• 締切済み

(自立的な)心は、本当に存在しますか?

多くの人は、自分の中に自立的な自分の心が存在していると思ってるのではないだろうか? しかしながら、深く考えるとそれは疑わしいと考えざるえない。 例えば、ここに一枚の白いキャンパスがあり、絵を描きます。 ABが、大きな構図を決めます。川のポジションを決めたり山の形を決めたり全体の配色を決めたりします。 CDEが、川の回りの植物を決めたり、山の色の微妙な色の変化を決めます。 F-Yまでが、手を加えて、絵を完成に近づけます。 途中や、最後に、Zが、全体の配色、形状に手を加えたり、好きな花を絵の中に入れたりして、絵を完成に近づけます。 さて、この絵の作者は誰なのでしょうか? 作者は分からないと思います。 心とは、この絵画に似ていると思います。 心を作る時、ABは両親、CDEが、兄弟、それから、F以後が親戚、学校の友人、先生、教育、書籍、体験したこと・・・etcとします。そして、Zが、自分とします。 つまり、自分の心とは、自由に自分の心が出来上がるのではなく、環境によって出来上がる物とも言えます。 こころは、自分の物ではなく、環境が作り出した入力に反応して出力するブラックボックスと言えるでしょう。 別の言い方をすれば、心は複雑なプログラムと見なすことが出来ると思います。 自分が自立的に存在していると思っている心は、複雑なプログラムで、入力に応じて反応(アウトプットしている)だけかも知れません。 それを、心が存在して、反応していると思っている(のもプログラムの計算結果)かも知れません。 プログラではない自立した心は本当に存在しているのでしょうか? それは、証明可能なのでしょうか? 自由な意見お待ちしています。

みんなの回答

  • mmky_GT7
  • ベストアンサー率0% (0/5)
回答No.20

yy8はいまだ独りよがりの生悟り。 それこそ好み、性質からくる思い付きでの連投ですね。 ご苦労様です。

回答No.19

『自立的な自分』と云う意味がはっきりしませんが、自分が自分自身だけで自分自身に決着をつけられているのか?と言う事で話を進めてみます。 この場合、自分の心と言うものを、詳細に分析する必要があると感じます。今、間もなく63歳の誕生日を迎える者ですが、14歳から32歳まで『死にたいする恐怖症』で苦しんで、完治した経験から『心の裏側が分かる』と言う事で、私なりの説明をしたいと思います。 人間の心の中で『自我意識』とは心の内の半分でしかない事が分かります。いわゆる顕在意識ですが、その機能は『意識して、分析をして、頭の中で言葉に置き換えるべき再構成をして、言葉によって考える。』機能(脳)という言い方が適当と感じています。 後半分は、『無意識の中に存在する者』です。或は無意識を取り仕切っている者と云う言い方のほうが正解です。無意識は意識と交替制を取っていますが、その事が、余りに巧妙に出来ているために、殆どの人は気付け無いでいます。 その者を説明してみます。人間が生まれる事になった時点からの脳の働きの一つですが、ヤモリはヤモリとしての『記憶』=『働き』(ヤモリをヤモリたらしめている働き)が有るのと同じように、ライオンにもそのライオンたらしめている働きがあります。その働きとは、脳内に刷り込まれたプログラムの事ですが、そのプログラムが人間にも人間たらしめているプログラムが存在している事です。 詳しく書く前に人間の脳内に二つの独立した『意識』=『人格』が存在している事をウイキベデアから、紹介しておきます。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が『それぞれ独立した意識』を持っていることを実証した。” 誰もが自分の心が二つ在るとは感じていなかも知れませんが、脳梁を切断した場合、『それぞれ独立した意識』を持っている事は実証された事実です。 この前提から話を進めたいと思います。人間を人間たらしめているものとは、哲学的に言うならば『実存』と云う事になります。或は西洋の精神医学的に云っても『識られざる神=実存』、宗教的に云うならば、『仏性』或は『神』と云う事になります。 この者の働きが未だ解明できていない事から、今の科学者や、精神医学会からは認められてはいないかもしれませんが、確かに存在しています。自我意識がその者と出会う事を『見性』と言います。ソクラテスが『汝自身を知れ』と云う事に相当します。 その者の働きを少し書いて見ます。生命活動総てを行っています。心臓や呼吸やホルモンの調節や自律神経系や交感神経副交感神経発汗等ですが、生命活動に関する全てをプログラムしながら、又そのプログラムを変更する働きも存在しています。 又『心』に対する影響力も大きなものを持っています。具体的に書くなら、生まれたばかりの赤ん坊には総て備わっているものですが、怖い事や安心すると言う事から始まって、人間が感じるもの総てを、その脳梁を通して『言葉ではない情報』として、絶えず送っています。 感動する場面では、『総ての人に共通な感情を湧かせる者』としての働きも存在しています。例え肌の色は違っていても、脳を持った人間として、同じ心を持っています。人間としての『種』としての特性、或は、人間の心としての特性です。この心を言葉で言うなら『宗教心』と云う言葉がふさわしいかもしれません。 自我意識に絶えず送られてくる情報とは、環境を認識するために送られている五感による情報です。この者と自我意識は何時も同じ環境にいますが、自我意識が見落としたものの情報も含まれています。その場合には『その場の空気として、或は殺気や雰囲気として』絶えず送っています。 危険が迫った時などは、自我意識の活動が待てなくて、『行動が完了している場合もあります。』その場合、思わずにとか、火事場のくそ力と形容する場合もあります。危険が迫った時など『ヒヤッ』とさせている者です。自我意識は絶えずその者の情報によって『感情が湧かせられている事』を意味しています。 そろそろ結論ですが、『自分の中に自立的な心が存在していると思っている事』は、自分の中の『無意識の中に存在している、もうひとつの意識』の存在を知る事で、疑問は解消します。 心を病む事、自律神経失調症、等は総て『心の矛盾』が原因です。無意識の自分と上手く切り替えが出来なくなった事を意味しています。自我意識には出来ない事を、出来ないと認める事が解消法です。

