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「うつくしい」って何ですか?
一瞬のきらめきをうつくしいと思います。 いつまでも変わらず在る姿をうつくしいと見つめます。 真冬の透明な川底をうつくしいと覗きます。 春先に雨ごとに濁りを深める川をうつくしいと思います。 周囲と溶け合って共存するものをうつくしいと思います。 圧倒的な存在感で環境を一変してしまうものをうつくしいと見ます。 「ハッとする」ものでしょうか。 でも危険や嫌悪対象にも人はハッとします。 ハッとした後の受容、が必須でしょうか。 同じ物をうつくしいと見る人、醜いと見る人、の違いも出て来ます。 ハッとしたその「心地よさ」が、うつくしいの認識でしょうか。 「よいもの」の総体的表現?が「うつくしい」であるようにも思います。 Wikipediaの「美」も覗いてみましたが、 もう少しわかりやすく、と言うか、全体的な表現は無いものか?と思いました。 私が「うつくしいと思う人の心の動き」を主眼に置いているからかもしれません。 「うつくしい」は様々な感性で語られますが、それらに共通する「心の動き」は何なのでしょうか? 当たり前のように「○○はうつくしい」と書かれ、その「うつくしい」って実は何?と言うあたりは不問の場合が多い気が致します。 人間に必要だから生み出された?発生した?概念であり感覚であると思うのです。 生活の視点で説明するとしたらどうなるのか?をお手伝い頂けないでしょうか? よろしくお願いします。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 ★ 「うつくしい」って何ですか? ☆ という問いに対してなら つねにただちに次の文章を挙げます。じつは すでにお伝えした文章です。 ◆ (アウグスティヌス:三位一体論) ~~~~~~~~~~~~~~ だから 魂は 善き意志によって 私的なものとしてではなく 公共的なものとしてこ のようなもの(* 端的には 情欲のこと)を愛するすべての人 すべての人によっていかなる偏狭や嫉みなく清らかな抱擁によって所有 される 内的なもの 高みにあるもの 内的なもの 高みにあるものを捉えようと 自分のためであれ 他者のためであれ 気遣うなら 時間的なるものの無知によって ――魂はこのことを時間的に(*ものごとの相対的な判断によって)為すから―― 或る点で誤り そして為すべきようになさなくても それは 人間の試練に他ならない。 私たちが いわば(* 巡礼のごとく)帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは 偉大なことである。 それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがってきわめて容易に許されるのである。 しかし 魂が身体の感覚をとおして知覚したものを得るために そしてそれらの中に自分の善の目的をおこうとして それらを経験し それらに卓越し それらに接触しようとする欲望のために 或ることをなすなら 何を為そうとも恥ずべきことをなしているのである。 魂は自分自身の身体に対して罪を犯しつつ姦淫を行なう。 また物体的なものの虚妄の像を内に曳き入れ 空虚な思弁によって それらを結合し その結果 魂にとってこのようなものが神的にさえ見えるようになる。 自己中心的に貪欲な魂は誤謬に満たされ 自己中心的に浪費する魂は無力にされる。 しかも魂はこのように恥ずべき 惨めな姦淫に はじめから直ちにとびこむのではなく 《小さなものを軽蔑する人は次第に堕落する》(『集会の書』19:1) と聖書に記されているようになるのである。 (12・10 中澤宣夫訳 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 《うつくしいと感じる》のは 《わが心が えも言われぬそよ風に吹かれてやわらがしめられる》ことだと考えます。 わたしはこの文章によってでしたが 絵画や音楽あるいは自然の景観さらにあるいは人のおこないや心映えなどでもやわらがしめられるものと・つまり うつくしいと感じるものと思います。どうでしょう。
圧倒的な存在感で環境を一変してしまうもの は、「美しい」 ということが 出来ません。もう少し具体的に見て、考えて みる必要があります。 なぜなら「環境毒」が、美しいということはありえないからです。 テロリストは、基本的に 鼻くそをほじくるキモイ(そして もてない)おっさんたちです。 何ヶ月も風呂に入っていない人が、やってきて「その臭さで」「周囲の環境がころっと、変わったとしても、(ハットはしますが) 「その人が美しい」とは到底言い及ぶことが出来ません。 逆に「臭いおっさん」。「加齢臭のくそじじい」という概念の正反対は、概して美しいといえます。 ぬくぬくと他人の成果を横取りして満腹の生活を送る人間 自分は濁っていないと主張し、努力・同感・歓喜等かけらもない純粋な「自己への執着」で澄みきった がみがみじじい。 周囲に溶け込めず一人ぼっちの暴言おとこ。 常に他人の背後から歩みより、抜き足差し足で忍び寄り、後ろからおおごえで他人を「わっ」と驚かせる。そういう常識のない頑固者は美しい人ではありません。 ウィきぺでぃあは 美しくない。おっさんです。美しくない人・ものに美を とうても無意味でしょう。まずは自己について自分が完璧な美を体現していないとしたら、具体てき「醜悪」が何かをつきつめ、見つめてみることです。 え つまり わたしは、くそじじいの反対が「美しいものの総称」であると思います。
