普通の死に方というのは、お酒に酔っぱらって夜道を歩いていたら、路肩を踏み外して、溝にうつ伏せに落ちてしまって…とか、のお間抜けな死に方をするのが現実。普通。ありふれた死。念仏称えながらというのは一億人に一人いないとは言いませんが、極めて特殊。一般化すると、どんな死も、ある意味、究極にみじめであり、最高に間抜け。しかしながら、どんな生にも尊厳があるように、どんな死にも尊厳があるわけです。つまり、どんなみじめな死に様でも尊厳がある。そう言うことだけが真実の、絶対に裏切られない教えです。  死ぬときに穏やかでなければいけない…というような、精進の極限、人類史上、0.1%の人しか実行できない、究極の難行苦行だったら、そんなものは真の教えではないです。  だいたい、死ぬときに自分はみじめな死に様をさらすんじゃないかなぁと、一生、悩ませる、束縛、呪縛は、救いの正反対ですよね。なぜなら、死ぬときに自分はみじめな死に様をさらすんじゃないかなぁという恐怖は、誰にでもあり、克服できません。私は念仏してるし聞法してるから大丈夫というのは、虚偽であり、傲慢の極みです。 

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回答No.11

 hayata_さん、ANo.7 ANo.9です。  ご質問は、自分って誰なんだっていう問題にも関連しますよね。  生まれるってどういうことだ、っていうことにも。  そしてこの宇宙って何なのだっていう事にも。  そして、認識や経験の機構にも。  私も実は6歳から8歳までは、非常に不思議になって、きょとんとして自分の四肢などを眺め回していました。  早産で生まれ、いつもみんなと人並みのことが出来ないで一人でいましたので。  でもここ40年ほどの勉強で、西洋的科学や論理ではありませんが、ヒンドゥ的哲理では理解と実感ができております。  無論精進が伴いますが。この勤行がなくなれば、全く何も離れてしまう世界になると存じます。  その勉強がANo.8でご紹介した、哲理でした。  仏教的などの勉強をしても、同じような結論かと存じますが、私にはここの説明が一番よく納得できたものです。人ぞれぞれですからね。

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  • otherwind
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回答No.10

 人間の欲望とは何でしょうか?他人から愛されたい、尊敬されたい、畏怖されたい……等々、まとめると、他人から認められたい(逆は他人から無視されること)というのが人間の欲望ではないでしょうか。人間が欲望しているのは他人から欲望されたいといことではないでしょうか。お互いに他人が何を望んでいるのかを想像しているだけで、人は自分の即自的な自分固有の願いは知らないわけで、人は実は利己的には原理的に成り得ないわけです。人は自分が何を欲しているかを知らないわけで、人間はその立脚地を知らず、自分は何を欲しているかを知らないわけです。人間は主体的ではないわけですね。原理的、根本的に一切、全く主体的ではない主体……、そうした「主体」とは一体全体、何でしょうか……?実に難しい問題です。  また、人間が欲望しているものは他人の欲望それ自体であるということになり、人間の欲望は決して満足されないことになります。  人間の欲望が決して満足されないのであれば、原理的にいつでもつねに人間の欲望が決して満足されないのでれば、であれば、人間の欲望は満足されないという正にそのことによって解消している、と考えられます。論理的にそうでないとおかしいですから…。  人間は他人に認められたいという仮説を立てましたが、では、仮に、本当の自分が他人に分かってもらえる、理解してもらえるということが、いかにも起きそう、そういうあり得ないことが、有り得そうに思えたらどうでしょうか?人は否定するわけですね。いや、私の気持ちを本当に分かってくれる人がいるはずがない、と否定します。あり得ないと。何故でしょうか?他人に理解されないという正にそのことが、固有の私、この世に一つだけの存在である「この私」というものが、どこか別の場所、どこでもない場所にあるということの証明になっているからです。かげがえのない私、私の固有性というものがあるのだとすると、それは、定義上、原理的に、他人に理解できるはずがありません。他人に理解されてしまうようなものは、この世に一つだけのものでは論理的にあり得ないからです。「あなたという人間がどういう人間かは私には分かっています」と言われることほど、人間を怒らせるものはありません。あるいは、「恋は盲目」とか言いますが、正直に自分を見つめてみると真っ赤な嘘ですね。恋している二人ほど、相手のあら探しを必死でやって、この人が私のことを理解してくれる人であるはずがないと、全身全霊で否定する人たちはいません。  こうしてみると、そもそも「主体」「私」というものは、どこでもない場所にある、「ない」とも言い切れず、「ある」とも言い切れず、言語化できない、自分から見た世界に99人が見えて、自分ではその99人は理解できている、見切った、分かったつもりになっている、そういう自分から見た世界の内部とも言えず、外部とも言えませんが、見えていない穴としてだけ、闇、非ー知としてだけ主体というものがある(というのか不在としてのみある)わけです。阿弥陀様からご覧になられたら100人いるのでしょうが、人は自分は見えない、理解できない、穴ですから、いつでもつねに、自分を勘定には入れられません。これは原理的に入れられないのです。自力で修行を積んだら自分を直視できるということはあり得ないです。いつでもつねに人は自分は見えません。これは言える、これは言える、これは言えると、言語化できるところを言葉で埋めて行くことで、言葉がその周囲を旋回する穴としてのみ、主体、私が、不在としてある。  そういう、世界の残余、残滓、ゴミ、カス、スカ、穴が、私、主体であると、そういう穴に自分の立脚地を持っていけて、穴に同一化できたとすると、完全なる涅槃というか、もう、何の余りもない成仏というのができる理屈かと思いますが、生きている人間には不可能です。つまり真理には致命的なものがあります。生きているのに真理を得るのは不可能です。自分を失わずに真理に到達することはできないからで、自分、虚偽意識、自我を持ちつつ、真理に到達することはできないからです。  だったらどうしたら良いのでしょうか?信心獲得したい、信心決定したい……と、一生思い続けて、一生聞法したが、とうとう、信心は賜らなかった…、阿弥陀様とは本当に慈悲深いお方じゃ、信心得たら怪我するでなぁ…、でも、何の不足もない六字は、生まれる前からいつでもつねにすでに頂いておりますから、それでは皆さんまたお会いしましょう…南无阿弥陀仏と言いつつ往生は一つの理想ですから否定しません。  が、どんなもがき苦しみ、泣き叫びながら死んで行ってもかまわない、善行積んでおかなくてもOKという教えにであったとき、人は、論理的に絶対に裏切られることのない教えに既にであっています。