回答No.18

 「老境」  こんな心境になるのが、私の目標でもあります。  でも、未熟なせいか、いまだに心って何、真実の心ってあるの、なんてついつい、考えてしまいます。  だから、kunobouさんの質問、疑問に刺激を受け、反応してしまうのです。  以前、このカテで「主義、主張は“好み”という大木に生える枝葉のようなもの」といった質問をして、mmkyさんに共感され、勇気づけられましたが、「核」には“好み”が、あるいは“性質”といったようなものが備わっているのではないでしょうか。  その「核」が取り込む情報は、その「核」の好みに合わせて集合し、いわゆる“こころ”が出来上がってゆくように思います。  だから、「核」が取り込んだ情報を通して顕われる“心”も「私」と云えるように思えるのですが。  「自己」も「自我」も、自分なのだと。  

回答No.17

 もし心に 自立した心としての核があるとしたら それはお望みならば 仏性でしょう。(アーラヤ識とかいうところにあると言ったって それも心なのでしょう)。  神の霊がやどるといった言い方もするのではないですか。  つまりもしそうであるならなおさら 核がどうたらこうたらと詮索することもなく悠々と じっくりゆっくりわれわれは生きること・共生することへと歩めるというものです。  もっと言えば これは――もし聖霊のちからがはたらき目覚めた状態(ブッダ)にあるのならば それに聖なるあまえを甘えて―― おごそかなあそびとしてこの人生を送ることができる。のではないでしょうか。ちょっぴりはめをはずしたりします。  ですから プログラムどおりというわけには行かないでしょうね。いかなるソフトヱアよりもさらにおもしろいのではないですか?  それもこれも この世でもっともよわい・愛すべきこころとその庭をわれわれがおのおの持つからだと思うのですが いかがでしょう?  《自由な意見》でした。

回答No.16

 仏教では、心の根本を阿頼耶識と云い、でも凡人がこの部分を意識することはないらしい。  自覚できなくても、あるらしいのでそれを私は今回“核”と云ってみました。  kunobouさんは、この“核”が収集した情報が、“心”なのではないか、と問いかけたのだと受け止めています。  そして、こうした疑問を持つという事は“核”の存在を否定しきれない「くすぶり感」があるからだと思います。  ブラジュロンヌさんの、回答ナンバー12、14を吟味し、私の心のフィルターにかければ、釈尊の「悪しきを為さず善きを行え」という言葉が浮かび上がってきます。  “核”があるかないかにこだわっていても、何も生み出すことなどできない。そんなことにこだわっているのでなく、どう生きるかが重要なのだと。  