お礼
たらこ様、回答寄せてくださりありがとうございます。 >>圧倒的な存在感で環境を一変してしまうもの >は、「美しい」 >ということが 出来ません。 とは限らないと思います。 もちろん別の表現の方がしっくりする、と思われる方もいらっしゃるとは思いますが。 そして、 >>圧倒的な存在感で環境を一変してしまうもの が >「環境毒」 とも限らないと思います。 「ちから」や「権力」という物は、何かと醜く言われがちですが、 その権力でもって人を助けた人物は歴史上数え切れません。 もちろん、権力でもって他者を虐げた者も大量にいるわけで、 むしろそちらばかり人目を引きがちですが。 醜いのは「ちから」や「権力」そのものではないと考えます。 「ちから」や「権力」は環境を変化させるちからです。 よくも悪くも使える、という点で、私は「ちから」というものに美しさを見ます。 ここ数週間でしょうか、もちろんそれ以前からもありますが、 こちらのカテゴリでいくつかの質疑を目にしてきました。 ところが、私って人より「悪意感知受信アンテナ」の精度が極めて劣っているようです。 どこから沸き起こってきた問題なのか?がつかめません。 いくつか問題とされている以前の質疑は、私もかかわっている物も多いですが、 そこで感じたものは「他者との理解の難しさ」でしかなく、 「悪意」は感知してきませんでした。 相互理解の難しさと、自らの力不足を悲しんで場を離れた事は何度かありますが、 なんだろう、、、悪意を感知してその為に断絶したという意識は持っておりません。 加えて、私はあまりあちこちを読んで歩くと脳内情報許容量が低いらしく、 情報過多でパニックに陥るので、意識して幅広い拾い読み・閲覧は控えております。 そんなあたりで、人様よりもおそらく理解力に劣ります質問者です。 頓珍漢なお礼となっておりましたら、 せっかくのご回答を読み取れなかった力不足をお詫び致します。 ありがとうございました。
- 雪中庵(@psytex)
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人間の脳には、五感の相関した経験の蓄積において、 次にその1つの感覚を同じパターンで刺激された時に、 五感の総合したイメージを励起させるという働きがあります。 その最も分かりやすい例が、色でしょう。 物理的には、「色」とは電磁波の可視領域の、連続的な波長の変化に過ぎません。 「赤は青の反対」などという根拠は、どこにもありません。 その「波長の連続的変化」という一次元に、五感の相関した経験の蓄積において、特定の波長に対して条件反射的に(その波長に伴う経験の)印象が付加される事で、“多彩”さは生じているのです。 赤の印象を分析すると、火や血、肉、花などの異なる原因による長波長を伴う現象の経験(温かい、危険、食欲など)が、青には、水や空といった短波長を伴う現象の経験(冷たい、爽やか、静寂など)が、潜在している事が分かるでしょう。 この「総和機能」において、人生における快適な経験の総和における、視覚的刺激パターンが「美」です。 それゆえに、成長期で好奇心旺盛な(しかし経験の蓄積の少ない)子供の頃は、ケバい色や動くものを好むし、世界の各地域によって、美的センスは異なってくるのです。 (砂漠地域では青や緑が好まれ、空白恐怖と呼ばれるほど装飾で埋め尽くす)
お礼
psytex様、わかりやすく説いてくださりありがとうございます。 >五感の相関した経験の蓄積 「うつくしい」を呼び起こす蓄積された経験となると、 その内容は、安全、安心、快といったあたりの結果の感覚となりましょうか。 >人生における快適な経験の総和における、視覚的刺激パターンが「美」 はい。 安心に包まれている事が多い幼少期は、とにかく美醜を問わず経験を重ね、 その結果、不快や危険や「快適でない」経験が得られる。 それら経験によって、改めて「快適さ」を意識し、 その希少価値を知る事が「うつくしい」の感覚へと繋がるのかもしれません。 ありがとうございます。
- moto_koukousei