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回答No.9

 ANo.7:そうなんですANo.8さんの回答通りが、私たちSelf-Realization Fellowshipでのしょうじんでもあります。他力なるが故に自力。自力なるが故に他力。  煩悩具足の自分現象存在をを母なるガンガ(ガンジス)に預けるための精進です。  親鸞聖人もそういう意味があったかとも存じます。他力のない自力はありえません。

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回答No.8

 阿弥陀仏に救われて「仏」となる、と云ってもそれは“悟りの世界に入れた”という意味ではないと思います。  あえて言えば、悟れない煩悩具足の衆生だからこそ、その身そのままで救おうというのが阿弥陀様のお気持ちでしょう。  穏やかな安らぎの世界へ導こうという心なのです。  死ぬ間際になっても現世に執着する心が強いと、成仏できない。だから我が生みの親である阿弥陀仏のみ胸にい抱かれようとの思いで「念仏」すれば現世への執着心は消えてしまう。  ・・・・・のではないかと思います。  

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回答No.7

 吉川英治や倉田百三の“親鸞”、“出家とその弟子”しか読んでいません。  でもそんな私も、中学の一時期、60年前には夢中でした。    今はあるヒンドゥ的哲理の勉強と精進で40年。  敢えて阿弥陀仏ということば、ご本尊様の名前を使わせてもらいます。  肉体にいようが、どんな肉体でどこにいようが、肉体にいなかろうが、どこにいようが。  阿弥陀仏に信頼しきり、全てを托し托され、そのいわれる通りが自分だと思うようになる。  その自分とは全体から個別的(あくまでも“的”)におもっている、表面的意識が正体でしょう。  その表面的意識は意識の内容であり、結果にすぎませんでして、それを見ている本体意識がある。  その本体意識における見え方を個別意識と思っている。それがなぁんだ、そうなのかと見えてしまう。  それだけでしょう。  Self-Realization Fellowshipという団体の哲理ですが。  日本: http://www.srf-tokyo.org/tokyo_group.php  本部: http://www.yogananda-srf.org/  ここのは一つの哲理での修行・行の技法でもあるので、プロテスタントやカソリックの聖職者、禅などの仏教者も方も勉強のためにお出でになっておられます。  日本の団体を通す必要もなく、直接自宅レッスンを(英語で取ること)やってみること。そしてバガヴァッド・ギータを読むことを奨めますが、真宗さんのご僧職として間がないなら、そこの最後まで行ってください。  または未だ間がないうちだからこそ、そういう他の事もやってみてはいかがですか?  でも私は、真宗さんのことがしっかりしてから、ほかの事に目を向けるほうがいいと存じます。

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回答No.6

あの世の存在によって救われるのは、現世における懊悩です。 (あの世がなくても)

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回答No.5

 耳学問(みみがくもん)程度の知識しかないので、例えでもって考えを述べてみようと思います。(方便ではありません。)  神や仏の精神を海、大海にたとえれば、巌に飛び散る波しぶきが我々、地球上に現れた生命。  神や仏の精神を母、と見るならば、生まれ出た子が我々。  人間はなぜ、生まれると「おぎゃ~」と“産声”を上げるのでしょう。  しかもその表情はいかにも苦しそうに見えます。  それは、母体から離れて「個」となったから。  たぶんこの世を「個」として生きなければならないことの“怖さ”を、“恐ろしさ”を感じているのではないでしょうか。  また生きる、という事は「煩悩」という“衣服”を纏うという事でもあります。  でも、その煩悩と云う衣服の内容は我々が四六時中どっぷりとつかっている“喜怒哀楽”という世界。  阿弥陀仏はそうした命そのものを、あるいは人間の、苦しみながらも生きなければならない姿を見て、心を痛め涙し、我が腕の中にい抱かれよ、と手を差し伸べるのです。  阿弥陀仏の救いは、煩悩具足のままのこの身を阿弥陀様に投げ出すことで得られる(往生)ように思うのです。        