回答No.15

 子は親から生まれ出でて、個となる。    細胞分裂?  と、思えば中身は同じ。  同じゆえに、“共生”を求める。  “共生”を求める“心”は“自立した心”  “共生”を求める心は無意識の“力”に押されて。  障害になるのが“自立した心”にまとわりつく“情報”。  

回答No.14

 No.10&12です。  《こころ》が 一人ひとりの《わたし》に存在すると想定されたなら あとは これを生かすことです。  こころを生かしつつ生きることです。マ(間合いや人間組織としての間取りなどなど)にあって わが心の表わしたマアイが世の中の大きなマの構造によってかき消されてしまうほどにいわば社会力学の世界に生きていることが現実であるとすれば その《生きる》ということは 《人びととともに生きる》ことだとなります。  共生 これが こころの向かう先です。なぜならすでにわが心は その存在の想定そのコトにおいて 言うなればやすらぎを得ているからです。だからこそその自己表現として取るマアイが 人びとによって迎え入れられもすればかき消されもするということが起きます。  つまりすでにやわらがしめられているゆえに 共生というところに目を付けるのですから。そうでなければ 生き馬の目を抜いてあざむきあざむかれつつ またおもしろおかしく生きるしかないでしょう。  この縁起共生は 心に核があろうがなかろうが できることです。いちいちそのような形而上学にかかずらわっていることはありません。どうでしょう。  * また自立とか自律とかもどうでもよいとわたしは考えるのですが おそらく共生が成り立ったなら おのおのが自由に独り立ちしてなかなかよさそうな世の中を生きていることでしょう。

回答No.13

 彫刻家はまず骨組みを用意します。  その骨組みに、様々な情報を入力し、作品を完成させます。  心は、情報を受け止める“核”がなければ形作られません。  その“核”は凡人には意識できない世界。  だから、あるのかないのかわからない。  わからなくても、なければ不自然。  たぶん、“核”に様々な形や性質があってそれに適応した情報がプログラムされ、外見が出来上がってゆくのでしょう。

回答No.12

 No.10です。  ● 証明は、「心」が存在するという事、そのことでしか証明できない。  ☆ (1) あるいは《核》はありません。あるかないか分かりません。  (2) もし心ないしその核が存在するとしましょう。でもそれは見えません。心の目にも見えません。    (3) 言いかえると 心の目には――わたしの心の目には――見えるのだとうそぶく人間も出て来ます。デタラメ言うなと反応する人と少しは話を聞いてみようと思ったりする人に分かれるようです。  これは 心ないしその核があるかないか またそれが人間に分かるか分からないか これらが分からないからです。    (4) 言いかえると どちらに決め込んでも マ違いであろうし そして人間の知性の能力にとっては どちらも正解でありうると認めることになります。  突き詰めていけば 神があると思うのも 神はないと思うのも どちらも自由だということになっています。  (5) それだけ 人間のこころは広いのだと思ってみてはどうですか?  その限りで こころは存在しているようですよ。  (6) ただし《核》などという――あるいは《実体》などという――形而上学については わたしは知りません。ほかの人に訊いてください。その点 証明はくずれました。そういう形而上学が人間にとって欠かせないと言い張る人びとに対しては 証明は出来ません。  おそらくその意味での哲学者たちは そのおのれの哲学が神であるのでしょう。  お粗末でした。(最後のひと言で 証明は持ちこたえたかも知れません)。

回答No.11

 kunobouさんの云うところの「自立した心」とは  真珠を作るために阿古屋貝に入れる“核”の事。  雪の結晶を見ると形は条件によって様々。  その周囲の条件によって様々な形になる雪の結晶にも“核”があるはず。  その“核”に注目したのが今回のkunobouさんの質問。  証明は、「心」が存在するという事、そのことでしか証明できない。

関連するQ&A