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「うつくしい」「すばらしい」「かっこいい」「すごい」「ハッとする」「心地よい」「良い」「善い」「好い」「佳い」は違う用語です。区別をつけずに入れ替えても通用することが多いですが、いつでも入替可能ではありません。 「一瞬のきらめきを美しい:変わらず在る姿を美しい」「透明な川底を美しい:濁りを深める川を美しい」「溶け合って共存するものを美しい:孤高にそびえるものを美しい」「スポーツに汗する姿が美しい:シタールの表現が瞑想をイメージするほど美しい」「子供の寝顔は本当に美しい:真剣な表情も美しい」「E=mc2は実に美しい:あの舞は実に美しい」 うつくしい(美しい)も、自然現象、たたずまい、存在のしかた、行動や動と静、安らぎと緊張、理論や演技あらゆる場面に使う用語です。 美しいに共通する要素は、(1)美的で(2)快く(3)うっとりできるの3つです。 醜悪なもの、不快なもの、ほれぼれの反対(受け入れたくない感情)が起きるものは、美しいとは感じません。 他にも要素はあるのかもしれませんが、(1)美的で(2)快く(3)うっとりできるの3つが『美しい』と感じる上で重要だと思います。 その中で(1)美的で(2)快くは、副次的な要素であると思います。 (3)うっとりできるが一番重要な要素だと思います。 うっとりしてしまうと、快く感じ、快く感じると美的に思えるという面があります。 『美しい!』と感じ入ってしまう直前までは、単なる渓川や大雨の濁流と見ていたのに突然美しさに気づいたりします。 武者小路実篤の友情に「自然はどうしてこう美しいのだろう。空、海、日光、水、砂、松、美しすぎる」という一節があるそうですが、おそらく常時美しいと見ているのではなくて、ある瞬間にふっと「美しい」と思うのだと思います。 強風と強い雨で嫌だなと思っていてもその嵐になぶられていると気分が昂揚してうっとりしてこの自然は美しいと感じてしまうこともあります。 自然に限らず、建築物、美術工芸品、人の行為や表情、数式や理論等に対しても、自分の心が魅入られてそこに引きつけられてしまえば、うっとりし、日本語としては「美しい」という言葉が当てはめられるのではないでしょうか。 ~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~ 善悪の善は「美しいと感じる必要条件」には入っていないと思います。悪の美も強さの美もあります。 ~~~~~ ~~~~~ ~~~~~ 『人間に必要だから生み出された?発生した?概念であり感覚であると思うのです。生活の視点で説明するとしたらどうなるのか?』 空腹や満腹、眠気や爽快感などを必要が生み出した概念と思うのは不適切だと思います。犬や猫、虎、小鳥、鮎やタコでも餌を摂り、休眠しますが、その必要があるからと言って空腹や満腹、眠気や爽快感の概念を作り出す必要はありません。人間の場合はそういう概念がないと食事や休眠ができないということもありません。 美しい(うつくしい)という言葉や概念がないと生命維持や生殖に支障が出るということはありません。 ヒトは言葉を使う唯一の動物です。言葉が成立すると言葉を使うことが独自の成長発達をしていきます。思弁的な活動をしなければならないことはないですが、思弁的なことも可能になれば感情を表現すること、それも他人に対してではなくて独白する様な感情表現、味覚に関する表現、巧拙に関する評価表現だってできてきます。 一種の思索のマスタべ-ション・自己発振が精神活動の成長を促すとするなら、【この何かに魅入られるようにうっとりしている自分の状況】を、【対象物を美しいと感じている】と表現するような文化を創り、それを社会的・文化的に伝承してきたのではないでしょうか。 従って、まだ語彙が少ない幼子や知的教育訓練環境に育たなかった大人が、何かに魅入られたことがあったにしても、そのときに「うつくしい」とは思わないと思います。 自分が何かを見てうっとりし魅入られた気分に陥ったことを他人と共感的な理解に立とうとする場合、「美しい!」「あれは美しかった!」という端的な表現は都合が良いと思います。 相手が日本語を解さない人であったり、日本語表現の文化を継承していない人の場合には、「美しい」といくら言っても何も理解してくれないでしょうが、日本語表現の文化を継承している人であれば、その状況に立ち会っていなくても、また自分ではその海や松、空、舞台演技をみてうつくしいとは思わなかったにしても、発言者が「うつくしい」と表現したことを聞けば、発言者がどんな心の状態だったのかは理解できます。 【生活の視点で説明するとしたら】それが「うつくしい」という言葉の重要な効用・効果・存在意義だと思います。
お礼