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回答No.4

それは『命そのもの』です、或は『命の働き』と言っても良いものです。それは元々生まれる者でもない事から、滅する事がない者です。既に永遠の存在である自分自身に目覚めると云う言い方が適当かも知れません。 自分自身は有限の存在ですが、自身の中には『永遠そのものと云う自身』も共存しています。その者に気が付く事によって、有限の身であるこの肉体が滅びる事は、それ程重要ではない事に気が付くことを意味しています。 その事を勘違いする事が『死に対する恐怖』と云う事になります。或は不安と云うい方でも良いと感じます、生きてゆく事自体を不安と感じている場合、自身の命の働きと上手く言っていないことを意味しています。 自分と自分自身の命が仲違いする場合は、絶えざる、内からの不安にさらされています。自分自身と向き合う時間が来ると不安になる場合です。忙しい時には苦にしない事が、一人になって自身と向き合う時間が来た場合です。 この事を、キリスト教では、失楽園、或は『罪の意識=原罪』と言っています。仏教の場合では『一切皆苦=業=生きる事には苦しみが付き纏っている』と云う事をいっています。 この事柄には総て理由があります。分かってみると簡単な理由です。ですが分かるまでは、簡単にはいかないです。人間の心の持ち方が『宗教の存在理由です』 宗教の存在するその訳は、一人の人間の脳内には二人の人格が存在している為です。或は人間の心には二通りの働き方が存在すると云う言い方でも良いかと思います。もっというならば、自我意識は、心を形成する総てではなくて、その半分という事になります。 この事をもっと具体的に言うならば自我意識は感情が湧き上がる存在ですが、実は感情を湧き上がらせる存在も、もう一つの自分の心と云う言い方も出来ます。従って自分の心を形成しているものは二つの要素から出来ている事になります。 感情が湧き上がる者は自分の自我意識ですが、その意識に、『感情を湧き上がらせる情報を送る者』も自分の心の中には存在しています。 その者は、人間を『最も人間たらしめているものです』ツバメがツバメの行動をするように、ライオンがライオンたる事を脳内の遺伝子から汲み取っているようなものです。その者は人間としての総ての遺伝子を脳内に蓄えて生まれています。命その者の働き、心そのものの働きを既に蓄えて、生れ落ちています。 その証拠を少し書いて見ます。悲しい場面では『総ての人がその悲しさを共有できています』嬉しいと云う事、怒り狂う事、慈悲の心、寛大の心、不安と云う事、安心と云う事などです。赤ん坊が『何を習わなくとも総てが備わっていて、ないたり笑ったりする事です。』 息をする事も、心臓を働かせる事も、ホルモンの調節をする事も、腸が正常に働く事等も、何も習わなくとも人間は知っている事です。この習わない事が分かっている事は、自身の中にそれら総てを調整するものが存在しているからです。 その者は『無意識の中に存在しています。』、”あっと”云う時、或は『思わずに行動する時など』自分が身体や心に行動する指示を出さない時に働いている者です。 その者は『言葉を持っていません』言い方を替えるなら、感情が湧き上がる時に『何かの情報を貰って』感情が湧き上がっています。それは言葉ではない情報です。 気配を感じる時、或は空気が読める時、本当は貰った情報から、その情報を頭で再構成して人間は言葉にしています。 人間が孤独を感じない『心的態度』とは、この者と手を結んでいる時です。『人が命終わる時、その者と一体となっている事が=阿弥陀仏の本願力に救われて浄土へ往生する。』と言います。その反対に、孤独を感じたり、死の恐怖に怯えている時=その者と対立と分裂を繰り返しています。つまり『心の矛盾』を、自我意識は受け取っている事を意味しています。 心の矛盾の解消が『自分自身を知る事』つまり、阿弥陀仏の本願力に救われて浄土へ往生する。と言います。禅的に言うなら、『見性成仏』と云う事になります。或ははキリスト教的にいうなら、『神に会って和解する』と云う事になります この意味するところは、人間の脳内の二つの意識が手を結ぶ時です。他の言い方をするなら、『自我意識』と『無意識の意識』が手を結ぶ時です。判りにくい言い方をするな、感情が湧き上がる自我意識が、感情を湧き上がらせている者と手を結ぶ時です。 脳の説明で言うなら、感情が湧きあがって意識出来る言葉を持っている左脳が、脳梁を介して『言葉に拠らない情報』を送ってくる右脳の意識と、『心の根底で=意識と無意識が交替する時』出会う事によって、救いが成就します。禅問答とは、右脳の言葉を持たない意識『仏性』を引っ張り出すためのテキストと言えます。或は、書かせたものかも知れません。

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回答No.3

ああ、救われる主体なんてあるわけがないんですよね。 だからいわゆる「私」っていうのは救われません。 主体がないから仏は救われているんですよ。なにせ仏なんですから。

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