丁寧なご回答ありがとうございます。 最近比較検討をサボり気味であることを反省致しました。(苦笑 >区別をつけずに入れ替えても通用することが多いですが、いつでも入替可能ではありません。 これの検証は得る物がありそうですね。 続いていろいろな「うつくしい」の列挙と、その検証、ありがとうございます。 >美しいに共通する要素は、(1)美的で(2)快く(3)うっとりできるの3つ はい。 ですが、(1)の「美的で」がまず解き明かしたい言葉です。 「美的で」という言葉がすでに「うつくしい」の意味を含みます。 「快く」は安全の感覚、その結果の安心の感覚が導く言葉かと考えます。 「うっとり」は、安心した上でそれを長時間続けられる条件下で表面化する感覚かと思います。 >強風と強い雨で嫌だなと思っていても >その嵐になぶられていると気分が昂揚してうっとりして >この自然は美しいと感じてしまうこともあります。 私は夏の大雨と強風の中で、わざわざずぶぬれを楽しんだりする人間ですが、 そもそも >強風と強い雨で嫌だなと 感じる・考えるのは、 前提としてそこに「その後の洗濯の面倒さ」や「雨風による身の危険」が経験則としてあるからではないでしょうか。 しかし >その嵐になぶられていると気分が昂揚してうっとりして 「うつくしい」と言う感覚の表面化には、 ある一種の「現実との乖離」が必要なのかもしれないとは思い当たりました。 >自分の心が魅入られてそこに引きつけられてしまえば、 その「魅入られて引き付けられる」過程の、共通項を知りたいと思ってしまいます。 >犬や猫、虎、小鳥、鮎やタコでも餌を摂り、休眠しますが、 >その必要があるからと言って空腹や満腹、眠気や爽快感の概念を作り出す必要はありません。 概念は無くとも「感覚」はありますもの。 私が問うているのは、概念ではなく「感覚」の方です。 でもそれを説明したり、質疑する為に言葉と概念を借りているだけです。 >【この何かに魅入られるようにうっとりしている自分の状況】を、 >【対象物を美しいと感じている】と表現するような文化を創り、 >それを社会的・文化的に伝承してきたのではないでしょうか。 見事です。 含蓄されているものを分解して、ひとつひとつ見つめてみたい一文です。 含まれるものが言葉の力を超えると、それも「うつくしい」と思う質問者です^^ 高校の時、微分の問題を解きながら、その「世界の切り取り方」に呆然とした事があります。 思いもよらない感覚でした。 その時は表す言葉が浮かびませんでしたが、 しばらく後に「ああ、これが美しいって事なんだな」と思いついた事を良く覚えています。 「うつくしい」の感覚は、言葉は違えど、各文化に必ずある感覚と思います。 その条件の違い、感覚の違いを含んでもやはり「共通する感覚」がある事は否めず、 その共通項を私は見つめてみたいと考えております。 ありがとうございました^^
- tacoru
- ベストアンサー率38% (100/260)
感情の動きを表現する言葉は色々あります。 例えば、「うつくしい」という感覚を「すばらしい」と表現する人もいます。 人間はもとより生物は、望もうと望むまいと「生命を維持するため」に目の当たりにする事象を常に判定する必要に迫られています。 これらの判断は殆どが無意識に行われています。 この判断の形態のひとつにマッチングというものがあります。直感的に自分に合うか合わないかを判定する行為です。 マッチングにおいて適合性の高い事象を、無矛盾性事象、または整合性事象などと言い表す事もできます。 この適合性の高い事象、無矛盾性、また整合性の高いものに巡り合うと、それを見つけた瞬間に満足感が生じます。 この感覚を「うつくしい」「すばらしい」「かっこいい」「すごい」などと表現します。 つまり、「うつくしい」という感覚は、自己とのマッチングの高い事象に巡り合った時の満足感を言葉で表現したものと言えます。
お礼
早速のご回答、感謝申し上げます。 >「うつくしい」という感覚を「すばらしい」と表現 はい。 ほぼ同義語としても活躍している二語ですね。 >「生命を維持するため」に目の当たりにする事象を常に判定する必要に迫られています 同意です。 しかし、その判定基準を >直感的に自分に合うか合わないか とする事には疑問を抱きます。 私は直感って一目置きますが、 それはそれらの感覚が決して「根拠の無い直感」ではないと考えるからです。 個人の人生のみならず、人類の歴史から形成された経験則=直感と考えます。 でも実際にその繋がりを説明するには あまりにも小さな事象の積み重ねと、気の遠くなる時間の積み重ねがあり、 論証するに困難を極めるのではないか?と。 しかし、 >満足感 は「うつくしい」には確実に存在すると思われます。 でも、「満足」だから、何かが満たされるのかな、、、 何が満たされるのか?を考えてみたいと思います。 ありがとうございました^^
お礼
ぶらじゅろんぬ様、お久しぶりです。 すっかり遅くなりましたお礼を失礼致します。 アウグスティヌスさん。。。。 わかり易いようでいて、煙に巻かれる?と思ってしまう私です。 申し訳ございません。汗 頂きました例文も例によって適当な直感で、 読んで勝手に浮かび上がってきた感覚で捕まえてみた感じです。 今回の獲物は 「うつくしい、という感覚は、対象物の在り方よりも、 観察者の心の在り様に拠って写し出される、生み出されるものだ」 と言ったところです。 終に三十路に足を踏み入れましたが、 未だ「文章の読み解き方」が掴めません。汗 きっと「ひとの心の見方」に自信がなさ過ぎるのだと勝手に原因を求めてみました。 いつもありがとうございます^^